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創価学会の非活メンバーによる語り

敬台院と日精のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日から大石寺17世(18世)日精の相承について、少しずつブログで書き出しています。


「日精は大石寺の17世か、18世か」

大石寺を隠居した18世日精」


日精は大石寺9世日有とともに、本来は大石寺の中興の二世とされていた人物です。
ところが、昭和に入り、59世堀日亨が日寛を立てて中興二世を立てるにあたり、日精が外された経緯があります。


日精は本来、江戸時代初期に大石寺を復興させた賢上人とされていました。
その功績は敬台院日詔のバックアップがあったからかと考えられます。


敬台院(きょうだいいん)は小笠原秀政の娘にあたり、蜂須賀至鎮正室となります。彼女の養父は徳川家康であり、母方から見れば織田信長の孫にあたります。


よく知られていることですが、徳川家康は浄土宗で、織田信長法華宗でした。織田信長が度々、宿泊先に日蓮宗系の寺を選んだことからもよくわかることかと思います。信長が亡くなった京都本能寺は、法華宗本門流(八品派)の大本山です。


敬台院は養父の徳川とは異なり、織田信長由来の法華宗信徒でした。そのため大石寺日精に深く帰依し、大石寺御影堂の建立寄進、二天門の建立、大石寺基金七百両寄進、日精の公儀年賀における乗輿の許可等、様々に大石寺を支援していきます。
敬台院が莫大な拠出を大石寺に続けた背景にあったのは、大石寺の由緒をある程度知っていた彼女が自身の菩提寺として大石寺のブランド力の格上げに余念がなかったということかと思います。実際、敬台院は文書中で「富士の大石寺の事」「我身菩提所の事に候」(富要8-53)と述べています。


敬台院の文書から、当時の勘定奉行だった伊丹播磨守康勝のバックアップもあり、朱印がおりて、大石寺は敬台院の菩提寺となります。田舎の貧しい一寺に過ぎなかった大石寺は一気に徳川家有縁の寺として格が上がることになります。


ところが先述の記事「大石寺を隠居した18世日精」にも少し書きましたが、寛永15年(1638年)3月に日盈が亡くなると、この頃から敬台院と日精の関係が悪化し、日精は大石寺を追われることになります。
このことを大石寺48世日量は『続家中抄』で次のように書いています。


「当山精師と大檀那日詔尊尼と隙を生して精師富士を退去し江戸下谷常在寺に移住す、之に依て当山無主なり」
(日量『続家中抄』富士宗学要集5-269ページ)


「精師」は日精、「大檀那日詔尊尼」は敬台院のことです。そして「隙を生して」というのは「両者の関係が悪化したこと」を意味します。この結果「当山無主なり」として法主不在の期間が大石寺にあったことがよくわかるかと思います。


その後、敬台院は会津の日感の推薦で、大石寺法主として日舜を推挙しています。
その後、敬台院は日感を外護して寛永19年(1642年)に法華宗本門流と日興門流の合同の学問所として細草檀林を設立することになります。


これ以降、大石寺法華宗本門流(八品派)の教説が流入することになります。


「三大秘法口決は八品派から大石寺流入した」

「八品派と細草檀林」


大石寺は18世日精の代に敬台院の資金援助により、徳川家有縁の寺になりました。その後、敬台院により細草檀林が創設され、その影響で八品正意説の『上行所伝三大秘法口決』、また『御義口伝』(『御義口伝』最古の写本は八品派日経のものです)等々の教義が大石寺流入することになります。

大石寺26世日寛は細草檀林で習学していますから、彼はこれら八品派の思想を摂取し、それらを自教団の教義として完成させていくことになったことがよくわかるかと思います。