気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

狂信的な大石寺の信徒。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺法華講さんの一部の狂信的な態度のことです。



Twitterをご覧になられている方ならおわかりのように、大石寺法華講信徒さんの多くは狂信的で、戒壇本尊の真贋や日蓮本仏説の根拠的な薄弱や矛盾点を突かれると、突然狂ったように大騒ぎして罵倒を始めます。中には脅迫まがいの言辞まで見られるほどです。


これらの罵詈雑言には「バカ」「アホ」「クルクルパー」等の一種稚拙な表現まで見られるほどです。


つまり日蓮正宗大石寺というところは、本山や戒壇本尊への絶対的な信を強調する余り、教義的な前提を考えることを宗教的な悪と考える原理主義的な傾向から逃れることができなくなっていまして、前提を見直そうとする他者や外部の論調に対しては頑ななまでに拒否するしかなくなっているんですね。


教義に矛盾があるなら、それを認めて、信仰の糧として今後どうして行くのか、思索を深めたり、自分なりに学んだり求めたりすることは、私は宗教的に有意義なことであると考えます。何も結論を急ぐこともないはずでしょうから。


ところが、日蓮正宗大石寺の信徒さんは、そうした教義的な矛盾点に目をつむり、それらを「間違った思想」として排除することが宗教的な正義であると勘違いされている気がします。結果、他山からも相手にされず、教義的にも孤立し、狂信的な信徒さんを多く生み出している現状があるように思います。


例えば戒壇本尊の相貌一つでさえ、その形が具体的にどうなっているのかと言うことをこちら側は資料をもとにブログ等で指摘しているわけですが、どういうわけだか「お前は見たのか」という論理にすり替えてくるんですよね。
だいたい正信会系や大石寺の一部僧侶さん、大石寺の旧檀信徒さんからも情報を得ておりまして、その上で相貌の問題を確認しています。
それが違うというなら、どこが具体的に違うかを述べればよいだけかと思うんですね。


例えば柳澤宏道氏の指摘にあるように、戒壇本尊と『御本尊七箇相承』の具体的な指示の相違があることを認めるのか、認めるのならば『七箇相承』の指示はなぜ戒壇本尊に適用されないのかという文献的な根拠を示すとか、そういったことを語ればよいかと思うんです。
また特に文献的な根拠を示せないならば、示すことが現状できていないことも別に認めて構わないと思うんですね。その上で信仰を深めていく自由も個人にはあるはずですよね。事実、旧檀信徒の皆さんはそんな態度で大石寺の信仰を深めていたりします。


ところが、創価学会の退会組が多い新参講の法華講信徒さんは、そういった教義の検証や素朴な疑問にさえ、宗教的に拒否感を示し、そのような議論を徹底的に排除したり、罵倒したりします。


そのような狂信的な態度をTwitterで見た多くの方が、日蓮正宗というところへの忌避感や嫌悪感を募らせています。
そんな原理主義的な宗教団体に喜び勇んで入りたいと人は思うものでしょうか。私は全く思いません。