いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私は教学の小難しい問題をいろいろブログで書きますが、正直ちゃんと書けているのか、冷汗三斗の思いです。
というのは、いちおう裏をとって文献に書いてあることを可能な限り紹介しつつ、客観的に書くようにはしているのですが、自分自身の知識の無さを自覚しているからなんです。
私のブログを読む方たちなら、さまざまな他のブログやサイトもご覧になられることでしょう。私はその中でも自身に非常な劣等感があります。というのも専門的に仏教を研究されている方に比べたら、私の知識など浅はかなものだからです。自分でもよくわかっているつもりです。
だからこのブログは、気楽非活のような大して勉強もできない人間が、一つ一つ丁寧に文献を読み、自分がわかったことだけを素直に書いているだけなんです。
私の大原則は
「自分がわかったことをわかりやすく書く」
「根拠を文献から客観的に示す」
「間違えたらそのことは素直に認めて反省して撤回する」
ということです。
例えば私は念仏を大事にしているとはいえ、自身の信仰が教学的に批判されるなら、その批判は甘んじて受けたいですし、自身の信仰を更新することも辞さないつもりです。
そのような過去の自分を知る故に、私はこれ以上、そのような態度で生きたくないと思っています。
私は間違えた時に素直に反省したいのですし、そのことを気づかせてくれる批判者がいる時は素直にそのことを認めて、他者に感謝できる自身でありたいのです。
彼らの多くは自己正当化の論理からなかなか離れられません。過去の私がそうでしたから、経験としてわかります。過去の自分も含め、彼らは他者を貶めて自身の都合の悪いことには多く蓋をして隠そうとするのです。
私はもう二度とそのような生き方をしたくありません。踏み込んで言うなら、大石寺系教団を批判して個人の信仰に入りたいと真に願うなら、自身の過ちをまず積極的に認め、自身の立場を絶対視せずに否定する態度をまず持つべきなのです。
それなのに、自分がわからないこと、検証してもいないこと、語れないこと等に関して、私などが文献的・史料的根拠から批判をすると、途端に狂ったように騒ぎ出す退会者が一定数存在するのです。
私の過去のブログ記事を読めばわかるかと思いますが、私はかつて日蓮その人を絶対視し、日蓮の題目の中に止観の修行の本義を見ようとして、日蓮を再解釈しようとしたところがありました。過去の自分を認めるのは恥ずかしいことですが、記事の内容は基本変えずにそのままにしてあります。よく読めばわかるでしょう。
けれどいつまでも日蓮を理想に当て嵌めて、悦に入っているだけの自分ではいけませんし、そもそもその根拠を史料的に示さなければ何の意味もない空論に堕するだけです。
私は若い頃、御義口伝の読書ノートを作っていました。ちょうど平成5年〜10年前後にかけてで、宗創紛争真っ最中の時です。
その当時は「創価ルネサンス」なんて言葉まで組織内では流行語のように謳われていました。今やもはや死語に近いですが、当時はどのように大石寺宗門の教義から創価学会が脱却するか、模索の時期のように当時は感じていました。
ところが、その後、さまざまに検証していく中で、『御義口伝』が限りなく偽書に近い、後世に創作されたものでしかないこと、そもそも大石寺にも『御義口伝』の上古の写本は存在せず、最古の写本は日羅滅後257年、八品派のものしか存在しないこと、その信用性の低さ等がわかってきました。
「大石寺写本『御義口伝』の改竄」
私はそれまで膨大な時間をかけて研鑽してきた『御義口伝』の大量の研究ノートをほとんど全て否定して処分しました。それは過去の自分の正当性を否定する行為であり、それなりの自己否定とともに痛みも伴いました。しかし私はそれを行いました。
結果、私は特定の大石寺系教義に囚われない、自由な視点を手に入れました。過去の自分の視点が桎梏になり、見えなかったものが、それらを否定することによって見えるようになったのです。
私は史料の検証のために未だに文献に目を通しています。自身の頭の悪さもあって、亀の歩みのような遅さですが、それは自身の理解力の低さのせいなので仕方のないことです。
私は自分の愚かさのせいで、過去に多くの過ちを犯したことを悔い、その反省のつもりで今はブログを書いています。その奥底には「今は亡き母に本当のことを伝えられなかった」という、強い後悔があることも事実です。
私がもっと賢明であったら、私にもっと柔軟な発想があったら、私にもっと包容力があれば、もしかしたら私は母の恐れも取り除いて……その命を永らえさせることもできたかもしれない……そう思ってしまうのはもしかしたら自身の傲慢さなのかも知れませんが……ただ胸が今でも痛みます。母に今も申し訳ないと思っていますし、母のいない世界で生きる痛みや悲しみを日々痛感するばかりです。
翻ってみるに、なぜ創価の退会者や大石寺の離檀者の多くの中に、自身を自己弁護し、自己正当化し、自らの非を認められない人が少なからず散見されるのか、それは教団の自己保身の論理にどっぷり浸かってしまったために、今度は「悪いのは教団だ」「私は悪くない」「私は被害者だ」という自己弁護の論理でしか語れなくなっている故だと考えています。
私は多くの間違いを犯してきました。
そのことを隠さない自分でいたいだけです。
だからこそ「ごめんなさい」を言えない人を、私は心の底から軽蔑します。
私はただ単に、自分が誤った時にきちんと「ごめんなさい」を言える人になりたいだけなのです。