気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宝塔には如来の全身の遺骨が安置されている。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は「宝塔」についてです。
以前の記事で私は「宝塔」の語を日蓮真蹟の用例から見て、それが「生命の比喩」のようなことを述べていないことを書いています。
 
「宝塔について」
 
今回はこの宝塔が『法華経』それ自体の文脈で、どのような意義として説かれているのかを考えてみたいと思います。
 
一般的に「塔」(stūpa)とは本来仏の「舎利」すなわち「遺骨」を納めるものです。
そもそも法華経法師品には何と書いてあるでしょうか。ここでは「皆応起七宝塔」「此中已有。如来全身」とありますが、サンスクリット原典でこれは「如来の全体の遺骨が安置されているのである」と書かれているのです(『法華経』(中)、154〜155ページ、岩波文庫)。

 
すなわち法華経における「宝塔」とは、それまで八つに分祠された仏の遺骨(舎利)が否定され、仏の全身の遺骨がそこに残されており、それが「永遠に法を説く仏の存在」とされるに至るのです。岩波文庫版『法華経』訳者の岩本裕氏は、見宝塔品の「此宝塔中。有如来全身」(同170ページ)の部分で以下のような訳注を書いています。
 
「仏伝文学の記載によると、ブッダが入滅したあと、その遺骨(仏舎利)は八つに分配されて、八地方で祀られたという。ここでは「如来の身体が一塊にされて」と一般の伝承を否定して、永遠に法を説く仏の出現する伏線とした。しかも、前章【法師品】においては、『法華経が書写され、読誦されるところには、如来の全身の遺骨が安置されているとも説かれている。」
(『法華経』(中)、375〜376ページ、岩波文庫、【 】内はブログ筆者による補筆)
 

 
事実、苅谷定彦の『法華経における舎利 -śarīra と dhātu -』においても同様の見解が示されます。
 
「このように、法華経に於て、 śarīra と dhātu とは共に「舎利」を意味するのであるが、その両者は、明白に意味が異なり、dhātu の語は、法華経以前のすでに宗教的生命の枯渇してしまった舎利供養の意を表すために用いられ、それに対して śarīra の語の使用された舎利供養は、法華経の精神によって新しく価値づけられた所の、生命の脈うつ舎利供養、仏の遺骨への供養から、さらに進んで、久遠に生きる真の仏への供養崇拝を意味するものであると考えられる。」
(苅谷定彦『法華経における舎利 -śarīra と dhātu -』、『印度学仏教学研究』14号1所収、179ページ、1965年)

つまり法華経における宝塔は「久遠に生きる仏への供養崇拝」を意味するものであって、それらは旧来の教えであった仏の遺骨への供養を打ち破った表現であるということです。それは衆生に内在する「仏性」の比喩的表現なのではないのです。「仏舎利への供養」を止揚し、「永遠の釈迦仏への供養崇拝」を象徴的に表現したものこそが「宝塔」の本来の意義なのだということになります。
後付け的に「宝塔」が「生命の尊厳」の比喩であると何の根拠もなく主張することは、そもそも法華経の精神に背いていることになるでしょう。
 
追記
池田大作氏、また創価学会や一部の日蓮正宗系信者たちは「宝塔」を「生命の尊厳」と換言したがる根拠として『御義口伝』がありますが、そもそも『御義口伝』は偽書の可能性が強く、後世に創作されたもので日蓮の思想などとは到底言えないのです。つまり彼らは日蓮真蹟に基づかない、根拠のない妄説を日蓮真説であるように信じ込んでいるだけかと思います。
 
「『御義口伝』における『科註』の『補註』への改竄」
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」