気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

池田大作と創価学会の年譜、昭和3年〜昭和35年。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて以前の記事で「戸田城聖創価学会の年譜」をアップしたことがあります。
 
 
個人的にはこの年譜もまだ未完成で、増補の必要性を強く感じるところなのですが、同時並行で「池田大作の会長就任までの年譜」を自分なりに少しずつ作っていました。
いつか両編を大きく増補改訂の上、合体して創価学会の年表としてあげていきたいところではありますが、読者からの要望もあり、自分なりに未完成ながらある程度、史料に基づいて書き上げてみたものを、途中経過ではありますが、アップしてみたいと思います(記事の未完成なところは筆者であるブログ管理人が強く痛感するところであります)。
池田大作氏の生まれた昭和3年(1928年)から、池田大作の妻となる池田香峯子(白木かね)も含めて、創価学会の歴史と交えながら時系列で会長就任の昭和35年(1960年)までを書いてみたところです。巻末に主な参考文献を挙げましたが、ここで書かれていることは、基本的に史料からわかる事実を一つ一つ積み上げて書いたものにすぎません。多くの読者による情報提供、当時の時代証言、史料の教示にも大いに助けられました。改めて感謝申し上げます。当然ながら年譜の未完成さ、細部まで描けていない不十分なところについて、その文責がブログ管理人である「気楽非活」筆者本人にあることを否定するものではありませんし、またその責を回避するものでもありません。
 
 
 
 
 
 
1928年(昭和3年
・1月2日、池田大作東京府荏原郡大森町(入荒井町)大字不入斗(現在の大田区大森北2丁目か)に池田家の五男として生まれる。幼名は「太作」。父は海苔製造業を営む池田子之吉(ねのきち)、母は池田一(いち)。
長男:池田喜一
次男:池田増雄
三男:小宮開造
四男:池田清信
長女:池田とよ子
五男:池田大作
六男:池田栄一
七男:池田隆
八男:池田正利
次女:山越いね子
また池田大作の祖父の名は池田五右衛門、祖母は池田きくである。池田大作の父・池田子之吉は池田五右衛門の三男で、本家は長男の池田百太郎が継いでいる。池田子之吉は50歳まで分家が持てなかったと言われる。池田大作の旧名「太作」は「タサク」と読むか「タイサク」と読むかで諸説が分かれるが、池田本人は「タイサク」としている。
 
1930年(昭和5年
・池田は家族とともに羽田町大字糀谷3丁目に移転する。
 
1932年(昭和7年
・2月27日、後に池田大作の妻となる白木かね(池田香峯子)が生まれる。生家は大田区矢口渡。父は後の創価学会理事の白木薫次(しげじ)。母は白木静子。姉が白木よし、兄が白木文郎(ふみお)、後に生まれる弟が白木周次。
 
1934年(昭和9年
・4月、池田、羽田第二尋常小学校に入学。小学校の成績について池田氏は後年「成績は中位であり、いたって平凡な少年であった。特徴らしいものは何もなかった」と述べている(『私の履歴書』)。
 
 
1935年(昭和10年
・池田が小学2年の頃に父・子之吉がリューマチで病床に伏し、寝たきりとなる。海苔製造業も縮小せざるを得なくなる。長兄の喜一は中学校をやめてリヤカーで武蔵小杉まで野菜を仕入れに行き、売り歩くようになったという。
 
1936年(昭和11年
・池田家は西糀谷2丁目に転居する。中二階建ての家で、転居当時は家の壁がまだ乾いていなかったと言われる。
・この頃から池田は、家業の海苔製造業を手伝い始める。
 
1937年(昭和12年
・池田の父の子之吉のリューマチが回復に向かう。
・長男の喜一が戦地に出征する。近衛師団に入団する。この後、池田の四人の兄は次々と出征することになる。
 
1939年(昭和14年
・この年、原島宏治(本名:原島鯉之助。原島嵩の父。後の創価学会理事長)が妻の原島セイに説得され、創価学会に入信する。
 
1940年(昭和15年
池田大作は羽田高等小学校に入学。この頃から池田はすぐ上の兄と新聞配達を始め(約3年間、小学6年〜高小2年まで)、家業を助ける。
 
1941年(昭和16年
池田大作は高等小学校2年生の時、同級生の田中義章と一緒に仙川(東京調布市)にあった満蒙開拓青少年義勇軍のための拓殖訓練所に行き、3泊4日ほどの訓練を受ける。
・7月12日、原島宏治の妻である原島セイに折伏され、白木静子(池田香峯子の実母)が入信(当時の白木静子は静脈炎という難病にかかっており、心配した隣家の原島セイが白木静子に入信を勧めた)。娘の白木かね(後の池田香峯子)らも家族全員で創価学会日蓮正宗に入信する。
 
1942年(昭和17年
・3月、高等小学校の卒業を控え、池田は少年航空兵になろうと志願していたが、海軍の係員が志願書を持って家を訪れた際、両親が猛反対して志願は取り消しになる。
・3月、高等小学校を卒業した池田は、既に3番目の兄(開造)が勤めていた、蒲田駅近くの新潟鉄工所に就職する。同社は軍需工場でディーゼルエンジン等を作っていたが、池田はミーリングの見習工として入ることになる。
池田大作の新潟鉄工所での仕事ぶりは優秀で、工場では二度ほど表彰を受けたとされる。
・白木かね(池田香峯子)は小学5年生になり、担任が辻武寿であった。
・この頃、白木かねの自宅では座談会が行われ、牧口常三郎が来ていたという。
 
1944年(昭和19年
・この頃から、池田は結核が進行し、日々衰弱して疲労が積み重なることが多かった。
・夏、軍事教練で木銃を持って行進中、池田は持病から血痰を吐き、現場から事務係に回される。
・池田家は強制疎開で大森・馬込に移転する。
 
1945年(昭和20年)
・池田は結核が悪化し、医師に鹿島の結核療養所に行くことを勧められる。
・4月13日、白木かねは母、兄、弟の4人で岐阜県疎開する。
・4月15日、東京大空襲。白木かねの父・白木薫次と姉の白木よしは空襲に遭遇し自宅が焼失するが、避難して助かる。
・5月24日、馬込に空襲があり、池田家は焼失。蒲田区森ケ崎に移転する。
・7月、白木かねの疎開する岐阜が大空襲にあい、白木かね、家族らは長良橋を越え、市外に逃げ出し、桑畑に難を逃れる。
・8月の終戦後、白木かねは岐阜から一時的に横浜の菊名に住んでいた父方の伯母のもとへ下宿する。
・9月、旧東洋商業学校夜間部(後の大世学院[富士短期大学])2年に編入学
・秋頃から池田は新橋にある昭文堂印刷(社長:黒部武男)に勤務する。
 
1946年(昭和21年)
・1月1日、戸田城聖創価学会員を対象に法華経講義を開始。
・この頃、須山秀吉氏を中心に「郷友会」という読書会が結成され、池田大作も参加する。須山氏は右翼的思想を持ち、1942年頃(?)に笹川良一の国粋同盟の青年隊長で、国粋同盟の藤義男(国粋同盟幹部、蒲田区選出議員)の選挙の手伝いをしていた。
・この頃、白木かねは菊名から矢口渡の自宅に戻る。調布学園で学ぶ。
・5月、戸田城聖理事長は戦後初めての創価学会の座談会(大田区鵜の木の小泉隆宅)に参加する。
 
1947年(昭和22年)
・3月、東洋商業卒業。
池田大作は春に鎌倉へ社員と花見に行き、その後、体調のこともあって昭文堂印刷を退社。池田はしばらく自宅で静養する。
・この頃(?)、池田大作は羽田第二尋常小学校の同級生Y.S氏の紹介で「郷友会」に参加する。池田は須山氏からも思想的な影響を受ける。郷友会の一員の証言によれば、池田大作は銀座の国粋同盟の事務所にも通ったことがあるという。
・8月14日、池田は羽田第二尋常小学校のY.S氏の誘いで、三宅家で行われていた蒲田の座談会に参加する(三宅家の次女である三宅淑子が同級生だったことも参加の理由だった。彼女が池田大作の初恋相手との説がある)。
・池田はこの後、小平芳平に5時間近く説き伏せられ、入信せざるを得なくなる(小口偉一『宗教と信仰の心理学』、『聖教新聞昭和32年10月18日付、関東版6面)。
・8月24日、中野の歓喜寮(後の昭倫寺)で池田大作日蓮正宗の御授戒を受ける。池田は御本尊を受けようとせず、押し付けられた本尊を仏壇に下げずに3日ほど放っておいた。その後、雷があり、不安になって題目を唱え始めるようになる(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)。
・9月、蒲田工業会の事務員として働くことになる。
・10月19日、創価学会第2回総会(神田、教育会館)。戸田城聖理事長は「三世の因果」と題して講演。
 
1948年(昭和23年)
・4月、大世学院政経科夜間部に入学。
・8月13日、池田大作は夏季講習会に参加する(5日間で188人が参加)。
・秋頃、池田大作戸田城聖の出版社で働くことを三宅淑子の母から勧められる。池田は「お願いします」と答える。
・12月、蒲田工業会を退社。
 
1949年(昭和24年)
・1月3日、三宅家の母の斡旋で、池田は戸田城聖の経営する「日本正学館」に入社することになる。社名はその後、「日本小学館」に変更される。
・5月、池田は家を出て、大森・新井宿にアパートを借りる。住所は「大田区新井宿6丁目青葉荘306号」とされる。
・5月、池田大作は『冒険少年』(後に『少年日本』に改題)の編集長となる。
・7月10日、創価学会は月刊の季刊誌『大白蓮華』を創刊。編集長は矢島周平(月刊娯楽誌『ルビー』編集長を兼任)。創刊号に戸田城聖の「生命論」が掲載される。
・8月、『冒険少年』の返品が激増して採算を割り、『少年日本』と改題する。
・8月10日、『大白蓮華』第2号に「池田伸一郎」の筆名で「若人に期す」という題名の宗教詩が掲載される。
・8月12日、創価学会、第4回夏季講習会。
・10月、日本正学館が倒産。戸田城聖は全社員を集めて一切の休刊(廃刊)を宣言、かねて用意していた「東京建設信用組合」への社員の異動を指示する。
・10月23日、創価学会は神田教育会館で第4回本部総会。宗務院から細井庶務部長が出席する。この総会で「創価学会を財団法人にする」ことが議決される。
・11月27日、創価学会は第1回総合座談会を品川の妙光寺で開催。
・秋頃、池田は大世学院を中退。
・秋以降、池田は戸田城聖から個人教授を受講するようになる。当初は毎週日曜日だったが、後に毎朝30分〜1時間程度の講義になる。講座は池田大作だけではなく、後に秋谷栄之助らも参加するようになる。
・12月、戸田城聖は正式に「東京建設信用組合」を設立。池田大作は東京建設信用組合の社員に異動となる。
 
1950年(昭和25年)
・1月1日、戸田理事長を囲む勉強会に参加。
・1月2日、池田大作戸田城聖森田一哉とともに大石寺に登山。
・1月6日、『大白蓮華』第6号に池田の詩「聖なる富士に祈る」が掲載される。
・3月、白木かねは調布学園を卒業し、住友銀行に就職する。
・5月17日、戸田理事長を囲む勉強会に参加。
・6月、東京建設信用組合の預金払い戻しが急増する。
・6月3日、池田は青年部会に出席。
・6月23日、池田は指導員会議に出席。
・7月1日、池田は青年部会に出席。
・7月、東京建設信用組合、資金難と債権回収の停滞から取り付けまがいの騒ぎになる。
・8月、東京建設信用組合、大蔵省から業務停止命令を受ける。専務理事の戸田城聖は組合法違反に問われ、また取り立てに絡む刑事事件を引き起こして債権者から告訴される。
・8月24日、戸田城聖創価学会の理事長を辞任。後任に矢島周平。戸田は夏季講習会にも参加せず、一時的に名前を「城正」に変えて雲隠れする。
・10月、池田は大蔵商事の社員に異動。
・11月27日、池田は大蔵商事の営業部長になる。
・12月、大蔵商事は新宿百人町に移転。
 
1951年(昭和26年)
・2月初旬、大蔵省から「東京建設信用組合を解散しても良い」旨の内意が伝えられる。
・3月11日、東京建設信用組合解散。戸田城聖の負債問題は一応の解決を見て、戸田は法的な制裁を免れることになる。
・池田は蒲田支部大森地区委員になる。
・4月6日、創価学会支部組織の再編が行われる。会員数は当時約3,000名か。
・4月20日、機関紙『聖教新聞』創刊。旬刊2頁建、発行部数5,000部。戸田城聖の事務所に編集室を置く。創刊当時の購読料は1部15円、年間購読料は350円。編集主幹は石田次男
・5月3日、戸田城聖が第2代会長就任。会場は向島常泉寺。矢島周平は指導監査部長に就任、池田は講義部助師になる。この日を記念に池田は大石寺64世水谷日昇より御守本尊の下附を受ける。
・5月、創価学会は『聖教新聞』の編集室を市ヶ谷ビルディング(新宿区市谷田町)2階の6坪の部屋に移転する。
・5月1日、『聖教新聞』に「ある信者の話」として小笠原慈聞氏に関する記事が掲載される。
・5月19日、創価学会大石寺64世水谷日昇より「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と書かれた本尊の下附を受ける。いわゆる創価学会常住本尊であり、これが後年に板に模刻され、現在は信濃町大誓堂に安置される。
・6月、池田が営業部長を務める大蔵商事も市ヶ谷ビルに移転する。この頃から大蔵商事の社業が上向き始める。
創価学会に監査部が設置される。
・7月11日、創価学会青年部結成式、男子部は4部隊187人、女子部は5部隊70人。池田は男子部第4部隊(龍年光部隊)所属の班長になる。戸田城聖はこの式の席上「今日集まられた諸君の中から、かならずや次の学会会長が現れるであろう」と発言する。
・7月18日、創価学会常住本尊の入仏式が行われる。
・7月19日、創価学会に女子部が結成される。最初の74人が結成され、白木かねも参加する。
・7月22日、九段一口坂の家政女学院講堂で、水谷日昇の導師で創価学会本部常住本尊の奉戴式が行われる。この後、堀日亨(59世隠尊)、水谷日昇(64世)、堀米日淳(後の65世)の隣席を得て、奉戴式に引き続いて臨時総会が開催される。
・9月1日、創価学会は「講義部」を「教学部」と改名する。
・9月28日、戸田城聖は『班長に告ぐ』を発表。これが後に『青年訓』と改題され、読み継がれることとなる。
・10月1日、指導部準指導員になる。教学部では「助師」となる。
・10月17日、GHQ民間情報教育局の初代局長のガーネット・ダイク准将の意向の下、宗教文化資源課のウィリアム・バンス課長が日本政府機関と協議の上、「新日本宗教団体連合会」(略称は「新宗連」)を発足させる。発足時には生長の家立正佼成会PL教団世界救世教等が加盟する。創価学会は加盟を拒否。
・11月1日、『聖教新聞』20号1面下に「宗教法人「創価学会」設立公告」が掲載される。
・11月18日、『折伏教典』初版発刊。編集は石田次男池田大作氏は編集に携わっていない。
・12月、秋谷栄之助が入信、後に戸田城聖に評価されて「秋谷城栄」と名乗る。その後、石田次男の下で聖教新聞編集主任を勤める。「カミソリのように切れる」と評され、後年に創価学会の第5代会長に就任することになる。
・12月、渡部一郎東京大学駒場教養学部掲示板に「仏教研究会」の設立趣旨を掲示。これが後の「東大法華経研究会」の前身となる。
・12月13日、大石寺宗務院は庶務部長の細井精道(後の66世細井日達)名で通達を出し、創価学会が『聖教新聞』11月1日号で公告した宗教法人設立の件について戸田城聖を本山に呼び出す。
・12月18日、大石寺に呼ばれて登山した戸田城聖は細井庶務部長らと会議に臨む。戸田城聖創価学会日蓮正宗の信徒団体であることを前提とした上で、創価学会を新たに「宗教法人」として設立したい旨を日蓮正宗宗務院に願い出る。この日に戸田城聖大石寺に登山し、宗教法人創価学会設立に際して宗門から要望のあった3箇条の遵守を約束する。この「3箇条」とは「1、折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」「2、当山の教義を守る」「3、三宝(仏・法・僧)を守る」だった。
・12月20日、『聖教新聞』1面に「会長先生緊急登山。宗務院の命により」「宗教法人設立に本山より三箇条の要望。戸田会長病苦を押して登山」の記事が掲載される。この記事中、戸田城聖が登山させられたことを「学会の前途に諸難あることを意味し」と書いている。
・12月27日、池田は教学部の講師に就任。
・この年に創価学会は第6回総会を開催。戸田城聖創価学会の三つの目的として「本尊流布」「東洋広宣流布」「本山寺院の再興」を挙げ、この目的を達するためには折伏の実践以外にないことを強調する。
 
1952年(昭和27年)
・1月、池田大作は蒲田支部幹事に就任。
・1月5日、創価学会は組織形態を支部、地区、班、組の制度に変える。
・2月9日、池田大作は青年部教育参謀になり、班長は解任。龍部隊から外れる。石田次男は主任参謀。
・2月29日、池田大作支部幹事を勤める蒲田支部は、折伏布教201世帯を突破する新記録を打ち立て、これが「2月闘争」「蒲田闘争」「伝統の2月」の淵源となる。
・3月10日、『聖教新聞』2面で池田大作と白木かねとの婚約が写真付きで報道される。「挙式は5月3日」「媒酌は小泉隆理事」との記事。
・4月、創価学会は『日蓮大聖人御書全集』(堀日亨版)を刊行。
・4月25日、『大白蓮華』24号に池田大作の和歌2首が掲載される。「霊山の誓いにいのち賭し進む 師のかんばせに涙あふるゝ」「吹かば吹け三類の嵐よ障魔ども 師子王の声いまだきかずか」
・4月27日、大石寺の宗旨建立七百年記念慶祝大法会前日夜、戸田城聖創価学会青年部による小笠原慈聞氏の吊し上げ、暴行事件が発生する。いわゆる「狸祭り事件」で、これには池田大作も参加する。
・4月28日、大石寺宗旨建立七百年記念慶祝大法会。
・4月30日、大石寺宗門、機関誌『大日蓮』4月号を遅れて発行。小笠原慈聞氏の僧籍復帰が突然公表される。
・5月、大石寺宗門、第8布教区(大阪、京都、奈良、滋賀等)、宗務院総会を開催し、住職12名の連名で創価学会批判の決議文を採択する。
・5月3日、池田は白木かねと結婚。『聖教新聞』5月10日付に結婚記事が掲載される。
・5月、池田大作は大蔵商事の重役に就任する。
・5月18日、池田大作は男子部情報参謀に就任。第4部隊幹部長、教育幹部を兼任。
・5月23日〜、小笠原慈聞氏は謝罪を取り消し、自論を改めて主張し、5月23日付のパンフレットを全国の関係者に送付する。
・6月10日、戸田城聖は小笠原慈聞への闘争の『宣言』を発表。この中で小笠原慈聞は「僧侶とは思わず、天魔の眷属と信ずる」と断定する。
・6月25日、戸田城聖大石寺宗門に提出する請願書を認める。また小笠原慈聞氏に関する事件(「狸祭り事件」)の始末書を宗務院に提出する。
・6月27日、大石寺宗門の宗会が紛糾し、深夜にまで及ぶ。
・6月28日、早朝より大石寺宗門は宗規の審議を行い、夜の7時半になってようやく決議文が全会一致で採択される。この中で宗門は戸田に対して謝罪文の提出要求、大講頭罷免、登山禁止の3点を決定する。15名の宗会議員はこれに全員賛成をする。この決議の後、宗務総監以下の3人の役僧が辞意を表明。創価学会擁護を主張した細井精道(後の細井日達)庶務部長も辞任する。
・7月6日、大石寺の宗会決議を検討する臨時の部隊長会議に池田大作は出席する。
・7月、池田大作文京区戸崎町の白蓮院(現在は江戸川区北小岩に移転)を訪問し、決議の全面取り消しを約束させる。これ以降、創価学会は個別に宗会議員を訪問し、説得工作を始める。
・7月24日、大石寺宗門の要請を受けて戸田城聖は幹部2名を伴い、大石寺に登山。水谷日昇は戸田城聖に『誡告文』を渡す。戸田城聖は水谷日昇に『御詫状』を提出する。
・7月26日、宗務院は宗会決議を取り消し、「狸祭り事件」に関する一切の論争を差し止める「院達」を出す。戸田城聖はこれに対し、「行動停止命令」を発する。
・7月30日、戸田城聖大石寺五重塔修復を申し出る。
・8月2日、大石寺64世水谷日昇は戸田城聖五重塔修復を認可する。
・8月8日〜8月25日、2週間の日程で大阪、名古屋、九州の地方折伏を敢行する。当時の創価学会幹部は「創価教育学会」以来の小学校教員が多かったため、折伏は夏休みを利用して行うことが多かった。
・8月27日、東京都知事より宗教法人法による「宗教法人創価学会」の設立が正式に許可される。独自の本尊を持たない在家信者団体に宗教法人認可がされることは異例。
・8月〜9月、池田は大森山王のアパート「秀山壮」に転居。住所は「大田区山王2-1898」、赤い屋根の2階建で10世帯ほどが住んでいたという。
・9月7日、9月度の男子部幹部会で、池田大作は司会を担当する。
・9月9日、水谷日昇は小笠原慈聞に『誡告文』を送付する。
・9月20日、国家警察本部富士地区署は、小笠原慈聞氏の訴えにより戸田城聖以下12名に出頭を要請する。
・10月14日、仏教講演会が東京の三鷹市警察署講堂で開催され、約60人が参加する。戸田城聖ら5人が講師として出席。池田大作情報参謀は「日蓮宗概論」、戸田城聖が「生命論」をテーマに講演を行う。終了後、講師らと警察署首脳が懇談する。
・10月21日、創価学会は女子部の人材グループとして「華陽会」を結成する。
・10月31日、小笠原慈聞は正式に創価学会への謝罪を表明。一切の告訴を取り下げ、謹慎を確約する。
・11月7日、水谷日昇は小笠原慈聞の謝罪を受け、宗内に「訓諭」を発する。宗務院法主の訓諭に呼応し、論争停止を要請する白書を発表。
・12月16日、戸田城聖は「水滸会」第1期生38人を非公式に結成する。池田大作も参加する。
・12月21日、池田大作、教学部助教授になる。
・12月25日、池田大作は第4部隊の指導会に出席する。
・12月27日、創価学会は第1回教学試験を行う。会場は市ヶ谷の家政学院、試験内容は筆記と講義実習。
・12月27日、宗教法人法による「宗教法人日蓮正宗」設立登記。
 
1953年(昭和28年)
・1月2日、石田次男第1部隊長が創価学会理事に昇格。これを受けて同日、池田大作は第1部隊長に就任、中西治雄が池田の補佐役となる。池田はまた蒲田支部支部幹事に就任。前任の石田次男氏は第1部隊長からA級支部・小岩支部支部長へと抜擢される。
・1月5日、新年宴会が東京の南甫園で開催され、戸田城聖は青年部らと参加。この席上、池田大作ら青年部の一部が「星落秋風五丈原」の歌を披露したとされる。
・1月6日、常在寺で創価学会青年部交替式。池田大作は第1部隊旗を戸田城聖から受け、部隊長就任のあいさつをする。
・1月10日、池田大作は教育参謀に就任。
・1月27日、地区部長が集まって初の「地区部長会」が開催される。戸田城聖が出席する。
・4月、池田大作の妻・かねは、この頃から「池田香峯子」と名乗り始める(戸籍上の改名の手続きは現在までしておらず、本名は「かね」のままである)。池田香峯子本人は「結婚した折…戸田城聖先生から、現代的に漢字で『香峯子』と命名していただき」と述べている(『香峯子抄』平成17年)。
・4月18日、戸田城聖は東大生5人に法華経講義を開始する。後に4月18日が「大学会の日」とされるようになる。
・4月20日、池田は文京支部長代理に就任。支部長は原島宏治
・4月28日、池田大作の長男の池田博正が生まれる。
・7月21日、戸田城聖は男子部幹部43名を選抜して毎月2回の特別指導を与えるために新編成の「水滸会」を新結成する。前年12月の水滸会は非公式で1期生にあたり、この年の発足が厳密には2期生にあたる。「水滸の誓い」という宣誓書を池田大作が草案し、43名のメンバーとともに池田本人も署名する。
・8月1日、矢島周平前理事長が日蓮正宗に出家する「得度式」が大石寺の六壺で行われる。戸田城聖も出席する。
・8月1日、男女青年部、大石寺の夏季講習会にて雄弁大会を開催。戸田城聖が出席。
・8月3日、戸田城聖の発案で男子青年部の「水泳大会」が大石寺宗務院裏で行われる。
・11月、創価学会信者の寺籍の移動が始まる。ある寺院に所属する会員が移転しても、遠隔地のものを入信させてもその寺への所属という点では変わらないが、創価学会信者の急増に伴い不便が生じたため、会員信徒の寺籍は最も近い日蓮正宗寺院に移すことになる。
・11月13日、戸田城聖は新宿区信濃町32番地の元イタリア大使館付武官の私邸(洋館の2階建)を1510万円で買い取り、200万円で改装し、創価学会の新本部とする。
・11月25日、池田大作は戸籍上の「池田太作」を改めて、正式に「池田大作」に改名する。
・12月10日、小笠原慈聞は聖教新聞の報道に接し、青年部宛に感謝の礼状を送る。
・12月13日、池田大作は他の青年部幹部とともに小笠原慈聞氏を慰問。また名古屋で会員を指導。
・12月23日、池田大作は第2回男子青年部総会(東京、星薬科大学講堂)で、男子青年部を代表し「水滸の誓い」を基本にした3箇条からなる宣誓を朗読。
 
1954年(昭和29年)
・1月23日、聖教新聞に社友、通信員制度が敷かれ、池田大作は他11名とともに「社友」に就任。初の社友懇談会を創価学会本部にて開催。池田大作も懇談会に参加する。これ以降、池田氏は随時同紙に「社友」として執筆することになる。
・2月27日、東京豊島公会堂にて本部幹部会。戸田城聖は「広宣流布をなすのは、学会以外にいない。これにそむけば五逆罪になる。学会を離れてしあわせなものはいない」と発言する。
・3月6日、大石寺への月例登山会の折、戸田城聖は青年部質問会に出席。戒壇本尊の願主「弥四郎国重」について「大聖人己心の弥四郎国重である」と発言する。
・3月30日、青年部は1支部に1部隊が設けられ、男女各15部隊に再編、青年部に参謀室と情報部が新設される。池田大作は第1部隊長を解任され、参謀室長と情報部最高顧問に就任。初めて池田は創価学会の本部付となる。北条浩は主任参謀、森田一哉龍年光、山浦千鶴子、石田栄子、北条弘子、樋口トシ子は参謀に就任する。
・4月24日、戸田城聖池田大作参謀室長は仙台指導に赴く。
・5月3日、第10回春季総会が行われる。戸田城聖は理事の交替と理事長制の復活を提議。理事長に小泉隆(蒲田支部長、企画部長)、理事に柏原ヤス(杉並支部長、指導監査部長)、石田次男(小岩支部長、聖教新聞社編集長)、白木薫次(蒲田支部矢口大地区部長)を任命する。
・5月9日、男女青年部5,500名が豪雨の中、大石寺に結集し、戸田城聖の前で広宣流布達成を誓う「大儀式」を開催する。開催前夜から60台のバスを連ねて向かった青年部員は、地理の不案内やバスの故障が相次ぎ、10時間近くかかって大石寺に辿り着く。このため儀式は予定より遅れて昼過ぎに開始された。
・5月10日、池田大作、北条浩、森田一哉龍年光らの7名が論文審査を経て教学部教授に昇格する。
・7月、各種行事の際の本部幹部、支部幹部の席次が決定される。
・9月4日〜5日、水滸会の第1回野外訓練が東京氷川で行われ、戸田城聖とともに68人の青年部が参加。戸田城聖は4日夜、キャンプファイアーを囲みながら「今日から10年目に再びこの氷川の地に集まろう」「その時は諸君に頼むことがある」と発言する。
・10月1日、戸田城聖は青年部に「国士訓」を発する。
・10月31日、戸田城聖は男女青年部員1万名の大石寺総登山を開催。大石寺近くの富士宮東高校上野分校の校庭で「大出陣式」を行う。この時、戸田城聖は校庭に白馬に乗って登場し、閲兵式を行う。
・11月3日、第11回創価学会秋季総会が両国国技館で開催される。冒頭、1月から10月までの布教数は86,000に上り、創価学会の総世帯数が16万世帯を超えたことが報告される。
・11月7日、池田大作は「世紀の祭典」と銘打ち、責任者として世田谷下高井戸の日大グラウンドで青年部の文化祭を開催する。この時、軍楽隊が誕生し、池田は貯金から5万円をおろして醵出した。
・11月22日、創価学会に文化部が設置。部長に第1部隊長の鈴木一弘が任命される。文化部は翌昭和30年からの政治進出のための指導機関としての位置付けであった。
・11月末、NHKから戸田城聖へのインタビュー録音が放送される。
・12月13日、情報部が解消され、新たに渉外部が設置され、部長に池田大作が就任する。渉外部は社会的に注目され始めた創価学会のマスコミ対策機関であった。
 
1955年(昭和30年)
・1月23日、大阪中之島創価学会西日本3支部の連合総会が開催され、関西の日蓮正宗寺院のほぼ全ての住職が参加する。大阪市北区蓮華寺住職の崎尾正道は参加しなかった。崎尾氏は理由を書面で創価学会に提出。理由は創価学会信徒の葬式のためだったという。
・1月24日、戸田城聖は崎尾正道氏の態度に激怒し、創価学会信者十数人で連日蓮華寺を囲ませて、参拝に来る信者を追い返させた。この時、指揮を取ったのは大阪支部長の白木義一郎である。崎尾正道はこれらの行為に抵抗し、1月27日、創価学会信者に貸与した本尊の返納を迫り、その旨の書簡を白木義一郎に渡した(第1次蓮華寺事件)。
・1月28日、池田大作の次男である池田城久が生まれる。
・1月30日、創価学会豊島公会堂にて第1回本部財務部員会を開催する。
・2月4日、創価学会の男子青年部は蓮華寺問題で、緊急の幹部会を開催。
・2月6日、『聖教新聞』にて蓮華寺の崎尾正道氏を批判する記事がトップで掲載される。この中で記事は「大阪に悪鬼入其身の見本」「全御本尊の返却迫る」「学会は同人追放迄斗争」とまで書かれている。同紙の「寸鉄」では「僧形にして僧に非ず、天魔なるのみ」とまで非難している。
・2月9日、前年に設置された「文化部」(公明政治連盟の実質的な前身)第1次部員として54人が任命される。
・2月13日、『聖教新聞』で再び崎尾正道氏を非難する記事が大きく掲載される。
・2月16日、池田大作は渉外部長として『読売新聞』埼玉版の記事「はびこる創価学会 県下の信徒五千名」に抗議するため、同紙の本社と浦和支局を訪問する。
・2月19日〜20日創価学会青年部が蓮華寺を訪問。崎尾正道住職を追求する。
・2月25日、蓮華寺檀徒の有志(森本、仲ら他)が西宮正運寺で会合。
・3月初旬、日蓮正宗宗務院蓮華寺事件の事態の鎮静化のため、大阪蓮華寺住職・崎尾正道の位一級を下げ、滋賀県への転任を発令する。崎尾正道は辞令を拒否する。
・2月末〜3月初頭、創価学会小樽班の谷紀恵子が身延派日蓮宗の僧侶と法論したことがきっかけとなり、身延山日蓮宗創価学会に正式に公開法論を申し込む。
・3月2日、身延派日蓮宗との公開法論について誓約書が交換され、連絡を受けた青年部が現地に幹部を派遣して実情を調査し、辻青年部長と池田参謀室長に報告する。
・3月3日前後、辻青年部長と池田参謀室長が小樽に向かう。
・3月4日、大石寺の細井庶務部長と早瀬教学部長が創価学会本部に戸田城聖を訪ね、小樽での法論について創価学会の協力を要請する。
・3月8日、文化部の第2次部員として13人が新たに任命される。
・3月11日、創価学会は身延派日蓮宗と公開法論を行う(いわゆる「小樽問答」)。創価学会側の司会を池田大作が勤め、創価学会側の講師は小平芳平教学部長、辻武寿青年部長。身延日蓮宗側は司会を1名、講師として室住一妙僧正、顕本法華宗から長谷川義一僧正が参加する。
・3月12日、大石寺法主64世の水谷日昇は、戸田城聖を含む小樽問答の関係者を招いて慰労の宴席を設ける。
・3月27日、星薬科大講堂で開かれた第4回鶴見支部総会で、戸田城聖は「文化部員が政界に進出しても、それは決して、政治のための政治であってはならない」と発言する。
・4月23日、4月30日、創価学会初の統一地方選挙に52名中51名の当選。龍年光は品川区議にトップ当選。小泉隆は都議会で、また森田悌二は横浜市議会(鶴見区)で最高点当選。
・4月の選挙で「タテ線」組織の選挙上の非効率さが明らかになり、東京からブロック制の導入をするようになる。
・5月、戸田城聖は女子青年部総登山における三門の挨拶で「広宣流布は二十余年間に、成し遂げられることを私は確信いたします」と語る。
・6月、池田大作の住む「秀山壮」は子どもが2人以上になると転居する決まりがあり、池田香峯子の実家近く小林町の一軒家に池田家は移ることになる。池田大作蒲田駅近くの小林町(現在の東矢口3丁目)に住宅を購入する。借地で建坪は23坪、4室で100万円、義父の白木薫次に頭金を借りたと言われる。
・6月、大阪蓮華寺の崎尾正道が創価学会に謝罪文を提出する。
・6月12日、『聖教新聞』、本尊を「幸福製造機」とする記事を掲載。
・8月、全国45都市に600名以上を派遣する地方折伏が行われ、小泉隆、柏原ヤス辻武寿が総指揮となり、池田大作、石田栄子、龍年光、星生務、北条浩、鈴木一弘、浅井亨、星野義雄、白木静子らが派遣される。池田大作は札幌の主将に任命され、札幌班は388世帯の折伏を達成、全国第1位を獲得する。
 
1956年(昭和31年)
・1月31日、戸田城聖は本部幹部会で大石寺の「御肉牙」の歯が「たしかに生きている」と発言する。
・2月1日、戸田城聖は巻頭言において「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」と明言する。
・2月19日、週刊『新潮』が発刊される。週刊誌ブームが起こる。
・3月、法華講員の再三にわたる折伏の末に、福島源次郎が日蓮正宗に入信する。創価学会への入信は1960年か。
・3月29日、大石寺では64世の水谷日昇が退座し、65世として堀米日淳が登座する。
・4月、『大白蓮華』59号にて池田大作(当時参謀室長)は「奉安殿建立とその意義」を寄稿。この中で池田は「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と述べる。
・4月1日、創価学会に「学生部」が設置される。
・6月、安永弁哲『板本尊偽作論』が出版される。この中で安永氏は大石寺戒壇本尊が大石寺9世日有によって偽作されたことを述べる。
・6月12日、参議院選挙の公示。創価学会は6名の選挙候補を立てる。池田大作は大阪地方区で白木義一郎の選挙運動を指揮する。
・7月8日、参議院選挙投開票。池田大作が指揮した大阪地方区で白木義一郎は218,915票を集め、3位当選。
・7月29日、週刊『朝日』に戸田城聖の「衆議院には候補者を立てない」という言葉が掲載される。
・8月、戸田城聖信濃町創価学会本部で倒れ、数日間療養する。
・12月、池田大作の父、池田子之吉が病死。真言宗八幡山密嚴院に葬られる。後年に池田家の次男である池田増雄(池田大作の兄)が高尾墓園の池田家の墓に分骨をする。
 
1957年(昭和32年
・4月22日、大阪の参議院議員補欠選挙で蒲田支部の地区部長らが買収事件を起こす。候補者名を書いたタバコと候補者の名刺を添付した百円札がばら撒かれる。
・4月23日、大阪の日刊紙、朝刊で百円札事件が候補者名を伏せて報道される。参議院大阪補欠選挙の投票日、南海高野線初芝付近で個別訪問をしていた京都の創価学会信者が現行犯逮捕される。創価学会船場支部長の中尾辰義が候補に立っていたが落選する。
・4月30日、午後、戸田城聖倒れる。
・5月19日、炭労、東京中労委会館で第17回定期大会を開催。昭和32年度行動方針本部案の修正案件として、特に「階級団結を破壊するあらゆる宗教運動には組織をあげて戦う」という一項が決定される。いわゆる「炭労問題」。
・6月10日、池田大作参謀室長を迎えて、創価学会学生部総部員会が開催される。170名余りが参加する。
・6月27日、北海道炭労は第10回定期大会で、組合からの創価学会信者の締め出しの具体的な計画や指令を検討する。
・6月29日、小泉隆理事長が大阪府警に出頭。百円札ばら撒きによる買収を指示した容疑で逮捕・勾留される。
・6月30日、創価学会学生部結成大会が麻布公会堂で開催され、約500名が参加する。学生部長に仙台支部長の渋谷邦彦が任命される。
・7月1日、夕張で創価学会の炭労弾劾大会が開催される。辻武寿、白木義一郎、石田次男池田大作らが出席する。
・7月2日、前日に引き続き、夕張で創価学会炭労弾劾大会が開催される。この日は戸田城聖が出席する。
・7月3日、戸田城聖は妙悟空の筆名で小説『人間革命』を出版する。
・7月4日、同日付の日本経済新聞夕刊で、池田大作を「公職選挙法違反の疑いで自宅で逮捕」と報道される。
・7月7日、『聖教新聞』で「続いて四日には池田参謀室長を逮捕」と報道される。
・7月12日、蔵前国技館にて創価学会の東京大会が開催され、2万人が参加する。
・7月15日、小泉隆が釈放される。
・7月17日、池田大作は全面自供を終え、釈放される。同日、中之島中央公会堂にて創価学会の大阪大会が開催され、池田大作も参加。雷雨の中、2万名が参加する。
・7月29日、参議院大阪選挙区補欠選挙における公職選挙法違反容疑で池田大作ら幹部45名が起訴される。同日『朝日新聞』夕刊で報道。
・8月18日、第1回北海道体育大会。
・8月20日、夕張の興隆寺落慶入仏式、続いて創価学会夕張支部結成大会が行われ、戸田城聖が参加する。
・9月6日、『聖教新聞』に池田参謀室長の「遺誡置文講義」が掲載される。
・9月8日、横浜の三ツ沢競技場で創価学会の東日本体育大会が開催され、5万人が参加。席上、戸田城聖は会長指導で「原水爆禁止宣言」を発表する。
・9月26日、九州に総支部制が敷かれ、総支部長に石田次男が任命される。石田次男の後任の小岩支部長には和泉覚が任命される。
・11月、戸田城聖が肝臓病と糖尿病を併発していることが判明する。
・12月25日、創価学会の世帯数が76万5千世帯を突破。戸田城聖の布教目標を達成する。
 
1958年(昭和33年)
・2月、『大白蓮華』2月号(81号)にて「四月大阪参院選における選挙違反(田村、中村らの百円札事件)の共謀容疑で大阪府警は、小泉理事長(六月二十九日)池田渉外部長(七月四日)を逮捕したが、これは事実無根であり」と報道し、池田大作の逮捕日を「7月4日」とする。
・2月24日、戸田城聖の体調が再び悪化する。
・3月1日、創価学会の建立寄進により、大石寺に「大講堂」が落成し、大法要が行われる。大法要には岸信介総理大臣、松永東文部大臣が祝辞を寄せる。また東京都知事の安井誠一郎らが出席。この日から3月いっぱいまで創価学会信者は落成記念の慶祝登山を行う。戸田城聖は第2部であいさつに立ち「信心第一に、今、自界叛逆の難に陥っている日本の国を、御本尊の力によって救わなければならない」と力説。戸田はこの日から本山に滞在して指導にあたる。
・3月16日、創価学会青年部6,000名が集まり、大石寺大講堂前で記念式典「広宣流布の模擬試験」を行う。朝から本山境内で豚を3頭屠殺し、ドラム缶で豚汁を作り、参詣者に振る舞う。戸田城聖は青年部が作った車駕に乗り、本山境内を練り歩く(大石寺境内は「下馬下乗」と言われ、法主であっても乗り物に乗ることは禁じられている)。式典には岸信介首相の代理として夫人と令嬢、令息、安倍晋太郎、南条徳男らが出席。式典では池田大作が司会を務める。
・3月17日、記念式典終了後、体調を崩した戸田城聖は理境坊の2階で休む。戸田の枕元に最高議決機関の理事長と理事4名(小泉隆、原島宏治柏原ヤス辻武寿、馬場勝種)と参謀室4名(池田大作、北条浩、森田一哉龍年光)が集まる。辻が「3代会長は誰にするんですか」と質問すると戸田は「それはお前たちが決めるんだ」と答える(辻は戸田から次期会長として池田大作が指名されると思っていたが、指名がなかったので驚いたことを龍が後年に証言している)。
・3月22日、理事会が大石寺にて行われる。今後の創価学会の在り方などについて検討。池田大作も参加する。
・3月29日、池田大作は、青年部幹部数人らに命令して、大石寺の所化頭の的場正順を呼び出して服を脱がせ、御塔河原に放り込んで「暴行」を行う(的場正順氏の僧侶宛の手記による)。
・3月30日、戸田城聖法華講総講頭に任命される。池田大作は一度、大石寺から下山する。
・3月末、和泉覚池田大作は、戸田城聖の入院先を探す。
・3月31日、池田大作は再び大石寺に登山。同日、戸田城聖大石寺から下山。理境坊に駆けつけた正妻の戸田幾子は「あなたたちは何ですか。戸田がこんな状態になるまでこんな寒いところに置いておくなんて!」と幹部たちを叱責する。
・4月1日、戸田城聖神田駿河台の日大附属病院に入院する。
・4月2日、午後6時30分、戸田城聖は日大附属病院で逝去。享年58歳。死因は肝硬変による急性心衰弱。戸田城聖の遺体は5人の幹部(秋谷栄之助池田大作、北条浩、森田一哉龍年光)の手によって目黒の自宅の2階まで運ばれる。大石寺65世堀米日淳は直ちに大石寺より下山し、戸田の自宅に駆けつけ、読経唱題を行う。
・4月3日〜4月8日まで戸田城聖の遺体は目黒の自宅2階に安置される。
・4月8日、東京池袋の常在寺にて堀米日淳の大導師で戸田城聖の告別式が執り行われる。信者約12万人が焼香に訪れる。堀米日淳は戸田城聖法華講総講頭の称号を贈る。またその前に「大宣院法護日城大居士」の戒名を授ける。
・4月11日、池田大作の三男、池田尊弘が生まれる。
・4月19日、創価学会本部で最後の通夜が営まれ、席上、大石寺65世堀米日淳より戸田城聖を「法華講総講頭」に任命する辞令(3月30日発令)が授与される。
・4月20日青山葬儀場にて戸田城聖の「創価学会葬」が営まれる。池田大作は司会を務める。創価学会信者ら約25万人が参列。岸信介内閣総理大臣、松永東文部大臣が参列。
・4月、戸田城聖の葬儀の直後、池田大作、白木薫次、龍年光、園部恭平ら数名が小さなトラック2台と共に目黒の戸田の自宅を訪問する。この際、区議とともに戸田城聖の所有していた日本刀等、遺品のいくつかを保存したいとして持ち出す。
・4月23日、戸田の正妻である戸田幾子は、取引銀行の三菱銀行四谷支店長に、戸田名義の財産がいくらあるのか調査を依頼。調査の結果、戸田城聖の死後、4月3日、戸田の愛人で大蔵商事専務理事の森重紀美子により、名義が書き換えられていることが判明する。戸田幾子は抗議の上、会長印を持つ秘書部長の和泉美代(和泉覚の妻)を通じて戸田城聖の財産譲渡の交渉を創価学会幹部らと行う。後日、創価学会側は戸田城聖名義の財産は8000万円で、そのうち2000万円を戸田幾子に渡すと伝え、戸田幾子と遺産問題について合意する。
・4月24日、池田大作は男子部指導会第1期卒業式に出席し、質問会を担当する。
・4月25日〜28日、池田大作は神戸並びに関西の教学試験のため、関西方面に赴く。
・5月3日、創価学会第18回春季総会が開催される。席上、原島宏治理事は「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ一人もいない」と発言。また小泉隆理事長は「会長という職は当分おかないつもりであります」と述べる。
・5月18日、男女青年部第1回九州総会が福岡県久留米市公会堂で開催され、小泉隆、石田次男、白木義一郎、池田大作、牛田寛らが参加する。総会で池田参謀室長は戸田会長の遺訓として国立戒壇の建立を強調する。
・6月9日、戸田城聖創価学会葬で全国の信者から集められた香典について、戸田幾子の催促の末、4000万円のうち葬儀費用400万円を差し引いた残り3600万円が戸田家に届けられる。
・6月30日、6月度の本部総会が開催される。池田大作は新設された「総務」に就任する。渉外部長は離任となるが、青年部参謀室長の兼任は継続する。
・7月、創価学会は33名からなる「鼓笛隊」を結成する。
・9月、『大白蓮華』9月号で池田大作は「すなわち国立戒壇の建立こそが目的なのです」と述べる。
・12月2日、戸田城聖実妹である跡部雅子は遺産分配を要求したが、創価学会からも戸田幾子側からも拒否されたため、岩手県一関市から上京。知人を介して和泉美代と折衝し、彼女の所持する戸田城聖関係の書類(書簡等)と引き換えに創価学会から34万円を受領する。
・12月14日、創価学会鼓笛隊は初の全国大会に参加する。会場は品川の労政会館。
 
1959年(昭和34年)
・1月、この年から創価学会の年間テーマが決定される。昭和34年は「黎明の年」となる。
・1月、創価学会は『聖教グラフ』を発刊する。
・1月16日、石田次男が文化部員に任命される。
・4月20日京都大学法学部に在学中の山崎正友は岡山市の妙霑寺で授戒を受け、創価学会に入信する。
・4月23日、統一地方選挙の投開票日。龍年光が都議会に初当選する。大阪と横浜市議会では候補者全員当選を果たし、注目を集める。
・4月30日、統一地方選挙(東京特別区議会選挙、全国市議会議員選挙)で創価学会は市区議会に287人を擁立して261人が当選する。東京区議会は76人全員当選を果たした。
・5月、創価学会大石寺への登山会、バス輸送のため株式会社「大富士開発」を設立する。
・6月2日、第5回参議院選挙。創価学会候補6名(全国区5、地方区1)全員当選。戸田城聖亡き後、創価学会が衰退の兆候を見せず、教勢を拡張していることを世間に印象づける。
・6月30日、池田大作が理事に就任。参謀室長は離任する。
・9月13日、第2回全国体育大会「若人の祭典」が東京国立競技場で開催され、約7万人の青年部が参加する。男子部は86個部隊、女子部は79個部隊が出場し、マスゲームや体操、民謡、リズムダンス等を披露する。また鼓笛隊と音楽隊も演奏で参加する。池田大作総務は「学会の使命は最高の文化国家、世界平和の建設にある」と指導する。
・11月15日、丑寅の刻に細井日達総監が大石寺65世堀米日淳から血脈相承を受ける。 
・11月17日、堀米日淳が亡くなる。享年61歳。
・11月22日、59世堀日亨の3回忌法要が行われ、池田大作ら理事長、幹部らが各支部の代表約200名とともに参列する。
・11月23日、創価学会の第1回「学生祭」が東京の共立講堂にて開催され、約1,000名の学生部員が参加し、創作劇、合唱、器楽演奏、展示等を発表する。池田大作総務も参加して指導。
・11月29日、女子部が部員10万人を達成。100個部隊に達する。第7回女子部総会が日大講堂で開催され、約2万人が参加。池田大作が講演を行う。
・11月30日、池田大作は元本部指導部員の故馬場勝種氏の築地支部葬に参列する。
・12月2日、御座替式が行われ、細井日達大石寺66世法主に正式に就任する。池田大作総務は参加していない。
・12月3日、大石寺65世堀米日淳の本葬。池田大作は参列していない。
・12月4日、池田大作は横浜の一般講義で『佐渡御書』の講義を行う。
・12月6日、男子部が103個部隊に達する。第8回男子部総会が日大講堂で開催。男子部員約3万5千人が参加する。池田総務が講演。
・12月23日、創価学会は130万世帯を超える。
 
1960年(昭和35年
創価学会、「前進」の年。
・3月10日、男子青年部1,000名、鼓笛隊を先頭に気勢をあげて身延山日蓮宗を批判。
・3月30日、創価学会本部第一応接室にて、小泉隆理事長より「全幹部の意向」「機は熟した」として池田大作氏の第3代会長就任を望む話が出る。池田氏は断る(池田大作『若き日の日記』)。
・4月2日、大石寺にて戸田城聖の3回忌法要。
・4月9日、創価学会本部にて臨時の理事会が夜遅くまで行われる。池田大作の第3代会長推戴決定の連絡があるが、池田は断る(池田大作『若き日の日記』)。
・4月、原田稔東京大学に入学。
・4月14日、創価学会第一応接室にて、理事室と参議室の合同会議の席上、池田大作は会長就任の推戴を受ける。原島宏治と理事たちの強い願い出により池田大作は会長就任を決意する(池田大作『若き日の日記』他)。
・4月16日、本部部長会議。池田大作総務の会長就任内諾が伝えられ、全員が推戴に賛同。
・4月19日、創価学会の緊急幹部会。原島宏治理事から経過報告があり、池田大作総務を正式に第3代会長に推戴することが伝えられる。
・4月、東洋精光は創業7周年の祝賀会を東京上野の精養軒で開催。東洋精光専務の藤原行正が司会を務める。池田大作もこの会に参加し、社長の北条浩が挨拶をする(藤原行正池田大作の素顔』)。
・5月1日、機関誌『前進』創刊。
・5月3日、両国の日大講堂にて第22回本部総会、池田大作第3代会長就任式が開催される。大石寺から来賓として66世細井日達ら多数の僧侶も出席する。司会は龍年光
・5月3日、『戸田城聖巻頭言集』発刊。
・5月3日、大客殿建立委員が決定。原島宏治理事長、北条浩副理事長、和泉覚、白木薫次、石田次男森田一哉、小平芳平の各理事。顧問として小泉隆本部最高顧問。
・5月8日、池田会長、関西総支部幹部会で「関西の邪宗教の牙城」「天理教を総攻撃せよ」と指導する。
・5月10日、池田会長、東京体育館で開かれた男子部幹部会で「立正佼成会を撲滅せよ」と指導する。
・5月13日、大石寺66世細井日達は、池田大作の会長就任を祝して園遊会大石寺蓮葉園で開催。池田会長ら幹部代表約250人が細井日達の招待で出席。以後、毎年、園遊会を行うことが定例になる。池田会長は戸田会長時代と変わらない総本山の外護の決意を披歴する。
・6月、機関誌『大白蓮華』109号にて、池田大作は「化儀の広宣流布とは、国立戒壇建立のことである」と指導する。
・6月7日、池田大作は東京豊島公会堂で行われた城東支部幹部会に出席。会長本仏論を否定したと言われる。
・6月10日、池田大作は中部総支部幹部会に出席。「創価学会衆議院には出ません」と発言。
・6月12日、池田大作岡山県体育館で開催された中国総支部幹部会に出席。「学会員は立派な社会人になってほしい」と講演。
・7月、創価学会の世帯数150万世帯。
・7月15日、創価学会本部庶務部に海外係が設置される。当時の海外の信徒世帯数は北米466世帯、南米108世帯、東南アジア95世帯、欧州6世帯等の合計約700世帯とされる(『創価学会年表』)。
・7月16日〜18日、池田大作は会長就任後、初の沖縄指導に赴く。原島宏治理事長、北条浩副理事長らが随行。幹部会(光明寺)で沖縄支部結成が発表され、各部別の指導会も行われる。
・7月30日〜31日、水滸会の野外訓練が銚子の犬吠埼で行われる。会長就任後、初めて池田大作会長が出席し、194人が参加して野外で質問会を行う。池田は水滸会の指針について「灯台は水滸会であり、船は民衆である。灯台は怒濤の中にあって、航海するすべての船を照らし、指針となっていかなければならない」と指導する。
・7月31日、華陽会の野外訓練が千葉の富津海岸で行われる。池田大作会長とともに女子部華陽会82人が参加する。
・8月7日、創価学会幹部は全国の法華講講頭と懇談会を行う。池田会長があいさつをする。
・9月23日、創価学会青年部第3回全国体育大会「若人の祭典」が開催。大石寺66世細井日達が来賓として出席。
・9月29日、渉外局が復活。渉外局長に辻武寿、次長に龍年光、事務長に大野潔。
・10月2日〜、創価学会初の海外指導。参加者は池田大作会長、北条浩副理事長、秋谷栄之助青年部長、石田次男理事、柏原ヤス理事、小平芳平理事の6名。訪問国はアメリカ、カナダ、ブラジル。
以下、海外指導の日程
・10月2日〜3日、ハワイ、ホノルル
・10月3日〜6日、サンフランシスコ
・10月6日〜8日、シアトル
・10月8日〜11日、シカゴ
・10月11日〜13日、カナダ、トロント
・10月13日〜18日、ニューヨーク、ワシントンDC
・10月19日〜20日、ブラジル、サンパウロ
・10月21日〜24日、ロサンゼルス
・10月25日、帰国。
・10月23日、アメリカに総支部、ブラジルとロサンゼルスに支部が結成される。
・10月31日、創価学会本部に海外部が設置され、初代海外部長に神尾武雄本部指導員が就任する。
・11月18日、牧口常三郎会長の第17回忌法要が常在寺で行われ、池田大作会長は約400人とともに参列。池田会長は「代々の会長の精神を受け継ぎ、いかなる苦難をも厭わず戦う」とあいさつする。
・11月27日、雑誌『第三文明』が創刊。池田大作は創刊号に「創刊を祝す」と題し寄稿。
・11月27日、第2回「学生祭」が東京の日比谷公会堂にて開催される。創作劇「三国志」、コーラス、弁論、展示、記録映画、剣舞などが行われ、約3,000人が参加。池田大作は「①妙法根底の文明樹立によってのみ、真の幸福と永遠の平和建設が可能になる」「②学生部員は各界の大人材に成長してほしい」と講演。
・11月30日〜12月1日、大石寺にて御会式が行われる。細井日達はじめ僧侶約50人が出仕。創価学会からは池田大作会長はじめ、約2,200人が参列。
・12月1日、大石寺大納骨堂、十二角堂の落慶法要が大石寺にて行われる。細井日達の慶讃文奉読。各部からあいさつ。池田大作落慶法要に参列する。
 
 
 
 
参考文献・史料等
 
池田香峯子、主婦の友社編『香峯子抄』主婦の友社、2005年
池田大作『若き日の日記』、『池田大作全集』第36巻〜第37巻所収、聖教新聞社、1990年〜1991年
池田大作『会長講演集』第1巻〜第4巻、創価学会、1961年
小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年
上藤和之、大野靖之編『革命の大河〜創価学会四十五年史』聖教新聞社、1975年
創価学会年表編纂委員会編『創価学会年表』聖教新聞社、1976年
戸田城聖『若き日の手記・獄中記』青娥書房、1970年
央忠邦『池田大作論』大光社、1969年
富士年表編纂委員会編『富士年表』富士学林、1990年増訂版
原島昭『池田大作原島家』人間の科学新社、2014年
藤原行正池田大作の素顔』講談社、1989年
溝口敦『昭和梟雄録』講談社+α文庫、2009年
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
山崎正友『闇の帝王、池田大作をあばく』三一書房、1981年
山崎正友『創価学会と「水滸会記録」』第三書館、2004年
ブログ『価値[再]創造』