気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮本仏説の萌芽。




いつも皆さんお読み頂き、ありがとうございます。


さて大石寺や現在の創価学会が唱える日蓮本仏説が明確に言われ始めるのは、大石寺26世堅樹日寛以降のことです。
それ以前に日蓮本仏説と言われるものが存在したのかと問われれば、その萌芽と言うべきものがあったと思いますが、まだ明確なものではありません。
大石寺9世日有は『有師化儀抄』で次のように述べています。


「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍テ今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我レ等根性には対せらるべからざる時分なり、仍テ方便品には若遇余仏便得決了と説く、是レをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思ひ合ハすべし。」
(『有師化儀抄』富士宗学要集第1巻64ページ)


日有には宗祖日蓮を「本尊」とみなす思想があったことがわかります。同時に日蓮を本尊としながらもまだ日蓮が本仏であるという明確な主張はここには見られません。
ですから私は大石寺9世日有の頃にはまだ明確な日蓮本仏説は存在しなかったと考えています。


他山はどうでしょう。例えば保田妙本寺・日我の『化儀秘決』から引用してみます。


「御大事御抄等の内意、代々の置文等を以ッて之を勘ふるに、中央に題目、左右に釈迦多宝を遊ばす、文の上は在世の様なれども末法の釈迦とは日蓮なり多宝とは日興なり題目とは事行の本尊なり、謂ハく十界互具して人法一個する題目なり、境母法身の日興は左に居し智父報身の日蓮は右に居し境智冥スる時中央の漫荼羅なり、然る間、日蓮の魂も題目なり日興の魂も題目なり、唯我与我、唯仏与仏乃能究尽とは爰元なり、末法一切衆生の父は日蓮母は日興、我レ等当躰蓮華仏となる種子は題目、此ノ種子を高祖は授け給ふ日興は受け取リて九界惣在して是レをはらみ給ふなり、其の種子は境智冥合定恵和融して父母をはなれざる処が中央の題目なり、其ノ題目成仏の子と生るゝ時は日目と習ふなり下種とは是なり」
(『化儀秘決』富士宗学要集第1巻300ページ)


妙本寺の日我は「末法の釈迦とは日蓮なり」としています。
つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ他山の保田妙本寺の方で先行していた教義と考えられます。

今の私の理解を図示すると以下のようになります。

大石寺
日興(1246〜1333):釈迦本仏
日目(1260〜1333):釈迦本仏
日道(1283〜1341):釈迦本仏、御伝土代
日有(1402〜1482):日蓮本尊説、化儀抄
日精(1600〜1683):御影堂建立
日寛(1665〜1726):日蓮本仏

【妙本寺】
日我(1508〜1586):末法の釈迦は日蓮


つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ保田妙本寺が先行していまして、大石寺日有の日蓮本尊説、また日精の御影本尊などが結びついて日寛の日蓮本仏説という教義となったと考えられます。



追記:
以前、こんな記事を書いています。

「本尊の奉安様式」

日蓮正宗で御本尊の奉安様式が複数ある理由はなんとなくわかる気がします。
要するに17世日精の頃に御影堂が建立され、その際に日蓮=本尊観から一幅一体式の本尊の奉安をしたのでしょう。御影が祀られるのは御影本尊説、つまり9世日有以来の日蓮本尊説に則っているのです。
それが後世、日寛教学が誕生して御影本尊説と教義的な齟齬が生じたのですが、それについては無理な統一をせず、そのままで来てしまったというのが実態なのでしょう。