いつもみなさん、ありがとうございます。
個人的にはこの年譜もまだ未完成で、増補の必要性を強く感じるところなのですが、同時並行で「池田大作の会長就任までの年譜」を自分なりに少しずつ作っていました。
いつか両編を大きく増補改訂の上、合体して創価学会の年表としてあげていきたいところではありますが、読者からの要望もあり、自分なりに未完成ながらある程度、史料に基づいて書き上げてみたものを、途中経過ではありますが、アップしてみたいと思います(記事の未完成なところは筆者であるブログ管理人が強く痛感するところであります)。
池田大作氏の生まれた昭和3年(1928年)から、池田大作の妻となる池田香峯子(白木かね)も含めて、創価学会の歴史と交えながら時系列で会長就任の昭和35年(1960年)までを書いてみたところです。巻末に主な参考文献を挙げましたが、ここで書かれていることは、基本的に史料からわかる事実を一つ一つ積み上げて書いたものにすぎません。多くの読者による情報提供、当時の時代証言、史料の教示にも大いに助けられました。改めて感謝申し上げます。当然ながら年譜の未完成さ、細部まで描けていない不十分なところについて、その文責がブログ管理人である「気楽非活」筆者本人にあることを否定するものではありませんし、またその責を回避するものでもありません。
1928年(昭和3年)
・1月2日、池田大作、東京府荏原郡大森町(入荒井町)大字不入斗(現在の大田区大森北2丁目か)に池田家の五男として生まれる。幼名は「太作」。父は海苔製造業を営む池田子之吉(ねのきち)、母は池田一(いち)。
長男:池田喜一
次男:池田増雄
三男:小宮開造
四男:池田清信
長女:池田とよ子
五男:池田大作
六男:池田栄一
七男:池田隆市
八男:池田正利
次女:山越いね子
また池田大作の祖父の名は池田五右衛門、祖母は池田きくである。池田大作の父・池田子之吉は池田五右衛門の三男で、本家は長男の池田百太郎が継いでいる。池田子之吉は50歳まで分家が持てなかったと言われる。池田大作の旧名「太作」は「タサク」と読むか「タイサク」と読むかで諸説が分かれるが、池田本人は「タイサク」としている。
1930年(昭和5年)
・池田は家族とともに羽田町大字糀谷3丁目に移転する。
1932年(昭和7年)
・2月27日、後に池田大作の妻となる白木かね(池田香峯子)が生まれる。生家は大田区矢口渡。父は後の創価学会理事の白木薫次(しげじ)。母は白木静子。姉が白木よし、兄が白木文郎(ふみお)、後に生まれる弟が白木周次。
1934年(昭和9年)
1935年(昭和10年)
・池田が小学2年の頃に父・子之吉がリューマチで病床に伏し、寝たきりとなる。海苔製造業も縮小せざるを得なくなる。長兄の喜一は中学校をやめてリヤカーで武蔵小杉まで野菜を仕入れに行き、売り歩くようになったという。
1936年(昭和11年)
・池田家は西糀谷2丁目に転居する。中二階建ての家で、転居当時は家の壁がまだ乾いていなかったと言われる。
・この頃から池田は、家業の海苔製造業を手伝い始める。
1937年(昭和12年)
・池田の父の子之吉のリューマチが回復に向かう。
・長男の喜一が戦地に出征する。近衛師団に入団する。この後、池田の四人の兄は次々と出征することになる。
1939年(昭和14年)
1940年(昭和15年)
・池田大作は羽田高等小学校に入学。この頃から池田はすぐ上の兄と新聞配達を始め(約3年間、小学6年〜高小2年まで)、家業を助ける。
1941年(昭和16年)
・7月12日、原島宏治の妻である原島セイに折伏され、白木静子(池田香峯子の実母)が入信(当時の白木静子は静脈炎という難病にかかっており、心配した隣家の原島セイが白木静子に入信を勧めた)。娘の白木かね(後の池田香峯子)らも家族全員で創価学会、日蓮正宗に入信する。
1942年(昭和17年)
・3月、高等小学校の卒業を控え、池田は少年航空兵になろうと志願していたが、海軍の係員が志願書を持って家を訪れた際、両親が猛反対して志願は取り消しになる。
・3月、高等小学校を卒業した池田は、既に3番目の兄(開造)が勤めていた、蒲田駅近くの新潟鉄工所に就職する。同社は軍需工場でディーゼルエンジン等を作っていたが、池田はミーリングの見習工として入ることになる。
・池田大作の新潟鉄工所での仕事ぶりは優秀で、工場では二度ほど表彰を受けたとされる。
・白木かね(池田香峯子)は小学5年生になり、担任が辻武寿であった。
・この頃、白木かねの自宅では座談会が行われ、牧口常三郎が来ていたという。
1944年(昭和19年)
・夏、軍事教練で木銃を持って行進中、池田は持病から血痰を吐き、現場から事務係に回される。
・池田家は強制疎開で大森・馬込に移転する。
1945年(昭和20年)
・4月15日、東京大空襲。白木かねの父・白木薫次と姉の白木よしは空襲に遭遇し自宅が焼失するが、避難して助かる。
・5月24日、馬込に空襲があり、池田家は焼失。蒲田区森ケ崎に移転する。
・秋頃から池田は新橋にある昭文堂印刷(社長:黒部武男)に勤務する。
1946年(昭和21年)
・この頃、須山秀吉氏を中心に「郷友会」という読書会が結成され、池田大作も参加する。須山氏は右翼的思想を持ち、1942年頃(?)に笹川良一の国粋同盟の青年隊長で、国粋同盟の藤義男(国粋同盟幹部、蒲田区選出議員)の選挙の手伝いをしていた。
1947年(昭和22年)
・3月、東洋商業卒業。
・池田大作は春に鎌倉へ社員と花見に行き、その後、体調のこともあって昭文堂印刷を退社。池田はしばらく自宅で静養する。
・この頃(?)、池田大作は羽田第二尋常小学校の同級生Y.S氏の紹介で「郷友会」に参加する。池田は須山氏からも思想的な影響を受ける。郷友会の一員の証言によれば、池田大作は銀座の国粋同盟の事務所にも通ったことがあるという。
・8月14日、池田は羽田第二尋常小学校のY.S氏の誘いで、三宅家で行われていた蒲田の座談会に参加する(三宅家の次女である三宅淑子が同級生だったことも参加の理由だった。彼女が池田大作の初恋相手との説がある)。
・8月24日、中野の歓喜寮(後の昭倫寺)で池田大作は日蓮正宗の御授戒を受ける。池田は御本尊を受けようとせず、押し付けられた本尊を仏壇に下げずに3日ほど放っておいた。その後、雷があり、不安になって題目を唱え始めるようになる(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)。
・9月、蒲田工業会の事務員として働くことになる。
1948年(昭和23年)
・4月、大世学院政経科夜間部に入学。
・8月13日、池田大作は夏季講習会に参加する(5日間で188人が参加)。
・12月、蒲田工業会を退社。
1949年(昭和24年)
・5月、池田大作は『冒険少年』(後に『少年日本』に改題)の編集長となる。
・8月、『冒険少年』の返品が激増して採算を割り、『少年日本』と改題する。
・8月10日、『大白蓮華』第2号に「池田伸一郎」の筆名で「若人に期す」という題名の宗教詩が掲載される。
・8月12日、創価学会、第4回夏季講習会。
・秋頃、池田は大世学院を中退。
1950年(昭和25年)
・1月1日、戸田理事長を囲む勉強会に参加。
・1月6日、『大白蓮華』第6号に池田の詩「聖なる富士に祈る」が掲載される。
・5月17日、戸田理事長を囲む勉強会に参加。
・6月、東京建設信用組合の預金払い戻しが急増する。
・6月3日、池田は青年部会に出席。
・6月23日、池田は指導員会議に出席。
・7月1日、池田は青年部会に出席。
・7月、東京建設信用組合、資金難と債権回収の停滞から取り付けまがいの騒ぎになる。
・10月、池田は大蔵商事の社員に異動。
・11月27日、池田は大蔵商事の営業部長になる。
・12月、大蔵商事は新宿百人町に移転。
1951年(昭和26年)
・2月初旬、大蔵省から「東京建設信用組合を解散しても良い」旨の内意が伝えられる。
・池田は蒲田支部大森地区委員になる。
・5月1日、『聖教新聞』に「ある信者の話」として小笠原慈聞氏に関する記事が掲載される。
・5月19日、創価学会は大石寺64世水谷日昇より「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と書かれた本尊の下附を受ける。いわゆる創価学会常住本尊であり、これが後年に板に模刻され、現在は信濃町大誓堂に安置される。
・6月、池田が営業部長を務める大蔵商事も市ヶ谷ビルに移転する。この頃から大蔵商事の社業が上向き始める。
・創価学会に監査部が設置される。
・7月11日、創価学会青年部結成式、男子部は4部隊187人、女子部は5部隊70人。池田は男子部第4部隊(龍年光部隊)所属の班長になる。戸田城聖はこの式の席上「今日集まられた諸君の中から、かならずや次の学会会長が現れるであろう」と発言する。
・7月18日、創価学会常住本尊の入仏式が行われる。
・7月19日、創価学会に女子部が結成される。最初の74人が結成され、白木かねも参加する。
・7月22日、九段一口坂の家政女学院講堂で、水谷日昇の導師で創価学会本部常住本尊の奉戴式が行われる。この後、堀日亨(59世隠尊)、水谷日昇(64世)、堀米日淳(後の65世)の隣席を得て、奉戴式に引き続いて臨時総会が開催される。
・9月1日、創価学会は「講義部」を「教学部」と改名する。
・10月1日、指導部準指導員になる。教学部では「助師」となる。
・10月17日、GHQ民間情報教育局の初代局長のガーネット・ダイク准将の意向の下、宗教文化資源課のウィリアム・バンス課長が日本政府機関と協議の上、「新日本宗教団体連合会」(略称は「新宗連」)を発足させる。発足時には生長の家、立正佼成会、PL教団、世界救世教等が加盟する。創価学会は加盟を拒否。
・12月、秋谷栄之助が入信、後に戸田城聖に評価されて「秋谷城栄」と名乗る。その後、石田次男の下で聖教新聞編集主任を勤める。「カミソリのように切れる」と評され、後年に創価学会の第5代会長に就任することになる。
・12月18日、大石寺に呼ばれて登山した戸田城聖は細井庶務部長らと会議に臨む。戸田城聖は創価学会が日蓮正宗の信徒団体であることを前提とした上で、創価学会を新たに「宗教法人」として設立したい旨を日蓮正宗宗務院に願い出る。この日に戸田城聖は大石寺に登山し、宗教法人創価学会設立に際して宗門から要望のあった3箇条の遵守を約束する。この「3箇条」とは「1、折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」「2、当山の教義を守る」「3、三宝(仏・法・僧)を守る」だった。
・12月20日、『聖教新聞』1面に「会長先生緊急登山。宗務院の命により」「宗教法人設立に本山より三箇条の要望。戸田会長病苦を押して登山」の記事が掲載される。この記事中、戸田城聖が登山させられたことを「学会の前途に諸難あることを意味し」と書いている。
・12月27日、池田は教学部の講師に就任。
1952年(昭和27年)
・4月28日、大石寺、宗旨建立七百年記念慶祝大法会。
・5月3日、池田は白木かねと結婚。『聖教新聞』5月10日付に結婚記事が掲載される。
・5月、池田大作は大蔵商事の重役に就任する。
・5月18日、池田大作は男子部情報参謀に就任。第4部隊幹部長、教育幹部を兼任。
・5月23日〜、小笠原慈聞氏は謝罪を取り消し、自論を改めて主張し、5月23日付のパンフレットを全国の関係者に送付する。
・6月10日、戸田城聖は小笠原慈聞への闘争の『宣言』を発表。この中で小笠原慈聞は「僧侶とは思わず、天魔の眷属と信ずる」と断定する。
・6月27日、大石寺宗門の宗会が紛糾し、深夜にまで及ぶ。
・6月28日、早朝より大石寺宗門は宗規の審議を行い、夜の7時半になってようやく決議文が全会一致で採択される。この中で宗門は戸田に対して謝罪文の提出要求、大講頭罷免、登山禁止の3点を決定する。15名の宗会議員はこれに全員賛成をする。この決議の後、宗務総監以下の3人の役僧が辞意を表明。創価学会擁護を主張した細井精道(後の細井日達)庶務部長も辞任する。
・9月7日、9月度の男子部幹部会で、池田大作は司会を担当する。
・9月9日、水谷日昇は小笠原慈聞に『誡告文』を送付する。
・10月14日、仏教講演会が東京の三鷹市警察署講堂で開催され、約60人が参加する。戸田城聖ら5人が講師として出席。池田大作情報参謀は「日蓮宗概論」、戸田城聖が「生命論」をテーマに講演を行う。終了後、講師らと警察署首脳が懇談する。
・10月21日、創価学会は女子部の人材グループとして「華陽会」を結成する。
・10月31日、小笠原慈聞は正式に創価学会への謝罪を表明。一切の告訴を取り下げ、謹慎を確約する。
・12月25日、池田大作は第4部隊の指導会に出席する。
・12月27日、宗教法人法による「宗教法人日蓮正宗」設立登記。
1953年(昭和28年)
・1月2日、石田次男第1部隊長が創価学会理事に昇格。これを受けて同日、池田大作は第1部隊長に就任、中西治雄が池田の補佐役となる。池田はまた蒲田支部の支部幹事に就任。前任の石田次男氏は第1部隊長からA級支部・小岩支部の支部長へと抜擢される。
・1月10日、池田大作は教育参謀に就任。
・1月27日、地区部長が集まって初の「地区部長会」が開催される。戸田城聖が出席する。
・4月、池田大作の妻・かねは、この頃から「池田香峯子」と名乗り始める(戸籍上の改名の手続きは現在までしておらず、本名は「かね」のままである)。池田香峯子本人は「結婚した折…戸田城聖先生から、現代的に漢字で『香峯子』と命名していただき」と述べている(『香峯子抄』平成17年)。
・7月21日、戸田城聖は男子部幹部43名を選抜して毎月2回の特別指導を与えるために新編成の「水滸会」を新結成する。前年12月の水滸会は非公式で1期生にあたり、この年の発足が厳密には2期生にあたる。「水滸の誓い」という宣誓書を池田大作が草案し、43名のメンバーとともに池田本人も署名する。
・11月、創価学会信者の寺籍の移動が始まる。ある寺院に所属する会員が移転しても、遠隔地のものを入信させてもその寺への所属という点では変わらないが、創価学会信者の急増に伴い不便が生じたため、会員信徒の寺籍は最も近い日蓮正宗寺院に移すことになる。
・12月10日、小笠原慈聞は聖教新聞の報道に接し、青年部宛に感謝の礼状を送る。
・12月13日、池田大作は他の青年部幹部とともに小笠原慈聞氏を慰問。また名古屋で会員を指導。
1954年(昭和29年)
・1月23日、聖教新聞に社友、通信員制度が敷かれ、池田大作は他11名とともに「社友」に就任。初の社友懇談会を創価学会本部にて開催。池田大作も懇談会に参加する。これ以降、池田氏は随時同紙に「社友」として執筆することになる。
・3月30日、青年部は1支部に1部隊が設けられ、男女各15部隊に再編、青年部に参謀室と情報部が新設される。池田大作は第1部隊長を解任され、参謀室長と情報部最高顧問に就任。初めて池田は創価学会の本部付となる。北条浩は主任参謀、森田一哉、龍年光、山浦千鶴子、石田栄子、北条弘子、樋口トシ子は参謀に就任する。
・5月3日、第10回春季総会が行われる。戸田城聖は理事の交替と理事長制の復活を提議。理事長に小泉隆(蒲田支部長、企画部長)、理事に柏原ヤス(杉並支部長、指導監査部長)、石田次男(小岩支部長、聖教新聞社編集長)、白木薫次(蒲田支部矢口大地区部長)を任命する。
・5月9日、男女青年部5,500名が豪雨の中、大石寺に結集し、戸田城聖の前で広宣流布達成を誓う「大儀式」を開催する。開催前夜から60台のバスを連ねて向かった青年部員は、地理の不案内やバスの故障が相次ぎ、10時間近くかかって大石寺に辿り着く。このため儀式は予定より遅れて昼過ぎに開始された。
・7月、各種行事の際の本部幹部、支部幹部の席次が決定される。
・9月4日〜5日、水滸会の第1回野外訓練が東京氷川で行われ、戸田城聖とともに68人の青年部が参加。戸田城聖は4日夜、キャンプファイアーを囲みながら「今日から10年目に再びこの氷川の地に集まろう」「その時は諸君に頼むことがある」と発言する。
・10月1日、戸田城聖は青年部に「国士訓」を発する。
・11月7日、池田大作は「世紀の祭典」と銘打ち、責任者として世田谷下高井戸の日大グラウンドで青年部の文化祭を開催する。この時、軍楽隊が誕生し、池田は貯金から5万円をおろして醵出した。
・11月22日、創価学会に文化部が設置。部長に第1部隊長の鈴木一弘が任命される。文化部は翌昭和30年からの政治進出のための指導機関としての位置付けであった。
1955年(昭和30年)
・1月23日、大阪中之島で創価学会西日本3支部の連合総会が開催され、関西の日蓮正宗寺院のほぼ全ての住職が参加する。大阪市北区の蓮華寺住職の崎尾正道は参加しなかった。崎尾氏は理由を書面で創価学会に提出。理由は創価学会信徒の葬式のためだったという。
・1月24日、戸田城聖は崎尾正道氏の態度に激怒し、創価学会信者十数人で連日蓮華寺を囲ませて、参拝に来る信者を追い返させた。この時、指揮を取ったのは大阪支部長の白木義一郎である。崎尾正道はこれらの行為に抵抗し、1月27日、創価学会信者に貸与した本尊の返納を迫り、その旨の書簡を白木義一郎に渡した(第1次蓮華寺事件)。
・2月6日、『聖教新聞』にて蓮華寺の崎尾正道氏を批判する記事がトップで掲載される。この中で記事は「大阪に悪鬼入其身の見本」「全御本尊の返却迫る」「学会は同人追放迄斗争」とまで書かれている。同紙の「寸鉄」では「僧形にして僧に非ず、天魔なるのみ」とまで非難している。
・2月9日、前年に設置された「文化部」(公明政治連盟の実質的な前身)第1次部員として54人が任命される。
・2月13日、『聖教新聞』で再び崎尾正道氏を非難する記事が大きく掲載される。
・2月25日、蓮華寺檀徒の有志(森本、仲ら他)が西宮正運寺で会合。
・3月2日、身延派日蓮宗との公開法論について誓約書が交換され、連絡を受けた青年部が現地に幹部を派遣して実情を調査し、辻青年部長と池田参謀室長に報告する。
・3月3日前後、辻青年部長と池田参謀室長が小樽に向かう。
・3月8日、文化部の第2次部員として13人が新たに任命される。
・3月11日、創価学会は身延派日蓮宗と公開法論を行う(いわゆる「小樽問答」)。創価学会側の司会を池田大作が勤め、創価学会側の講師は小平芳平教学部長、辻武寿青年部長。身延日蓮宗側は司会を1名、講師として室住一妙僧正、顕本法華宗から長谷川義一僧正が参加する。
・4月の選挙で「タテ線」組織の選挙上の非効率さが明らかになり、東京からブロック制の導入をするようになる。
・6月、池田大作の住む「秀山壮」は子どもが2人以上になると転居する決まりがあり、池田香峯子の実家近く小林町の一軒家に池田家は移ることになる。池田大作は蒲田駅近くの小林町(現在の東矢口3丁目)に住宅を購入する。借地で建坪は23坪、4室で100万円、義父の白木薫次に頭金を借りたと言われる。
・6月12日、『聖教新聞』、本尊を「幸福製造機」とする記事を掲載。
・8月、全国45都市に600名以上を派遣する地方折伏が行われ、小泉隆、柏原ヤス、辻武寿が総指揮となり、池田大作、石田栄子、龍年光、星生務、北条浩、鈴木一弘、浅井亨、星野義雄、白木静子らが派遣される。池田大作は札幌の主将に任命され、札幌班は388世帯の折伏を達成、全国第1位を獲得する。
1956年(昭和31年)
・2月19日、週刊『新潮』が発刊される。週刊誌ブームが起こる。
・3月29日、大石寺では64世の水谷日昇が退座し、65世として堀米日淳が登座する。
・4月、『大白蓮華』59号にて池田大作(当時参謀室長)は「奉安殿建立とその意義」を寄稿。この中で池田は「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と述べる。
・4月1日、創価学会に「学生部」が設置される。
1957年(昭和32年)
・4月23日、大阪の日刊紙、朝刊で百円札事件が候補者名を伏せて報道される。参議院大阪補欠選挙の投票日、南海高野線の初芝付近で個別訪問をしていた京都の創価学会信者が現行犯逮捕される。創価学会の船場支部長の中尾辰義が候補に立っていたが落選する。
・4月30日、午後、戸田城聖倒れる。
・5月19日、炭労、東京中労委会館で第17回定期大会を開催。昭和32年度行動方針本部案の修正案件として、特に「階級団結を破壊するあらゆる宗教運動には組織をあげて戦う」という一項が決定される。いわゆる「炭労問題」。
・6月27日、北海道炭労は第10回定期大会で、組合からの創価学会信者の締め出しの具体的な計画や指令を検討する。
・6月29日、小泉隆理事長が大阪府警に出頭。百円札ばら撒きによる買収を指示した容疑で逮捕・勾留される。
・7月3日、戸田城聖は妙悟空の筆名で小説『人間革命』を出版する。
・7月7日、『聖教新聞』で「続いて四日には池田参謀室長を逮捕」と報道される。
・7月15日、小泉隆が釈放される。
・8月18日、第1回北海道体育大会。
・9月6日、『聖教新聞』に池田参謀室長の「遺誡置文講義」が掲載される。
・11月、戸田城聖が肝臓病と糖尿病を併発していることが判明する。
1958年(昭和33年)
・2月、『大白蓮華』2月号(81号)にて「四月大阪参院選における選挙違反(田村、中村らの百円札事件)の共謀容疑で大阪府警は、小泉理事長(六月二十九日)池田渉外部長(七月四日)を逮捕したが、これは事実無根であり」と報道し、池田大作の逮捕日を「7月4日」とする。
・2月24日、戸田城聖の体調が再び悪化する。
・3月1日、創価学会の建立寄進により、大石寺に「大講堂」が落成し、大法要が行われる。大法要には岸信介総理大臣、松永東文部大臣が祝辞を寄せる。また東京都知事の安井誠一郎らが出席。この日から3月いっぱいまで創価学会信者は落成記念の慶祝登山を行う。戸田城聖は第2部であいさつに立ち「信心第一に、今、自界叛逆の難に陥っている日本の国を、御本尊の力によって救わなければならない」と力説。戸田はこの日から本山に滞在して指導にあたる。
・3月16日、創価学会青年部6,000名が集まり、大石寺大講堂前で記念式典「広宣流布の模擬試験」を行う。朝から本山境内で豚を3頭屠殺し、ドラム缶で豚汁を作り、参詣者に振る舞う。戸田城聖は青年部が作った車駕に乗り、本山境内を練り歩く(大石寺境内は「下馬下乗」と言われ、法主であっても乗り物に乗ることは禁じられている)。式典には岸信介首相の代理として夫人と令嬢、令息、安倍晋太郎、南条徳男らが出席。式典では池田大作が司会を務める。
・3月17日、記念式典終了後、体調を崩した戸田城聖は理境坊の2階で休む。戸田の枕元に最高議決機関の理事長と理事4名(小泉隆、原島宏治、柏原ヤス、辻武寿、馬場勝種)と参謀室4名(池田大作、北条浩、森田一哉、龍年光)が集まる。辻が「3代会長は誰にするんですか」と質問すると戸田は「それはお前たちが決めるんだ」と答える(辻は戸田から次期会長として池田大作が指名されると思っていたが、指名がなかったので驚いたことを龍が後年に証言している)。
・3月31日、池田大作は再び大石寺に登山。同日、戸田城聖は大石寺から下山。理境坊に駆けつけた正妻の戸田幾子は「あなたたちは何ですか。戸田がこんな状態になるまでこんな寒いところに置いておくなんて!」と幹部たちを叱責する。
・4月2日、午後6時30分、戸田城聖は日大附属病院で逝去。享年58歳。死因は肝硬変による急性心衰弱。戸田城聖の遺体は5人の幹部(秋谷栄之助、池田大作、北条浩、森田一哉、龍年光)の手によって目黒の自宅の2階まで運ばれる。大石寺65世堀米日淳は直ちに大石寺より下山し、戸田の自宅に駆けつけ、読経唱題を行う。
・4月3日〜4月8日まで戸田城聖の遺体は目黒の自宅2階に安置される。
・4月8日、東京池袋の常在寺にて堀米日淳の大導師で戸田城聖の告別式が執り行われる。信者約12万人が焼香に訪れる。堀米日淳は戸田城聖に法華講総講頭の称号を贈る。またその前に「大宣院法護日城大居士」の戒名を授ける。
・4月11日、池田大作の三男、池田尊弘が生まれる。
・4月、戸田城聖の葬儀の直後、池田大作、白木薫次、龍年光、園部恭平ら数名が小さなトラック2台と共に目黒の戸田の自宅を訪問する。この際、区議とともに戸田城聖の所有していた日本刀等、遺品のいくつかを保存したいとして持ち出す。
・4月23日、戸田の正妻である戸田幾子は、取引銀行の三菱銀行四谷支店長に、戸田名義の財産がいくらあるのか調査を依頼。調査の結果、戸田城聖の死後、4月3日、戸田の愛人で大蔵商事専務理事の森重紀美子により、名義が書き換えられていることが判明する。戸田幾子は抗議の上、会長印を持つ秘書部長の和泉美代(和泉覚の妻)を通じて戸田城聖の財産譲渡の交渉を創価学会幹部らと行う。後日、創価学会側は戸田城聖名義の財産は8000万円で、そのうち2000万円を戸田幾子に渡すと伝え、戸田幾子と遺産問題について合意する。
・4月24日、池田大作は男子部指導会第1期卒業式に出席し、質問会を担当する。
・4月25日〜28日、池田大作は神戸並びに関西の教学試験のため、関西方面に赴く。
・5月3日、創価学会第18回春季総会が開催される。席上、原島宏治理事は「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ一人もいない」と発言。また小泉隆理事長は「会長という職は当分おかないつもりであります」と述べる。
・6月30日、6月度の本部総会が開催される。池田大作は新設された「総務」に就任する。渉外部長は離任となるが、青年部参謀室長の兼任は継続する。
・7月、創価学会は33名からなる「鼓笛隊」を結成する。
・12月2日、戸田城聖の実妹である跡部雅子は遺産分配を要求したが、創価学会からも戸田幾子側からも拒否されたため、岩手県一関市から上京。知人を介して和泉美代と折衝し、彼女の所持する戸田城聖関係の書類(書簡等)と引き換えに創価学会から34万円を受領する。
・12月14日、創価学会鼓笛隊は初の全国大会に参加する。会場は品川の労政会館。
1959年(昭和34年)
・1月、この年から創価学会の年間テーマが決定される。昭和34年は「黎明の年」となる。
・1月、創価学会は『聖教グラフ』を発刊する。
・1月16日、石田次男が文化部員に任命される。
・6月30日、池田大作が理事に就任。参謀室長は離任する。
・9月13日、第2回全国体育大会「若人の祭典」が東京国立競技場で開催され、約7万人の青年部が参加する。男子部は86個部隊、女子部は79個部隊が出場し、マスゲームや体操、民謡、リズムダンス等を披露する。また鼓笛隊と音楽隊も演奏で参加する。池田大作総務は「学会の使命は最高の文化国家、世界平和の建設にある」と指導する。
・11月17日、堀米日淳が亡くなる。享年61歳。
・12月6日、男子部が103個部隊に達する。第8回男子部総会が日大講堂で開催。男子部員約3万5千人が参加する。池田総務が講演。
・12月23日、創価学会は130万世帯を超える。
1960年(昭和35年)
・創価学会、「前進」の年。
・4月14日、創価学会第一応接室にて、理事室と参議室の合同会議の席上、池田大作は会長就任の推戴を受ける。原島宏治と理事たちの強い願い出により池田大作は会長就任を決意する(池田大作『若き日の日記』他)。
・4月16日、本部部長会議。池田大作総務の会長就任内諾が伝えられ、全員が推戴に賛同。
・5月1日、機関誌『前進』創刊。
・5月3日、『戸田城聖巻頭言集』発刊。
・5月13日、大石寺66世細井日達は、池田大作の会長就任を祝して園遊会を大石寺の蓮葉園で開催。池田会長ら幹部代表約250人が細井日達の招待で出席。以後、毎年、園遊会を行うことが定例になる。池田会長は戸田会長時代と変わらない総本山の外護の決意を披歴する。
・7月、創価学会の世帯数150万世帯。
・7月30日〜31日、水滸会の野外訓練が銚子の犬吠埼で行われる。会長就任後、初めて池田大作会長が出席し、194人が参加して野外で質問会を行う。池田は水滸会の指針について「灯台は水滸会であり、船は民衆である。灯台は怒濤の中にあって、航海するすべての船を照らし、指針となっていかなければならない」と指導する。
以下、海外指導の日程
・10月2日〜3日、ハワイ、ホノルル
・10月3日〜6日、サンフランシスコ
・10月6日〜8日、シアトル
・10月8日〜11日、シカゴ
・10月11日〜13日、カナダ、トロント
・10月13日〜18日、ニューヨーク、ワシントンDC
・10月21日〜24日、ロサンゼルス
・10月25日、帰国。
・10月31日、創価学会本部に海外部が設置され、初代海外部長に神尾武雄本部指導員が就任する。
・11月27日、第2回「学生祭」が東京の日比谷公会堂にて開催される。創作劇「三国志」、コーラス、弁論、展示、記録映画、剣舞などが行われ、約3,000人が参加。池田大作は「①妙法根底の文明樹立によってのみ、真の幸福と永遠の平和建設が可能になる」「②学生部員は各界の大人材に成長してほしい」と講演。
参考文献・史料等
小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年
戸田城聖『若き日の手記・獄中記』青娥書房、1970年
央忠邦『池田大作論』大光社、1969年
富士年表編纂委員会編『富士年表』富士学林、1990年増訂版
溝口敦『昭和梟雄録』講談社+α文庫、2009年
ブログ『価値[再]創造』