いつもみなさん、ありがとうございます。
ところが、この由来が全く不明であります。
大石寺側は「釈迦の成道の時が丑寅の刻」とか「竜の口の法難の時が丑寅」とか、後付けの説明を色々としているようなのですが、そもそも「丑寅勤行」という化儀を日蓮や日興等の文献から見出すことができないのです。
そもそも日興執筆の『宗祖御遷化記録』では、日蓮の入滅は辰刻(午前8時)ですし、入棺の儀は戌刻(夜の12時)です。
したがって、丑寅勤行というのは大石寺だけの独自教義でして、なんらかの別の理由があって後世に作られた教義としか考えられません。日興門流の他宗門にも全く伝わっていない化儀でありますし、日興や日目や日道が丑寅勤行をしていたとされる上古の文献記述は全く存在しません。そもそも十二支による時間記述法では太陽の出る時間帯と出ない時間帯をそれぞれ6分割しますから、春分の日と秋分の日以外は1年間のほとんどが正確に「丑寅の刻」を計測などできなかったはずです。
丑寅勤行というのは、考えれば考えるほど不思議な教義です。そもそも丑寅という時間は「丑の刻参り」と言われるように、生と死の境目の時間と考えられ、藁人形に五寸釘を打ち付けて呪いをかけたりする時間でありました。平安時代には「丑の刻参り」は既に存在していたと考えられています。
そんな不吉な時間に、しかも正確な時計も存在しない時代に勤行をするということ自体、何か理由がなければ説明がつきません。考えれば考えるほど、大石寺の「丑寅勤行」という教義はどこか異様な教義のように感じられてなりません。
丑寅とは鬼門、鬼の時間であって、だからこそ昔話の「桃太郎」でも鬼は「牛の角」を生やして「虎の皮の下着」を着ているのです。そしてそれに対抗する桃太郎は、十二支で「丑寅」の反対側に位置する「猿」「鳥」「犬」を従者に選んだと言われます。