いつもみなさん、ありがとうございます。
戸田城聖が構築したのは軍隊風の組織名です。青年部の各部は部隊名で呼ばれ、「第1部隊長」「第2部隊長」等と呼ばれていました。ちなみに私の父はかつて青年部時代、石田幸四郎(元公明党委員長)氏が部隊長を務める「第47部隊」に所属していました。
また青年部には軍隊風の名前の組織がたくさん作られました。参謀室、主任参謀、輸送班、等々です。そもそも軍楽隊が作られ、初代の音楽隊長は有島重武氏です。有島重武氏と私の父は面識がありましたが、この方は「世界広布の歌」の作曲者です。
またこの時期の創価学会は「学会歌」を作りましたが、どれも悲壮なムードを漂わせ、軍歌調な雰囲気を再現するようなものでした。小説『人間革命』にも出てくる「同志の歌」は歌詞からしても悲壮なムードで一貫されています。
「我今仏の旨を受け
妙法流布の大願を
高く掲げて一人立つ
味方は少なし、敵多し
誰をか頼りに戦わん
丈夫の心 猛けれど
広き戦野は風叫ぶ
捨つるは己が命のみ
捨つる命は惜しまねど
旗持つ若人 いずこにか
富士の高嶺を知らざるか
集うて来れ すみやかに」
この歌詞を見ても「戦野」「捨つるは己が命」「味方は少なし敵多し」等、軍国調で悲壮なムードに終始しているのがわかるでしょう。
溝口敦氏の著作から引用してみましょう。
「【昭和30年】十月三十一日、戸田は男女青年部員一万名の大石寺総登山を行い、近くの高校校庭で「大出陣式」を挙行した。ほぼこのころから、ジャーナリズムは創価学会の活動に注目しはじめ、大出陣式の模様も当時の雑誌によってルポされている。創価学会がどのように見られていたかをよくつたえていると思われるので、次に引用しよう。
「式は北条主任参謀と称する男の開会宣言にはじまり、『我ら精鋭、国士として東洋広宣流布のために死をとしてあくまで闘い抜かん』というような宣誓。それから数十流の部隊旗をつらねて分列行進に移れば、会長の戸田城聖が天皇気どりで白馬"銀嶺号"にまたがり閲兵を行い、空には元加藤隼戦闘機隊中隊長黒江某が操縦する富士航空のセスナ機が飛んで、低空で頭上を旋回して機上からメッセージを投下。白鉢巻姿でナギナタもどきに登山杖を小脇にかいこんだ約四千名の女子部隊は『……起て憂国の乙女らよ、使命果さん時は今、国士たる身のホマレもて、歴史の花と咲き咲かん……』等と部隊歌"憂国の花"を大合唱ーーというような、これが終戦後十年の現実か(?)とうたぐりたくなるような有さま」(『真相』昭和三十八年八十三号)
戸田は軍隊組織が上位下達の集団行動にはもっとも効率的と考え、部隊や隊、分隊、参謀のほか、攻撃隊、偵察隊、輸送隊、軍楽隊、軍歌まがいの部隊歌まで作っていた。」
※【 】内の年号のみ、ブログ筆者で補筆しました。
戸田城聖会長が白馬に乗って会合に現れたというのは他にも記録が残っています。それは先日の記事にも引用した小口偉一編『宗教と信仰の心理学 第4巻』(河出書房、1956年)です。少し引用してみましょう。
「また会長は、昨年日蓮正宗の本山において行われた祭典で白馬に乗り、この青年たちを閲兵している。」
(小口偉一編『宗教と信仰の心理学 第4巻』38〜39ページ、河出書房、1956年)
ここでは「昨年」の本山での祭典で、戸田城聖が「白馬に乗り」「この青年たちを閲兵している」と記録されています。この著作が著されたのは1956年、つまり昭和31年です。その「昨年」ですから、溝口敦氏が戸田城聖が白馬に乗って現れた「出陣式」の昭和30年と合致します。
追記
創価大学には「銀嶺合唱団」というクラブが存在します。この命名の由来は創価大学の創立者の池田大作氏から「銀嶺」と命名されたとのことですが、実は上記の内容からもわかるとおり、戸田城聖氏が乗っていた白馬の名前が「銀嶺号」でした。と言うことは銀嶺合唱団の名前の真の由来は、戸田城聖の乗っていた白馬の名前だったことになります。