気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本尊書写への素朴な疑問。




いつもみなさん、ありがとうございます。



大石寺の本尊に関して素朴な疑問なのですが…………。



大石寺法主書写の本尊は、日蓮正宗の教義的に言えば「分身散体」の義から、本門戒壇の本尊の書写を行い、それを信徒に配付するのだと思います。



ところで、法主が本門戒壇本尊の内証を書写できる権能を有しているのは、唯授一人の血脈相承を受けているからなんですよね。
それはまあ百歩譲って受け取るとして…………けれどもなんで信徒に授与する時はその「複写」なんですかね? 要するにコピーでしょ? それって創価学会のやっていることと変わらなくなりません?


まあ、そういうと大石寺の方は、きちんと「開眼供養をしてある」とか「法主の許可を得て授与させていただくもの」等と答えられます。



じゃあ、それなら、戒壇本尊そのものを複写して、法主の開眼供養をして、授与すればいいだけの話なんじゃありません?



実際、信徒の各家庭に授与されているのは、法主書写本尊の「コピー」であって、公式には法主の開眼供養がされたものですよね。
その内証を与えることができるのが法主だけだとするなら、何も法主がわざわざ書写しなくても、単に戒壇本尊を画像複写して、それに法主が開眼を与えれば、それでよいではありませんか?
だいたい日蓮自身の書写曼荼羅を拝ませないのは、日蓮系宗派で日蓮正宗くらいのもので、戒壇本尊が日蓮真蹟であると言い張るなら、なぜ日蓮真蹟の曼荼羅ではなくわざわざ法主書写のものを信徒に拝ませるのかということになります。



なぜそんなことを思ったかというと、以前の記事にも書いたことですが、熊田葦城『日蓮上人』に掲載された戒壇本尊写真を切り抜いて、それを身に帯して戦地に赴いた、日蓮正宗信徒が少なからずいたことがわかっているからです。



「大正5年縮刷本『日蓮上人』掲載の戒壇本尊画像」



実際、この熊田葦城氏の著作の戒壇本尊画像の掲載は、大石寺に許可を取って行われたことがわかっています。
ですから許可があればよいということになります。
それなら、なぜ信徒のために、ありがたい戒壇本尊そのものを複写して、法主の内証から開眼を与えて授与しないのでしょうか。
信徒も直接に戒壇本尊を拝めるし、法主がわざわざ本尊書写する時間を取らなくてもよくなり、一石二鳥である気がします。
それをやると後世の偽作ということがバレてしまうからなのでしょうか。それとも御開扉が減ってしまうからダメなんですかね。信徒の方ならちゃんと参拝して現物を拝みに来ると思いますけどね。



そういう素朴な疑問に答えられないとするなら、大石寺は、自山の戒壇本尊の信憑性が低いということを自ら暴露しているに等しいと私は思います。