いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私は創価学会非活メンバーから、退会を選んだ身で、そんなわけでこんなブログを延々と書いております。
ただ最近感じることは、一部の方々が被害者意識を否定することができず、被害を被った自身の感覚を絶対視してしまう傾向が一部あるのではないかということです。
これは実は私自身がかつて同穴の狢になっていたこともあり、自戒しているところであります。私自身が自分の感覚を根拠もなく被害者面をして絶対視してしまえば、それは態度としては教団を正当化する教団幹部となんら変わることがなくなるのです。
J・トールキンの『指輪物語』では、「一つの指輪」の正体を知った主人公フロドが、魔法使いガンダルフに指輪を譲ろうとするシーンがあります。しかし魔法使いはそれを拒みます。力を持って力に対抗しても、それは古い冥王を力で倒した後に新しい冥王を生み出すだけで、本質的な解決にならないことをフロドに諭します。「イスタリ」と呼ばれたガンダルフら魔法使いは、冥王サウロンに対抗する者たちを糾合するために遣わされた者たちなのですが、彼らは力をもって冥王に対抗することを禁じられていたのです。
悪に魅入られたまま悪に報いても何にもならない。私はそういう人間になりたくないと最近は気をつけるようにしています。
それでも、かつて私はTwitter等で論争に巻き込まれることも少なくなかったわけで、元広宣部のメンバーとして抵抗をしてしまったことを今も恥じています。だからこそ一度ブログを閉じようと考えたのですから。
ただブログを続けていく中で、読者が少しずつ広がり、共感して頂ける人が増えているのは本当にありがたいことです。そんな方々のお陰で、私はブログを書くことができているわけで、またそれが今は亡き父と母への罪滅ぼしになればと考えています。
「仇をもって仇に報いても何にもならない」と私は思います。だからこそ私はなるべく客観的に史料を提示して、あとは読者の判断に委ねるように気をつけているつもりです。
事実、私たちはそのような歴史を見てきたのではないでしょうか。
妙心講は「顕正会」に名を変え、一部の正信会僧侶と連合もしています。
ネットが発達し、誰もが容易にブログを書けるようになった今日、誰もが容易に教団を批判することが可能になりました。しかしそれらの歴史は今まで多くの人たちが既に繰り返してきたことなのです。
今また同じ轍を繰り返し、自分たちの感覚を絶対視して他者に歩み寄ることのできない集団をネット上に形成したところで、それは新しい大石寺系教派・分派を新たに一つ生み出すことと何ら変わらないのです。
それは真に「対話を求める」姿勢ではないということを、私たちは(私も含めて)もっと自戒すべきなのではないのでしょうか。
対話を求める姿勢とは、自分たちとは異なる異論を受け入れ、時には自身の誤りも率直に認めて、発展的に変わり得る思想の可塑性を持つことなのだと私は考えています。