いつもみなさん、ありがとうございます。
さて本ブログで最近『御義口伝』の信頼性の低さを何度となく指摘してきました。
「大石寺写本『御義口伝』の改竄」
ところで、以前から奇妙なことだと思っていたのですが、この『御義口伝』の伝えられる最古の写本は実は興門流のものではありません。
『御義口伝』最古の写本は天文8年(1539年、祖滅257年)5月14日、八品派日経によるものです。
これより以前の『御義口伝』の記録は私には見出せません。大石寺に伝わる写本は元亀2年(1571年)で、日経本より30年以上後代のものになります。
ところで、歴史上、大石寺の教義形成にあって、八品派の影響は否定できないところがあります。
その事実を示すのが「細草檀林」の存在です。
『富士宗学要宗』8巻「細草檀林」の項で、編者の堀日亨は次のように述べています。
「此は隆門と興門との合同であつて林地は土地の八品の住本寺屋敷と市東内山等の村民の寄進に依り、経営は富士門なる法詔寺大石寺末の顕寿院日感此に当り大檀那蜂須賀敬台院を動かし物資の供給を受けて成れるもの、能化には鷲山の智泉院日達を請し、内部の庶務は伝了日崇後の信入院の手腕に待ちしものにて、資本家側の大石寺は始めには振はず松園日俊後の大石廿二世が漸く八代目の能化として本法院として出でしなり」
(『富士宗学要集』8巻267ページ)
つまり「細草檀林」は、大石寺の大檀那、敬台院がスポンサーになり、土地と講師は当初は八品派から提供されて設立されたことがわかるかと思います。
そして興門流と八品派とはともに教義的には勝劣派になります。その意味では相性が良い。
ですから大石寺の教義の形成は、17世紀以降、八品派の影響を受けたことが容易に推察できます。
そう考える時『御義口伝』の最古の写本が八品派のものである理由がなんとなくわかる気がします。八品派のどこかに伝えられていた『御義口伝』が、細草檀林を経由して大石寺に流入した可能性も私は大いにあると考えています。