気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

良心の呵責。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今の創価学会員さんはわからないかもしれませんが、かつて創価学会日蓮正宗の信徒団体として、他宗派のことを「邪宗」と呼び、非難中傷を平気でしていました。
例えば他宗派の人が病気や事故になろうものなら「邪宗の害毒」などと平気で呼び、侮蔑するのも当たり前でした。
今の創価学会ではそこまでやっていませんが、かつてやっていたことを覚えている古参の会員さんも少なからずいらっしゃると思います。日蓮正宗は未だに他宗派を「邪宗」呼ばわりしています。変わらないですね。



しかしながら創価学会は、かつてのこのような各教団への「暴言」に対して、公式に「謝罪」も「訂正」も「反省」もしたことがありません。
かつてやっていたことが誤りであったのなら、潔くそれを認めて、謝罪をすることによって、むしろ創価学会への評価は高まるでしょう。かつて散々悪口を言ってきた立正佼成会新宗連と関係改善できれば、創価学会への評価も変わるはずです。
しかしながらそれができない、自分たちのやってきたことを自己正当化して過去を誤魔化すだけで、過去を真摯に見つめることも、反省することもできなくなっているのです。



今回は戸田城聖の『大白蓮華』の巻頭言を引用してみましょう。こんなこと、現代でもまだ正しいと言い切れるでしょうか。



「坊主ほど、日本再建の今日、無用なものはない。」

「坊主どもに、さも指導者のような顔をさせて、芸者のような職業をさせている民衆は、バカだとしかいえない。」

「しかも釈迦が、自分の経文は、自分の死後二千年したなら、どんなに読んでも効能がない確言しているのに、その空の経文を、空々しく、これを知って読むものがあろうか。知らないとすれば、なおバカだ。どんな意味から考えても、歌にもならず、役にも立たぬ経文を、しらじら読んで、『読み賃』を取って、食っている坊主は悪人でもあり、詐欺漢でもあり、非生産的な存在である。今日の日本に、こんな種類の人間を養う余力はない。ゆえに、吾人は叫ぶ。
『現代の坊主は、まず放逐せよ! さもなくんば重労働を課せ』と。
また、このような、わけのわからない存在に対して、疑問も持たないし、不思議にも思わないで、ただ親ゆずりと放任しておく一般大衆の無智、鈍感、封建性に対しても、われわれは、あきれざるを得ないのである。余のことばによって、猛り狂う坊主あらば、来って法談せよ。なんじらに、みずからの道をあたえん。」
戸田城聖「坊主は社会の『無用の長物』」『大白蓮華』巻頭言より、昭和24年9月10日)




どうでしょうか。このような戸田城聖氏の指導は、現代でも有効なのでしょうか。
確かに私は幼い頃に他宗派を悪し様に罵って平気でした。また活動家時代も散々他宗派の聖職者や信徒たちを悪く言ってきました。今になってみれば、それは間違っていたと思いますし、そのことは真摯に謝罪したいと考えています。
しかしながら私が問いたいのは、創価学会は教団として他宗派の聖職者にある人たちを十把一絡げに批判してきた過去をそのままに放置して良心の呵責を感じないのか、ということです。



戸田城聖氏を「永遠の指導者」としてしまったので、今更否定できないということなのでしょうか。都合が悪いものには蓋をして、過去をなかったことにして誤魔化す姿勢は、私の生き方ではありません。
私は、過去に誤りがあったのなら、素直にそれを認めて真摯に謝罪したいです。それが人間として正しいと思うが故です。
しかし創価学会大石寺系教団はそう思わない、過去にあったことで都合が悪いのなら、蓋をして見ようとしないし、謝罪することもできないということなのでしょう。



大石寺系教団からは、人間としての誠実さも学ぶことができない、それこそが私が非活から退会を選んだ理由の一つなのかもしれません。