気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

文証ということ。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて日蓮教学では「三証」ということを言ったりします。
三証とは文証、理証、現証の三つのことです。
文証とは文献的根拠、経文にそれが書いてあるのかどうかということ。
理証とは道理として筋書き通っているのかということ。
現証とは現実にそれが証明されるのかということ。



実はこれ、私はかつて、今は亡き父に論破されたことがあります。

「文証の伴わないもの、それは正しくないっていうことだよ」

「文証がない、御書や文献、経典に書いてないのに『これには功徳がある』なんて言ったら、どんな宗教も同じだよ」

実にシンプルな言葉ですが、私は父に何も言い返せませんでした。確かにその通りです。




ブログを書く姿勢の基本になっているのは、このこと、つまりきちんと文証を示すということです。
私の場合、書いてあるものから考える、文献的な根拠に基づいて推察を述べるということです。
大石寺26世日寛の依義判文などは、最も唾棄すべき考えだと私は思っています。義によって文を変えることが可能なら、文献など必要なくなります。三証を根拠にする宗派から見れば自己矛盾にしか見えません。




さて、現今の創価学会大石寺の信徒は、きちんと文証に基づいて教学的な議論ができるのでしょうか。
教団から与えられた、操作されて限定されただけの情報を頼りに教義を構築しても、そんなものは単なる幻想に過ぎません。



日蓮は、遺文中でしきりに最澄の次の言葉をよく引用しますが、創価学会信徒さんは果たしてご存知なのでしょうか。

「仏説に依憑して口伝を信ずること莫かれ」