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「日道『三師御伝土代』を読む」
例えば熱原の法難について、日道は以下のように御伝土代に記しています。
「さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず、日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給フ」
(富士宗学要集第5巻8ページ)
熱原の法難が契機になって日蓮が御本尊を書写したことが伺えますが、ここで日道は「日興上人と御本尊に遊ばす」としています。
つまり日道在世中には戒壇本尊と称されるものはまだ存在しなかったと考える方が自然です。
また奇妙なことですが、熱原の法難によって首を切られた者の数を日道はここで「三人」ではなく「二人」であると書いています。
「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、」
(同12ページ)
しかも「背けば罪を無間に開く」とされる本尊を説明する際、日道は「二千二百三十余年」としています。言うまでもありませんが、戒壇本尊の讃文の記述は「二千二百二十余年」です。
大石寺は史実を大事にしないことがよくわかりますが、ここまで矛盾しているともはや噴飯もので、あたかも宗史や教義を捏造して作ってきた事実を糊塗して、信徒に隠しているように思えてなりません。
戒壇本尊の存在を根拠づける史料は、大石寺14世日主より以前に遡ることができません。つまりそれを裏付ける文が一切なく、上記に見たように日道の『三師御伝土代』の記述と矛盾します。したがって弘安2年戒壇本尊は単なる後世の贋作と考える方が自然です。