気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

ノリエガ氏は大石寺をかつて訪問していた。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さてこのブログでは池田大作氏がパナマの「麻薬王」と称された犯罪者、ノリエガ将軍と友好的な関係を結んでいたことを何度か記事にしています。
 
池田氏とノリエガ氏との交友。」
 
創価学会年表に記録されたノリエガ氏との会見。」
 
池田大作氏とノリエガ氏との会見。」
 
 
どの記事を見ても、パナマの「麻薬王」と称された、マヌエル・アントニオ・ノリエガ氏が池田大作氏と友好的な関係を結んでいたことがおわかりになると思います。池田大作氏は昭和62年2月にノリエガ将軍のパナマ政府から同国最高位の「バスコ・ヌニエスデ・バルボア勲章」も受賞していますが、まるで事実を誤魔化すように今では創価学会本部もこのことは全く報道しなくなりました。
 
さてそんなノリエガ将軍ですが、1974年の来日時、なんと創価学会池田大作会長(当時)と会見するばかりか、日蓮正宗の総本山・大石寺を訪れているのです。
以下がその画像で、『聖教グラフ』昭和49年(1974年)11月19日号のものです。

 

1974年10月28日、午後8時頃、パナマのマヌエル・アントニオ・ノリエガ氏は10月28日、NSAパナマ本部長のヒロコ・デ・チュー氏、同本部顧問のアウレリオ・チュー・ジ氏夫妻とともに聖教新聞社を訪れ、池田大作会長と会見を行いました。
その翌々日、10月30日にノリエガ氏はNSAパナマ本部長らの案内で、総本山大石寺を訪れています。写真の奥に映っているのは間違いなくかつての正本堂です。
 
 
つまり池田大作氏がパナマのノリエガ氏と会見し、その交流関係を大切にしたと同時に、当時は大石寺もまたそれを応援し、ノリエガ氏が境内を見学することも許していたことになります。
私はノリエガ氏が正本堂で「御開扉」まで受けていたとは正直思えませんが、仮に受けていたとするなら、ノリエガ氏は日蓮正宗の信徒だったということになるでしょう。
 
 
 
 

 

日寛は佐渡以降の本尊を「二千二百三十余年」としている。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私は日蓮曼荼羅本尊の図顕讃文の「二千二百三十余年」について、いくつか記事を書いています。
 
「「二十余年」と「三十余年」」
 
「『三師御伝土代』と戒壇本尊との矛盾」
 
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
 
「阿部日開氏の「二千二百二十余年」」
 
 
創価学会で授与されている大石寺26世日寛本尊では「二千二百丗余年」と書かれています。「丗」は「三十」の異体字です。
ちなみに大石寺開山の日興の書写本尊は全て「二千二百三十(丗)余年」で書かれています。日興書写本尊には「二千二百二十余年」と書かれたものは存在しません。
これは戒壇本尊に書かれた「二千二百二十余年」と矛盾します。戒壇本尊では明確に「二千二百二十余年」と書かれているのです。以下は柳澤宏道『石山本尊の研究』(はちす文庫、平成9年)収録の戒壇本尊の座配図です。

 
ところで、大石寺教学を決定づけたと言われる、26世堅樹院日寛も、なぜか明確に「二千二百三十余年」説を採っているのです。以下の画像は日寛の『妙法曼荼羅供養抄談義』(『富士宗学要集』10-75ページ)ですが、ここでも明確に「弘安二年より三十余年なり、御本尊を遊ばすに付て佐渡已後の義あり」と明確に述べています。

 
日寛が言うように「御本尊書写には佐渡以降の特別な義」があるとするなら、弘安2年造立説の戒壇本尊は「二千二百三十余年」と書かれなければならない筈です。事実、日興書写本尊に「二十余年」と書かれたものは一体も存在しないのです。
 
 
とするなら、戒壇本尊は大石寺歴代法主の主張と矛盾する本尊であり、戒壇本尊こそまさに偽作されたものであるということになるかと思います。
 
 
 
 
 

 

『冒険少年』と『ルビー』は「姉妹誌」だった。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて以前に戸田城聖の出版会社、日本正学館では大衆娯楽雑誌として『ルビー』を出版していました。内容は官能的な娯楽小説等、かなり際どい内容の大衆誌だったのです。
 
戸田城聖は出版業で雑誌『ルビー』も出していた。」
 
内容として半裸の女性の絵が挿入され、テーマは「恋愛と避妊」や「未亡人と性」だったり、創作読切のタイトルが「女体鱗光」や「人肌地獄」だったりと、もはや"ポルノ雑誌"と称しても良いほどの内容です。
 
 
ところで、このことを話題にすると創価学会信徒さんから反発されることがあります。
池田大作先生が出版に携わったのは『冒険少年』であり、『ルビー』の内容は預かり知らないところだった」という反論です。
ところが『冒険少年』も『ルビー』も奥付に記された発行元は別会社とされているのに、なぜか編集部の所在地は当時の創価学会本部・日本正学館と同じ「千代田区西神田二の三」になっているのです。
 
しかも昭和20年代当時の創価学会本部「千代田区西神田二の三」の神田の建物は3階建てとはいえ、間口2間ほどの狭い構造で、1階は事務所、2階が4畳半と6畳と8畳の和室の3部屋が創価学会本部であり、その一部が編集室です。中2階と3階(屋根裏)は別の出版社に貸していたのです。
そんな狭い中で、皆が『冒険少年』『ルビー』『大白蓮華』の編集をしていました。これではさすがに池田大作氏が『ルビー』の内容を全く知らなかったということは常識に考えてあり得ないでしょう。
 
加えて上記ブログ記事で画像を紹介した『ルビー』の昭和24年10月号ではなんと『冒険少年』の広告を『ルビー』に出しているのです。

画像を見ておわかりの通り「本誌姉妹誌-面白く為になる-"冒険少年"改題『少年日本』新発展10月号」と明確に書かれています。
つまり『冒険少年』の編集長であった池田大作氏はポルノ雑誌とも言うべき『ルビー』に『冒険少年』の宣伝広告を載せ、あろうことか『ルビー』と『冒険少年』(少年日本)が「姉妹誌」であると認識していたことになります。
 
 
 
参考文献
原島昭『池田大作原島家』人間の科学新社、2014年
 
 
 
 

 

「自受用身」は『大乗起信論』から真言密教を経由して伝わった思想である。

 
 
いつも皆さん、ありがとうございます。
 
 
 
さて「X」(旧Twitter)でも少し呟いたことなのですが、よく日蓮正宗で言われる「自受用身」という仏の三身の概念が、空海の『弁顕密二教論』冒頭に普通に出てくるのです。
ここから考えて、大石寺教学の「自受用身」の考えは、真言由来のものなのかと考えていたところ、「X」でそのことを詳しく教えてくださる方がいました。どうも「自受用身」の概念は『大乗起信論』由来で、それが真言密教に取り入れられたのが実際のようです。
 
 
そこでそのことを教えてくださったアカウントの紹介した論文をpdf.で落としてプリントアウトし、全文を読んでみることにしました。便利な時代になったものです。論文は小瀬修達『本覚法門と現代仏教』(日蓮宗現代宗教研究所編『現代宗教研究』第40号所収、2006年3月)になります。
 
真言宗大日如来は、「起信論」の理智不二法身を基に理論化された仏である。「起信論」の仏身論である「三大」(体大…理・相大…智・用大…利他)の内、法身仏は、体大(理)・相大(智)を具えた理智不二・無始無終の存在として本質界に在り、これを本体として現象界に報身・化身(応身)を方便身として顕現させる(用熏習)が、真言では全てを法身とみなして、自性法身(理智不二法身)を本体として受用法身法身)…自受用・他受用、変化法身(化身)…変化・等流として出現する。」(同175ページ)

 
同ページの画像にある図を見ればおわかりかと思いますが、そもそも「自受用身」の概念は『大乗起信論』の仏身論である「理智不二法身」「三大」は真言において受用法身、変化法身として現れます。そしてこの受用法身(報身)を真言で「自受用」「他受用」とするのです。
従いまして「自受用身」という概念は『大乗起信論』から真言を通じて入ってきた中古天台の思想なのであって、本来日蓮の思想ではないのです。そもそも「中古天台」とは円仁や円珍以降に発展した天台教学です。円仁や円珍を批判して上古天台に帰ることを主張した日蓮が、どうして円仁らの思想に依拠していることになるのでしょうか。
 
「無作三身」もそうです。同書から続けて引用してみましょう。
 
「智証大師円珍は、「顕密一如本仏義」において、法華経本門の無作三身釈迦牟尼仏、当時の無作は円教の意)と大日如来を同一視し、本門三仏(身)を金剛界の事仏、迹門三仏を胎蔵界の理仏に配した。これにより、無作三身大日如来は二仏同体となった。以後、中古天台では法華中心となったが、密教の理を持つ法身為正の無作三身法華経本地仏となった。理顕本において文上久遠実成の仏を迹仏として文底無作三身を本仏としたことは、実質的には天台の三身説を仮説として、密教の理智不二法身を本仏としたことになる。」(同176ページ)

 
如何でしょうか。「無作三身」とは本来、中古天台の円珍において法華本門の無作三身大日如来と同一視するところから始まっているのです。そして日蓮円珍を批判し、上古天台に帰ることを主張していますから、本来「無作三身」も「自受用身」も日蓮の思想でも何でもないことになります。そもそも日蓮真蹟遺文に「無作三身」も「自受用身」も、その用例は一つも存在しないのです。
 
同論文では、このような本覚法門思想から、後世に生まれた日蓮宗、九識霊断、日蓮正宗についても語られています。このことについてはまた別稿を考えて紹介していきたいと思います。
 
 
 
 
 

 

戒壇本尊は1472年以降に偽作された。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私の素朴な疑問なのですが、そもそも大石寺9世日有は応仁元年(1467年)、第10世日乗に血脈を付嘱して一度隠居します。ところが、隠居した後の大石寺のことがどうにも私の腑に落ちないのです。
 
この辺の相承の断絶の可能性についてはブログでも一度書きました。
 
「9世日有から日乗、日底、日鎮への相承。」
 
9世日有から10世日乗に相承されたのが1467年です。そして記録によるなら10世日乗から11世日底に相承がされたのが1472年とされています。
それなのに、なぜか31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』に記録された9世日有の発言によるなら「留守居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間」とされているのです。
 
大石寺を逃げ出した留守居。」
 
具体的に挙げてみましょう。
以下に大石寺31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』の当該部を再掲してみます。
 
「末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留守居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留守居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継ギたてまつり候と仰セ給ヒ候。」
(日因『有師物語聴聞抄佳跡』、『富士宗学要集』1-185〜186ページ)

 
1467〜1472年の間、大石寺の記録では相承は継承されていたとしているのに、なぜか31世日因の記録では9世日有が3人の留守居を定め置いた6年間の間、大石寺が捨て置かれ「謗法の処」に成り果てたとされているのです。そもそも大石寺の土地そのものが既に他者に売りに出されていて、日有は金20貫で買い戻さなければならなかったと書かれています。しかも画像を見ればわかる通り、日因は明確に「日有上人の仰せに云く」と冒頭に記しています。
 
とすれば「戒壇本尊」はどうなったのでしょうか?
そもそも大石寺の土地が売りに出されていて「謗法の処」に成り果てていた状態で、大石寺は「戒壇本尊」を放置していたことになる筈です。それにもかかわらず、ここでは大石寺にとって最重要である筈の「戒壇本尊」のことが全く書かれていないのです。
日有が定めた留守居がたとえ隠居しても、10世日乗と11世日底が大石寺に住持していたなら、大石寺が売りに出されることも「謗法の処」になることもなかった筈です。ところが現実はそうではなく、事実大石寺は荒れ果て、留守居は逃げ出し、日乗と日底の素性も行動も何一つ記録に残されていないのです。そして何よりも大切である筈の「戒壇本尊」がどうなったのか、全く記録されていないのです。
 
ここから考えても、1472年当時まで大石寺には「戒壇本尊」なるものは存在しなかったと考える方が自然です。
つまり戒壇本尊の偽作は、恐らくは1472年以降、隠居した9世日有以降によってなされ、それ以前には戒壇本尊自体が大石寺に存在しなかったということになります。
 
 
 

 

『問注得意抄』の意図。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて文永6年の日蓮の書状に『問注得意抄』(真蹟は中山法華経寺蔵)と言うものがあることを、皆さんはご存知でしょうか。
文永6年(1269年)5月、日蓮に対する最初の弾圧がまずその檀越たちに加えられることになります。富木常忍ら3人は幕府の問注所に召し出されることになったのです。
当時、鎌倉にあった日蓮は、自らの信仰のために幕府からの召し出しに臨む彼らに書を与えて、その心構えを指導したのが『問注得意抄』ということになります。
 
日蓮からの指示は非常に具体的で、当時の状況が緊迫していたことが伝わってきます。
 
「今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し」
 
「両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読むの尅何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出すべからざるか」
 
「設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず麤言を出さず輭語を以て申す可し」
 
「各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか」
創価学会旧版御書全集178ページ)

中尾堯氏の研究によるなら、富木常忍らの事件は検断沙汰に該当し、「謀反」の項によって訴えられたことが推定できます。鎌倉幕府の体制下においては富木常忍らの問注は鎌倉の問注所ではなく、下総守護千葉氏の館において行われたことが考えられます。
 
守護であり主君でもある千葉介頼胤自らが隣席した緊迫した裁判の中で、富木常忍と同じ立場にある守護の被官の武士たち、また千葉氏一族の面々が連なることは間違いない状況になります。その中でかねてから「知音」「傍輩」の者たちによる訴陳はかえって激しいものとなります。激昂した訴人たちが悪口を吐くことも予想でき、互いに知己のあるものたちが「喧嘩」沙汰になることも考えられる状況です。
 
日蓮はここで「悪口を吐かれても一二度までは聞かないように」「三度まで言われた時は顔色を変えずに悪口で返さず、軟らかい言葉で対応するように」「喧嘩をしてはならない」と指示をしているのです。
 
さてインターネット上で暴言を吐く、創価学会日蓮正宗の信徒はどうでしょうか?
彼らほど激しく他者を誹謗中傷し、自身の教説を批判された時に相手を揶揄して冷笑し、罵詈雑言を浴びせることが果たして日蓮の深慮に叶った行為と言えるのでしょうか。
 
「非難中傷行為を繰り返す過激な創価学会系アカウント」
 
「不軽菩薩の精神から見れば」
 
「罵詈雑言も辞さない池田原理主義者」
 
「「もっとん」さんのツイート」
 
このような誹謗中傷行為を繰り返す創価学会日蓮正宗信徒は、『問注得意抄』における日蓮の考えを否定するものたちかと私は思います。
 
参考文献
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年
 
 
 
 
 
 

 

日道は日興の葬儀に参列していない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて大石寺3祖日目から4世日道に対して「唯授一人の血脈相伝」があったことを大石寺側は主張するのですが、実は日目から日道への相承があったことを裏付ける根拠は全く存在せず、京都要法寺日辰『祖師伝』によれば小泉久遠寺側からは「是ノ故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之レ無し」とまで断定されてしまっているのです。
 
「日目から日道への相伝はなかった。」
 
「妙本寺文書から見る日目から日郷への相伝の事実。」
 
そもそも日蓮は『宗祖御遷化次第』で明らかなように「六老僧」を弟子と定め、その序列を「不次第」としています。また日興も本六(日華、日目、日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日代、日澄、日道、日妙、日郷、日助)を弟子としています。つまりここからわかるように、日蓮=日興の弟子を選出する方法は、原則複数の弟子をとる形で、いわゆる「唯授一人」という形式を採ったことは一度もないのです。六老僧の日朗もまた「朗門の九鳳」とし、9人の弟子を門弟としているのです。
 
ところで、日興は正慶2年(1333年)2月7日に亡くなりますが、この時の葬儀に何と日目が参列していながら、日道は参列していないのです。
具体的に見てみましょう。以下は宰相阿闍梨日郷が記した『日興上人御遷化次第』(日郷真蹟は保田妙本寺蔵)です。全てのページを載せてみますが、この中には「弁阿闍梨」「伯耆阿闍梨」等と号される筈の日道は全く出てこないのです。出典は『日蓮宗宗学全書』2-270〜278ページになります。

これを見ると葬列の前陣中央には上蓮坊「日仙」、またその左右に大進公「日助」、式部阿闍梨「日妙」等の名前が見えます。また後陣中央は蓮蔵坊「日目」、左右には伊予阿闍梨「日代」、宰相阿闍梨「日郷」が連なっています。御遺物配分事のところには寂日坊「日華」、理鏡坊「日秀」の名前も見えます。
ところが、いくら見ても、この中には「弁阿闍梨」「伯耆阿闍梨」と号される筈の「日道」の名前が出てきません。つまり日道は日興の葬儀に参列していないのです。
 
1333年は日興の没年であり、同時に日目の没年になる年でもあります。日蓮正宗の見解ではこの年の11月に京都に天奏に向かうため日目から日道に相承が授けられたと主張しています。それなら日目本人が参列しているにもかかわらず、日興の新六の一人である筈の日道がなぜ日興の葬儀に参列していないのでしょう?
 
ここから考えても当時の日道が「大石寺に住持していなかった」「日道が大石寺全体を統括するような立場にはなかった」ことが考えられるでしょう。そもそも『日興上人御遷化次第』を記録しているのは日道ではなく、日郷なのです。