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昭和18年7月に牧口常三郎が逮捕された際、矢島氏も逮捕・勾留されています。その後、免訴され、昭和24年に『大百蓮華』の初代編集長になります。戸田城聖が理事長を辞任した際、後任の理事長に就任しています。
不思議なことですが、1953年(昭和28年)6月1日付の聖教新聞には、矢島周平氏が創価学会に「復帰」することの記事が掲載されています。以下は高橋篤史『創価学会秘史』(講談社、2018年)に掲載されている、当時の聖教新聞記事の画像です。
上の記事を見ると明らかですが、矢島周平氏の再起を伝える同記事は、矢島氏に対して好意的で、「理事長待遇として迎え」「同氏の前途と健斗を祈る」とまで書かれています。
彼はその後、日蓮正宗の住職として出家し、名を「矢島秀覚」と改めます。
原田稔会長はこの記事の中で「戸田先生の時代には矢島周平というやつがいた。」「それが戸田先生を裏切り、学会を乗っ取ろうとした」「その動きを戸田先生の直弟子であられた池田先生が、厳しく糾弾し、厳然と撃ち破られたのです。だからこそ、戸田先生は第2代会長に就任なさることができたのです」と述べています。
ちなみに高橋篤史氏はこの件に関して著書で以下のように述べています。
「おそらく、元教員の矢島は、組織拡大を軍隊式に進める戸田のやり方になじめず、活動から遠のいたのではないか。懲罰者をさらし者にして引き締めを図る指導監査部長を途中で降りたのはそれを物語っているように思える。一方の戸田は矢島に一定の評価を与えていたから切り捨てることができなかった。創価学会から心が離れていたものの日蓮正宗の信仰を手放さなかった矢島を遇するため、組織内に波風を立てない円満な解決方法として出家が選ばれたと考えれば、辻褄は合う。」
(前掲書275〜276ページ)