気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自分自身を見つめて。

 

 

 

いつも、みなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて私は時々「なんでこんなブログ書いているんだっけ?」と自問する時があります。

みなさんはないでしょうか。

 

 

 

創価学会日蓮正宗の信徒団体の人間としてほぼ人生の半分近くをささげてしまった私の人生です。

最初は「なんか最近変だなあ」「活動やめよう」くらいから始まった非活生活。そして検証の末の退会。

でもそんなことをやるならブログを書く必要もなかったはずです。

やはり私の中には「認められたい」という、強い承認の欲求があったように感じます。今もそうなのでしょう。

 

 

 

活動から遠ざかった創価学会員が、創価学会単体を批判する場合(どう批判しようが個人の勝手なのですが)、「自分は正しい」「自分たちの正義は正しい」「日蓮正宗の教義は正しい」「池田名誉会長は正しい」と、何かの正統性の担保を自分につけて批判することが多いように思います。

私もそうだったのかもしれません。ただ私は何度かこのブログで書いているように、自分が活動家としておぞましいほど布教活動に挺身し、広宣部として諜報活動や尾行などをしてきた過去を悔い改めたいという思いが強かったです。

 

 

 

確かに池田大作も悪い、創価学会も悪い、大石寺も悪い、けれど私も悪いのです。私も私の人生を私の責任で間違えたのです。

 

 

 

私は「正しい本尊は存在しない」と思っています。また「正しい法を求めさまよう」姿勢こそ、ナーガルジュナによってすでに否定されていると思います。少なくともナーガルジュナから始まると言われる北伝仏教(大乗仏教)の本質は、そのような絶対や常住の何かを否定するところから始まっているのだと私は考えています。

 

 

 

最近の私は、親鸞を読むことが多いのですが、彼の言う「即得往生」の概念に興味を惹かれました。

日蓮系の思想ばかり読んできた自分はてっきり彼の「即得往生」はいわゆる「現世往生」なのだと思っていました。けれどもどうも実際は違うようで、親鸞にあっては念仏によって「往生する位を得る」ことができるのだそうで、そしてその人が臨終のときになって初めて真に「往生」するのだそうです。

ではなぜ、このような「即得往生」が親鸞にあっては説かれたのでしょう。

 

 

 

法然親鸞の生きた時代というのは、騒乱の時代です。

永承7年(1052年)は「末法」の開始と考えられていまして、終末論的な「末法」思想が広まっていきます。

そして保元元年(1156年)には保元の乱、平治元年(1159年)に平治の乱が起こります。これによって貴族統治から武家政治へ変わりまして、社会の劇的な変化が起こっていた頃です。

親鸞の幼少期には、治承4年(1180年)に後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵して「治承・寿永の乱」が起こります。これにより平家打倒の狼煙が上がることになります。

また翌年の養和元年(1181年)には「養和の飢饉」が起こっています。この飢饉の酷さは『方丈記』に「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」とまで書かれるありさまで、京都市中に遺体が放置され、市内での死者は4万人を超えたとさえ言われています。

 

 

 

そのような戦乱と混乱の時代にあって、この世の終わりを人々は強く意識していました。

そのような混乱の中で、人の人生はいつ終わるともしれない。明日のわが身さえ、自分の命さえどうなるかわからない。「平家にあらずんば人にあらず」とまで栄華を極め尽くしたあの平家が壇ノ浦で滅亡してしまう。安徳天皇まで入水して果てるという、そのような社会にあって、「人の命は儚いもの」だと考えたとしても何の不思議もないでしょう。

 

 

 

法然親鸞の人生観には、そのような人生への諦観のような冷静さが漂っているように感じてなりません。

 

 

 

翻って、自分の人生を顧みてみれば、なんと無意味なことをしてきたのでしょう。

何千万遍というお題目を生涯唱え続け、大声で近所迷惑も考えずに題目を唱え続け、布教活動に挺身し、電話帳片手に片っ端から選挙支援の電話をかけ、選挙のお願いをしに各地を転々とし、顕正会妙観講の方々と対論をしたりしてきました。

全部が無意味でした。何の意味もありませんでした。

幼少時、大病を患っていた私を母は発作中にもかかわらず、大石寺につれていき、正本堂で御開扉を受けさせました(子どもだったのにきちんと正装してまで行ったことを思い出します)。その後、大石寺の境内で水を飲んで休みました。発作が起こって倒れるかと思いましたが、幸い持ちこたえました。それを「功徳」であると私と私の家族は信じ込みました。その思い込み、信じ込みだけで何十年も人生を生きてきてしまいました。

その全てが単なる思い込みであり、誤りでした。

 

 

 

私は、このブログ執筆当初、日蓮の教えを純粋に求めようとしました。

しかしそれも誤りでした。私自身が正統性を担保したいという自己保身の心に絡め取られてしまったのでしょう。

私の心は今は日蓮から離れています。同時に自分の人生の無意味さを見つめ、心静かに念仏を唱え、決して知ることのできない無分別の境地を想像しつつ、即得往生のような境地になれればいいなと願うだけです。

 

 

 

母も父も失くした私は、ただ静かに自分の人生を見つめ、そして両親の菩提を弔いたいと純粋に願うだけです。

母が生きていたら、きっとこのブログのことも認めてくれるでしょう。私が人生でどんな選択をしても、その選択を母が否定したことは一度もありません。

 

 

 

 

 

 

創価・大石寺系教義の浅はかさ。

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて私はいくつかの記事で書いているように、創価学会非活から退会を選び、その後、思想的変節を経て、現在は龍樹や親鸞の著作から念仏思想に接近しています。

 

 

 

「気楽非活の思想的変遷」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/31/124452

親鸞名号本尊について」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/01/29/151908

「涅槃と浄土」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/13/231020

 

 

 

では、なぜそうなってしまったのでしょう。

理由は明白で、創価学会、加えて大石寺系教団(例えば日蓮正宗顕正会、正信会等々)の教義の浅はかさに気づいてしまったからなんですね。

私が若かった頃は、広宣部の一員として対論用の資料を作成したり、法華講の家を家庭訪問したりとやりたい放題でした。

もともと私は本を読むのが好きでした。池田大作はしきりに未来部に「本を読もう」みたいなことを言っていましたから、その影響も大きかったと思います。

私は創価学会の元活動家として活動をしながら、法華経の思想やら日蓮の思想やら池田大作の思想とやらが世界に通用するという幻想を抱いていました。そしてそれを自分の言葉で説明できるようになりたいといつも願っていました。

今は亡き母によく言われたものです。

「自分の言葉で話しなさい。借り物の言葉を棒読みしても人はついていかないでしょ」

まさにその通りだと思います。私は自身の言葉で自身の信仰を語りたかったのです。

 

 

 

広宣部として活動をし、夜な夜な勉強会などをやっていた頃、徐々に創価学会大石寺系の教義に違和感を抱くようになってきました。学ぶにつれて、いろんなことを知るようになりました。

日亨の『富士宗学要集』には富士興門流系の文書が多く収録されていますが、例えば『御本尊七箇相承』を知るほど、その通りに多くの本尊が書写されていないことに違和感を抱きました。

 

 

 

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/06/065121

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449

「『七箇相承』の『書くべし』」 

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/11/23/000000

 

 

 

また多くの御本尊の両肩には「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」の2文が書かれていますが、この文章は法華経の文章ではないことに気づきました。この2つの文章は法華経ではなく、妙楽湛然の『法華文句記』の中の言葉です。また法華経には全く関係がない天照大神八幡大菩薩が書かれ、不動明王愛染明王梵字で書かれています。

私にあっては、全てが批判対象でした。検討して信じるに値するものしか信じられないと思いました。

私はそれをこのブログ執筆を通じて実際にやってみました。

 

 

 

結果としてわかったことは、私の考える言語思想を支えるバックボーンとして、創価学会大石寺系の教義はあまりに稚拙すぎ、どうにもならないということでした。

池田大作の「御本尊=宇宙生命」論は、単なるウパニシャッド思想の焼き直しと同じですし、そもそも本尊に唱題する意義を「宇宙の法と自身の生命との合致」と考えるなら、日蓮仏法は仏教以前の六師と同じことになってしまいます。日寛教義で言うなら、「五重の相対」の最初の「内外相対」で否定したはずの「外」に戻ることと同義です。

 

 

 

「宇宙生命はバラモン教の教え」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/25/000000

「仏教は生命論ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/24/060753

「生命論に固執する人たち」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/11/08/000000

 

 

 

なんだか最近の法華講さんにも「南無妙法蓮華経は宇宙の生命の法だ」みたいなことを言いだす人がいますけど、これなどは完全に創価学会からの思想の逆輸入だと思います。それにそもそも昭和54年頃に福島源次郎は池田大作の宇宙生命論を「ウパニシャッド思想に過ぎない」と既に当時から同じ文脈で批判していたはずです。

 

 

 

そもそもの創価学会が御利益信心であり、現世利益を強烈に主張して布教活動を展開していました。

それでいけばまだよかったんでしょうけど、だんだん余計な尾ひれがついてきて、原島嵩さんや川田洋一さんたちとともに「仏法は生命」とか、知的なアクセサリーをつけだしたのだと思います。いわゆる52年路線もこの結果生まれたものでしょう。「創価学会の会館は現代の寺院」とか「在家でも供養は受けられる」とかその辺ですね。

 

 

 

私はもう既に法華経信仰からも日蓮信仰からも離れています。私個人にとって法華経はもはや読むに値しません。

ただ他の信仰者の方々が妙法蓮華経を手に取って、信仰の道に入ることは構わないと思いますが、それなら私は今こそ道元を再評価すべきだと思っています。

 

 

 

曹洞宗は『不立文字』ではない」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/01/02/000000

 

 

 

日蓮が不立文字として批判したのは中国の禅であり、日本の曹洞宗ではありません。日蓮遺文には道元に関する言及が一切ありませんので、日蓮道元を知らなかった可能性が高いと考えられています。そして道元法華経を最上の経典と位置づけ、『正法眼蔵』で摩訶迦葉への教外別伝の考えを否定しているのです。実際、曹洞宗では日蓮系教団と同様に法華経如来寿量品も読誦します。

日蓮法華経を自身の法難と絡めた神話的な理解が目立ちます。真に法華経を純粋に読み、実践をするなら、私には道元の方がずっと純度が高い、真実の法華経の実践者に見えます。

 

 

 

閑話休題創価大石寺系教団の教義のベールを一枚一枚剥いでいって、残った結果が何も残らなかったというのが、偽らざる私の実感です。

私の考える仏教思想の深みは四聖諦と十二支縁起と六処にあり、避けられない苦をいかに克服するのかということこそが本来の仏教の考え方であったと思っています。

 

 

 

「初期仏教のこと」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/19/000000

「四聖諦と十二支縁起と六処のこと」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/24/000000

 

 

 

 

親鸞の名号本尊について。

 

 

 

いつも皆さん、ありがとうございます。

 

 

 

さて現代の浄土真宗等では、阿弥陀仏の立像を本尊としているのですが、親鸞自身はなんと「南無阿弥陀仏」等と書かれた文字、すなわち書かれた名号を本尊としていたことが知られています。

これは事実として親鸞自身の筆による名号本尊が現存していることからも確かなことと言えます。

具体的に現存する名号本尊を列挙してみます。

 

 

1、「南无阿彌陀仏」、康元元年10月28日(1256年)、本願寺

2、「南无不可思議光仏」、康元元年10月25日(1256年)、専修寺

3、「帰命盡十方无碍光如来」、康元元年10月25日(1256年)、専修寺

4、「帰命盡十方无碍光如来」、康元元年10月28日(1256年)、妙源寺

5、「帰命盡十方无碍光如来」、専修寺

6、「南无盡十方无碍光如来」、専修寺

 

 

 

実は『教行信証』の「真仏土巻」を繙くとわかることですが、阿弥陀仏を「阿弥陀仏光明、最尊第一無比」と述べているように、親鸞阿弥陀仏を光明の存在、大日の法身仏のような存在として捉えています。

これは『教行信証』全体にモチーフとして説かれておりまして、例えば「行巻」には次のように書かれています。

 

 

 

「悲願はたとへば大虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆへに。(中略)なをし伏蔵のごとし、よく一切のもろもろの仏法を摂するがゆへに。なをし大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆへに。日輪のひかりのごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆへに。」

親鸞教行信証』111~112ページ、金子大栄校訂、岩波文庫、1957年)

 

 

 

田中和夫氏の指摘によれば、ここでは親鸞が全ての草木が生ずる母の「大地」のように、また全てのものを照らす「日輪の光」のように阿弥陀仏を喩えています。つまりここでの親鸞は、阿弥陀仏毘盧遮那仏(大日)と同様にとらえているということになります。

この考え方は覚鑁の『五輪九字妙秘密釈』に見られる「阿弥陀仏大日如来」の考え方、円仁の宝冠阿弥陀像に見られるような「毘盧遮那=阿弥陀仏」と同様の考え方が採られていると考えることが自然でしょう。

阿弥陀仏を全ての存在の大地のように、また光明のように考えるのが親鸞の思想的背景にあるとすると、では仏像本尊ではなく「六字名号」等の文字を本尊としていたのは、どこにそのルーツがあるのでしょう。

私はまさにそのルーツこそ、空海の『声字実相義』であると考えます。

 

 

 

「真如法性の『無分節の言葉は、時々刻々、自己分節を続けて』人間の言葉になろうとしている。『声字実相義』ではこのことを、『名之根本法身爲根源。從彼流出稍轉爲世流布言而已。(名の根本は法身を根源となす。彼より流出して、しばらく轉じて世流布の言となるのみ)』と表現している。『名』とは宇宙の根源的世界である法身(南無)から出て、この人間世界の『流布の言』になる。その『流布の言』が釈迦仏の法身説法である。そして、この釈迦仏の法身説法の言葉(『名』)が『實相』を現象させるのである。それが『声字実相義』の『名は必ず體を招く。これを實相と名づく』という言葉が示している。つまり、阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という『名』になることによってこの世界に出現するのである。これが法身説法のもつ力である。」

(田中和夫『親鸞の念仏思想と見仏体験』191ページ、広島大学大学院[博士論文]、2016年)

 

 

 

私が今、考えている親鸞の言語存在論に最も近いものこそ、この田中和夫氏の見解であり、阿弥陀仏という名号によって、存在者が混沌から生成の場を見つめるための一つの方便として、阿弥陀仏を考えることこそ、現在の私の信仰の考え方です。

言語を越えたものを私たちは認識できません。それはすなわち私たちの認識そのものが言語のありようと不可分だからなのですが、それを越えるための手立てとして親鸞にあっては六字釈が考えられているのだと私は今のところ考えています。

 

 

 

参考文献

田中和夫『親鸞の念仏思想と見仏体験』、広島大学大学院(博士論文)、2016年

井筒俊彦『意味の深みへ』岩波書店、1985年

親鸞教行信証』、金子大栄校訂、岩波文庫、1957年

 

 

 

 

 

 

大蔵商事と松島勇氏のこと。

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて今回は池田大作氏が若い頃、営業部長として働いていた「大蔵商事」のこと、そしてそこで顧客として知り合うことになる松島氏という人物のことについて、簡単に書いてみたいと思います。

 

 

 

大蔵商事について、ご存じでない方は下記の記事を最初にご覧になった方がよいかもしれません。

 

 

 

「大蔵商事のこと」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/10/18/000000

 

 

 

この記事にも書きましたが、大蔵商事はいわゆる金融業でして、創価学会員の中でもある程度お金を持っているものに出資を持ちかけ、出資させた金を資金として金融をしていました。この大蔵商事の設立者は戸田城聖であり、この大蔵商事にかかわっていたメンバーは和泉覚池田大作、中西治雄、柏原ヤス、森重紀美子(戸田城聖の公認の愛人)、森重章(森重紀美子の甥)などです。

 

 

 

森重章氏の証言によれば、池田大作と中西治雄は、ある程度資金を持っていそうな創価学会員に目をつけ、「月三分(年利36%)の利息を払います」「どこに預けるよりも有利」「実は戸田城聖先生の事業です」等と説明し、融資を募っていました。事実、当時の聖教新聞には広告も載っていまして、上述の記事中にはその広告画像も載せてあります。

事実として、東京建設信用組合が営業停止処分になって、その後、「大蔵商事」を設立したのは、他ならぬ戸田城聖本人ですから、確かに「戸田城聖先生の事業です」という言い方は真実であったわけです。

 

 

 

ところで、この出資金集めに成功し、大蔵商事の社業は大きく上向きます。これには間違いなく営業部長としての池田大作氏の手腕が発揮され、多くの顧客を獲得したことが大きいと考えられます。

というのは、この大蔵商事に出資したことで、創価学会内で高い地位の役職を約束されたり、地方議員になることができたり、という事例が当時から多くあったことが知られているからです(亡き父からも聴いたことがあります)。ここで特筆しておきたいのは、埼玉県大宮市に当時住んでいた松島勇氏についてです。

 

 

 

松島勇氏は埼玉県大宮市の創価学会員で、当時自宅は創価学会の座談会の拠点でした。妻のふく氏とともに座談会では活況を呈していたことが知られています。

彼は旧・国鉄の大宮機関区に所属していたのですが、池田大作氏の勧誘に応じて大蔵商事に出資をしたばかりか、なんと彼は大宮機関区の同僚の職員たちにも働きかけ、他の人の出資、また退職金や共済金まで出資させることに成功します。このことは大蔵商事に莫大な収益をもたらしたようです。

そしてこの後、松島勇氏は創価学会内で支部長、理事、副理事長とまたたく間に上の役職になり、やがて埼玉県大宮市議会議員候補に推され、出馬・当選することになります。

 

 

 

この頃、池田大作氏、中西治雄氏は松島勇氏と昵懇の仲となって、二人は足しげく、松島勇氏の自宅に通うようになっていきます。この時、松島氏には二人の娘がいまして姉が松島郁子(後の藤原郁子)、妹が松島通子(後の渡部通子)という人物です。

いわゆる「月刊ペン事件」と呼ばれる裁判では、この際の松島通子と池田大作との男女関係が問われることになるのですが、ここではあえて書きません。ただ事実として松島家の令嬢・通子と池田大作とは関係が良好で、やがて優秀な彼女(早稲田大学卒)はその後、聖教新聞社記者、潮出版社編集局次長、取締を経て、衆議院議員まで出世することになります。

 

 

 

松島勇氏の自宅は、当時大宮市の創価学会の拠点であり、座談会や選挙対策が行われ、多くの会員が出入りしていました。池田大作もこのため足しげく松島家に通い、松島氏の子どもたちは創価学会内で高く優遇されていきます。ただ一人・長女の郁子のみ、東京都議会議員藤原行正と結婚し、やがて夫婦ともに池田大作と離反することになります。

 

 

 

余談ですが、後年松島勇氏が亡くなった後、松島氏の妻であるふく氏は、大宮を離れて藤原行正・郁子夫妻のところに同居するようになります。松島勇氏も妻のふく氏も、藤原氏とともに後年は池田大作への批判をするようになっていました。松島勇氏が亡くなった時、池田大作は彼に「名誉本部長」号を贈ったようですが、妻のふくはそれを飾らずにしまいこんでしまったと言われています。

 

 

 

松島家の娘たちと池田大作氏との間で何があったのか、私には知るよしもありませんし、知ろうとも思いません。

ただ池田氏と関係が深かった通子は、その後、会内で出世し、渡部一郎と結婚して夫婦ともども議員になっていきます。ちなみに松島通子と渡部一郎の結婚を提案したのは戸田城聖本人だったと言われています。私の父は渡部一郎氏のことをよく知っていましたし、母も生前、よく渡部通子のことを思い出して話していたものです。

 

 

 

論点を整理しますが、当時池田氏が営業部長を務めていた大蔵商事に多くの出資金を出すことで、創価学会内で出世し、議員になるような事例があり、その代表的な一人が埼玉県大宮市の松島勇氏だったということです。

そして松島家の二人の娘のうち、池田大作と良好な関係を築いた松島通子は、創価学会内で重要な位置を占めるようになり、そしてそれ以降、松島勇氏と妻のふく氏は池田大作への不満を募らせるようになっていきます。

 

 

 

 

 

 

公明党の得票数の推移。

 

 

 

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて今回は公明党の得票総数の推移をなんとなく調べてみました。

 

 

 

ちなみに比例代表制参議院で1983年に初めて導入されています。それ以前の参議院選挙は全国区の得票総数をデータとしてあげました。

衆議院公明党初進出は1967年であり、それ以前は衆議院公明党は出ていません。なお衆議院での比例代表制導入は1996年からで、それ以前のデータは衆議院選挙区得票数の合計を載せています。

データは1962年から挙げています。それ以前だと例えば1959年(昭和34年)は「創価学会系無所属」としての出馬になりますので、あえて割愛しました。1962年(昭和37年)の参議院選挙は「公明政治連盟」としての国政進出になります。

 

 

1962参議院 約412万(公政連)

1965参議院 約510万

1967衆議院 約247万(公明・衆議院初進出)

1968参議院 約666万

1969衆議院 約512万

1971参議院 約562万

1972衆議院 約444万

1974参議院 約636万(※地方区の得票数合計は約673万)

1976衆議院 約618万

1977参議院 約717万

1979衆議院 約528万

1980衆議院 約533万(衆参同日)

1980参議院 約667万(衆参同日)

1983参議院 約731万

1983衆議院 約574万

1986衆議院 約570万(衆参同日)

1986参議院 約744万(衆参同日)

1989参議院 約609万

1990衆議院 約524万

1992参議院 約641万

1993衆議院 約511万

1995参議院 新進党として約1250万

1996衆議院 新進党として約1581万

1998参議院 約775万

2000衆議院 約776万

2001参議院 約818万

2003衆議院 約873万

2004参議院 約862万

2005衆議院 約898万 (郵政解散)

2007参議院 約776万

2009衆議院 約805万 (政権交代)

2010参議院 約763万

2012衆議院 約711万 (与党復帰)

2013参議院 約757万

2014衆議院 約731万

2016参議院    約757万

2017衆議院    約697万

2019参議院    約653万

 

 

 

ここからわかることを少しずつ書いてみましょう。

 

 

 

まず1962年~1970年代までの創価学会の集票力はおおよそ500万~600万票程度だったということです。この頃、衆議院は全国区も比例区もない中選挙区の時代ですから、衆議院ではさほど得票総数が得られていません。ただそれでも1976年(昭和51年)の衆議院では618万票をとっていますから、この頃までに創価学会の組織は600万票程度の集票力をつけたことになります。

 

 

 

その後、1979年以降、創価学会の集票力は少し伸び悩む印象を受けます。今までは右肩上がりに400万票から600万票まで急増していたのが、少しここで足踏みをしてきた感じです。1977年(昭和52年)の参議院が717万票という大台を記録したのに対して、その2年後、1979年(昭和54年)の衆議院では528万票という数になります。それでもこの年の公明党は実際には選挙協力の結果、議席数を増やすことになります。元々、公明党衆議院選挙がやや弱く、またこの年1979年に池田大作氏の会長辞任があったので、それも少なからず影響したのかもしれません。

 

 

 

1995年になりますと、公明党新進党に参加します。この後、新進党は分裂に至るのですが、これ以降の公明党は結束が強まったのか、選挙ではコンスタントに700万票を越える集票力を持つようになってきます。

 

 

 

2000年代に入ると公明党の得票は800万票を越えるに至ります。池田名誉会長が「全国1000万」なんてことを盛んに目標として述べていた頃です(今ではほとんど死語ですが)。特に2005年の郵政解散ではなんと898万票を獲得するに至ります。創価学会が選挙に強かった全盛期でしょう。

 

 

 

それが2010年頃から少しずつ退潮が目立ち始めます。この頃の創価学会は青年層の減少と掘り起こしが最大の課題でして、事実、この頃の創価学会・毎年の年間テーマでは「青年」や「人材育成」等を掲げていました。ためしに少し列記してみましょう。

 

2000年「21世紀開幕・青年の年」

2005年「青年・拡大の年」

2006年「青年・躍進の年」

2008年「人材・拡大の年」

2009年「青年・勝利の年」

2010年「創価完勝・青年躍進の年」

2011年「人材・躍進の年」

2012年「青年学会 拡大の年」

2013年「青年学会 勝利の年」

 

ちなみに2013年「青年学会 勝利の年」の参議院選挙の結果は757万票です。少し上向いた時期に入りますが、かつての800万票を叩きだした頃の創価学会にはそれでも至らなかったということでしょう。

 

 

 

そして2017年から近年の公明党は、一気に退潮の傾向を強めています。

もはや700万票も割り、2019年の参議院では653万票まで落ちています。600万票という数字は、例えば1968年(昭和43年)の参議院が約666万票ですから、現在の創価学会の集票力はほぼ昭和40年代前半の頃まで落ち込んだということになります。

 

 

 

上述した当時の創価学会の年間テーマに見られるように、2000年代の創価学会は「青年育成」「人材拡大」ということが盛んに言われていました。その結果、2005年前後には800万票までいく集票力を持つようになるのですが、その後、青年育成・人材拡大路線は結果として長続きせず、現在の600万票前後に凋落する集票組織になります。

 

 

 

私個人の印象ですが、2000年代に人材育成を頑張った割には、結果として青年層を獲得するような組織に変わることができなかったということかと思います。90年代には池田名誉会長の肝いりで、青年部のみペンダント型の御守御本尊授与が始まったりしましたが、これも結果として青年層の布教拡大には繋がらなかったとみてよいでしょう。

 

 

 

本来このような総括は何も私個人がやらなくても宗教法人の執行部がやればよいだけのことです。ところが大石寺教団によくある傾向として、過去の失敗や過ちを決して認めようとしないところがあります。青年育成に失敗したなら失敗したでそれでよいと思うし、その後、ではその失敗を経てどのように今後、会の運営を進めていくのか、具体的な方策を進めなければならないでしょう。

大事なのは「青年部の御守御本尊授与は作戦として失敗だった」とか、「池田名誉会長の指導性が誤っていた」とか「青年育成の方針がそもそも間違っていた」ということを教団として認めるところから始めなければいけないということです。そしてそれができずに、過去の過ちを誤魔化し続ける限り、公明党の退潮と創価学会の衰退、大石寺系教団の信徒の食い合いは止まらないでしょう。まあ逆に、だからこそ彼らはコンサルティング会社のアクセンチュアと契約を結び、法人改革を進めようとしたのかもしれないのですけどね。

 

 

 

「経営コンサルティング会社との契約」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/09/14/000000

 

 

 

 

 

悟りと「エンライトゥンメント」

 

 

いつも皆さん、ありがとうございます。

最近は多くのブログやSNS等で当ブログに言及していただき、感謝にたえません。また「ブログ復活うれしかったです」等の記事もあるようで、本当にありがたいです。改めて感謝申し上げます。

 

 

 

さて今回は、鈴木大拙の「悟り」の訳語についてです。

 

 

 

ご存じでない方のために一応書いておきますと、鈴木大拙(1870~1966)は、日本の仏教学者でして、日本のとりわけ禅や浄土思想について多くの著作を英語で書き、海外に日本の禅文化を広く知らしめた哲学者です。1952年~1957年までコロンビア大学客員教授として禅思想の講義を行い、アメリカでの東洋思想、禅思想を広める立役者となりました。彼の交友関係は多岐に渡り、心理学者のカール・グスタフユング、哲学者のマルティン・ハイデガー、作曲家のジョン・ケージなど、鈴木大拙から多くの影響を受けていたことは多く指摘されています。

 

 

 

ところで、彼は仏教思想における「悟り」について、訳語として「Enlightenment」という語を用いています。

エンライトゥンメントとは文字通り「光に照らされて明らかになる」ということですが、この語に影響を受けていると考えられるのは後期のハイデガーの思想です。彼は後年の論文「哲学の終末と思索の課題」(1964)において「リヒトゥング」(lichtung)という語を使い、光に当てられた混沌が現存在への明るみに出てくると言う存在論を展開しています。本来この語には「間伐地」という意味があり、樹を切られて太陽の光に当てられるようになった土地が存在の明るみに出てくるという意味合いで用いられているようです。

 

 

 

ところで、創価学会発行の日蓮の英訳御書全集(The Writings of Nichiren Daishonin, Soka Gakkai 1999)においても、この鈴木大拙由来(と私は考えているのですが)のEnlightenmentを用いています。この御書の訳者は「御書翻訳委員会」(The Gosho Translation Committee)となっていますが、この委員会の序文でコロンビア大学のバートン・ワトソン教授に訳語の選定について感謝の言葉を述べています。彼は鳩摩羅什法華経および御義口伝の英訳に携わっていますし、創価学会が彼の訳語を踏襲することは自然なことかと思います。

 

 

 

私が疑問視しているのは、鈴木大拙が本来「エンライトゥンメント」という語で表現しようとした内実を、創価学会側がきちんと教義的に検討した上で用いているのかということです。ちなみに創価学会は「成仏」の訳語としてこの「エンライトゥンメント」を用いています。

即身成仏ということを表現するのに、創価学会側が英語の訳語として”enlightenment”をあてるのは勝手ですが、そもそも「即身成仏」という教義は日蓮本来の教義ではなく、真言密教で使われる教義です。法華経という経典では即身成仏は実は全く説かれておらず、二乗成仏は単に来世において成仏の記別が約束されるだけです。龍女の成仏は漢訳で「変成男子」と説かれ、サンスクリット原典では龍女に男性器が生えてきて成仏する表現がとられています。即身成仏は本来法華経の教義ではないのです。

 

 

 

「来世における成仏の記別」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/03/21/000000

 

 

 

「光に照らされて仏になる」ということを安易に「成仏」ととらえ、その訳語として鈴木大拙由来の“Enlghtenment”をあてるとするなら、本来の鈴木大拙氏の悟りに対する見解と創価学会の考える成仏とか悟りとかが同じものなのか、違うとするならどこが違うのか、またその語を採用するならどのようにその訳語をあてた意義を捉えるのか、教義的な検討が必要になるはずです。

 

 

 

鈴木大拙の著作によれば浄土三部経で説かれる阿弥陀世界は、陰影のない光の世界と考えられています。これは無分別の世界であり、本来の世界の前提としての混沌を光というかたちで表現したものであり、光があまりに強く陰影に乏しければ、世界は世界として私たちの前に現前してこないでしょう。

現在、私は龍樹由来の念仏の徒として、南無阿弥陀仏を唱える信仰者として生きているのですが、私が南無阿弥陀仏を唱える時に意識するのはまさにこのことでして、あらゆる法の常住を否定し、一切の常住への執着から離れるということを信仰の目的にしているがためです。

 

 

 

翻ってみるに、大石寺系教団として日蓮正宗と同様、創価学会もまた自らの教義に全く無反省・無自覚な姿勢をさらけ出しておりまして、教学的に破綻していると私は考えています。

 

 

 

参考文献

鈴木大拙『浄土系思想論』岩波文庫、2016年

後藤嘉也「他なるものの声 -ハイデガーにおける循環と展開-」東北大学、2005年

The Writings of Nichiren Daishonin, The Gosho Translation Committee, Soka Gakkai 1999

気楽非活の思想的変遷

 

 

 

いつも皆さん、ありがとうございます。

 

 

 

さて、このブログを長く読まれている方なら、私の思想的な遍歴は多くご存じのことと思います。

かつて創価学会のバリバリの活動家だった私は、広宣部のメンバーになり、諜報活動や大石寺系教団信徒との対論に駆り出される中、徐々に創価学会、そして大石寺系の教義の欺瞞に気づかされました。

現在では、日蓮法華経そのものを批判し、そもそも鳩摩羅什訳の法華経の構成に問題があり、また日蓮の思想そのものは仏教ですらないという立場に立っています。

 

 

 

現在は初期仏教の立場から、一切は十二処十八界の束に過ぎず、真実や法の常住を求めることは釈迦の教えと反するという、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』の立場に立ち、『十住毘婆沙論』や親鸞の『教行信証』から、念仏思想を求める信仰者として孤立の道を求めています。

 

 

 

私は親鸞法然源信の著作などを読むようにしていますが、ただ別段浄土真宗等のお寺に所属しようという気は全くありません。寺に参拝する気もありませんし、檀徒や信徒になる気もないです。

信仰者というのは個人の力で求めていけるものだと今は確信しているものなので、なんら教団のお坊さんに教わろうなんて思っていません。まして大石寺日蓮宗系の僧侶さんにわざわざ教わろうとは思っていません。

大石寺系の御住職の中には博識の方もおりますが、多くは富士学林の教義かぶれになってしまいまして、幅広く仏教を学ぶことができない。だいたい後世の創作に過ぎない戒壇本尊をどうして教義の中心としなければならないのか理解できません。挙句の果ては布教活動も信徒にやらせるばかりで自分たちでやる気さえない。

 

 

 

創価学会の幹部などそれ以下も以下、もはや問題外でございまして、そもそも日蓮の遺文を知らない。御書をろくに読んだこともない人が大半です。

大石寺26世堅樹院日寛書写の曼荼羅を拝んでいるのに、日寛の著作ももはや知らない。

挙句の果ては弘安2年造立とされる戒壇本尊の存在も知らない。

その写しという教義で固められているはずの日寛本尊、そして創価学会本部の常住本尊(大石寺64世水谷日昇書写)を拝むということの矛盾を彼らが全く理解できていない。

 

 

 

そしてこのブログでしばらく日蓮の遺文、また富士門流の文書をひたすら読もうと心がけました。

幸いに富士門流系の文書については、広宣部時代に手に入れた富士宗学要集が全10巻そろっていましたから、ここから手当り次第に読んではブログで書いていました。また広宣部時代にさまざまな文献を集めていたり、史料を整理したりしていましたから、読むことに関しては苦になりませんでした。

さほど丹念に読みこめた自信もありませんが、読んでいてわかったことは、いかに大石寺が自分たちの権威性を高めるために興門流の他山の文書を利用していたか、という彼らの偽善性です。

『御本尊七箇相承』と戒壇本尊との相貌の矛盾、『本因妙抄』本文の改竄、北山本門寺に伝わっていたはずの二箇相承の換骨奪胎、『日興跡條條事』写本の改竄、その他多くの文書の公開拒否……これでは信じるに足るものなどありません。日蓮宗から冷やかにみられているのもよくわかるというものです。

 

 

 

「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248

 

 

 

日蓮の遺文については、『昭和新修・日蓮聖人遺文全集』(平楽寺版)を入手して読み始めましたが、まあ……創価学会版・大石寺版の遺文の改竄のひどいありさまといったら大変でした。

こらえていろいろ読んでいくうちに気づかされたのは、そもそも日蓮の発想そのものが国家の奉じる宗教への主張だったということです。

立正安国論』で明らかですが、日蓮は国家の加持祈祷に正しい教えを用いるべしと考えていました。そしてそれが法華経であり、なかんずく自分自身の南無妙法蓮華経なのだという立場です。

この発想そのものがもはや仏教ではありません。法華経安楽行品では信仰者は為政者や大臣、王族に近づいてはならないと戒められています。それに聖徳太子の『法華義疏』でも信仰者は為政者に親近してはいけないとされています。

つまり日蓮国家主義的発想そのものが儒教的な発想に彩られていまして、同時に神道への親近性が徐々にわかってきてしまったんですね。

日蓮の思想には儒教の『貞観政要』の影響が色濃く存在し、事実北山本門寺には日蓮自身が書写した『貞観政要』の写本が現存しています。また『忘持経事』等、多くの遺文の内容に『貞観政要』の引用が為されています。

 

 

 

読んでいるうちに「あ、こりゃダメだ」と(笑)、自分で自分の方向の誤りに気づき始めました。

自分の信仰を根底から否定した恥さらしの私が、今さらこだわりを持つこともありません。

そんなダメダメの教えを信じ込んでいた私がそもそもバカだったのですから。

 

 

 

私は学生時代に『御義口伝』をよく読んでいました。『御義口伝』には名文句が多く、簡にして要を得た説明で法華経の言々句々を大胆に解釈するものです。この『御義口伝』から日蓮思想の再解釈を夢見ていた、そんなおめでたい(笑)時期が私にはありました。

しかしながらそんな淡い希望も打ち砕かれるに至ります。そもそも『御義口伝』最古の写本は天文8年(日蓮滅後257年)の八品派日経のものでしかなく、大石寺写本はさらに後世のものです。しかも挙句の果ては弘安元年述作とされる講義の中に日蓮滅後13年後の『科註妙法蓮華経』の引用がされており、もはや日蓮の純粋な述作とは言い難いものでしかありません。

 

 

 

大石寺写本『御義口伝』の改竄」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/08/000000

 

 

 

私が『御義口伝』を読んで学んだことは、空仮中の三諦の理論です。これは後に気づくことになるのですが、単なる天台の教学に過ぎず、このルーツはいったいどこにあるのか、私は様々な仏典を彷徨することになります。

そして私は北伝仏教の開祖とも言うべき龍樹(ナーガルジュナ)の著作に行き着きます。

 

 

 

私は当初龍樹の『中論』の意味がわかりませんでした。あらゆるものを否定するニヒリズムのように感じられて、その意図を理解するまで少々時間がかかりました。『中論』の訳についても複数を読み比べ、少しずつ丹念に読んでいきました。今は削除されていますが、『中論』の読解もこのブログでは記事としてあげたことがあります。

 

 

 

読み進めるにつれて、龍樹自身が『中論』とは別に『十住毘婆沙論』という念仏の著作を書いていることを知り、大きな衝撃を受けます。もちろん現代において『十住毘婆沙論』が龍樹の真作であるかどうかには議論が多く、両述作を安易に結びつける議論には慎重を要するのですが、研究をされている方の論文、また源信道綽法然親鸞などの著作を読むにつけ、念仏思想における龍樹のこの作品の位置の大きさを知るに至りました。

 

 

 

私は当初、念仏思想に誤った先入観を持っていました。極楽浄土が西方の彼岸にあるのだという誤解です。そして穢土を離れた浄土で涅槃(ニルヴァーナ)を果たすのが浄土思想だと思っていました。

しかしながらそれはどれも間違いであり、そもそもニルヴァーナの境地を得たいと思って憧れること自体が迷いなのであり、龍樹の意図はそのような常住の法や憧れとしての境地を根底から否定したことにあったということです。

 

 

 

「涅槃と浄土」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2020/12/13/231020

 

 

 

私はこのブログ執筆を通してさまざまな方と知り合いました。その方たちと出会えたことには感謝しています。

しかしながら、創価学会日蓮正宗顕正会等の大石寺系教団を批判することでしか、自分たちのアイデンティティを語れないとするなら、私には意味がないと感じるに至りました。

批判は批判でも構いません。ではその後に自分は何をしたいのかということです。

挙句の果ては自分自身を権威づけて、他者を貶めるだけの人の多さに気づきました。それなら他者を全否定する大石寺系の思考回路と何ら変わるところがないと私には思えました。

 

 

 

私は青年部時代、創価学会の地域組織の再興を夢見て活動していました。今考えてみれば単なる妄想の狂信者といったところです。そのような勘違いの使命感を帯びて活動に明け暮れていました。題目も狂ったように唱えていました。1日3時間の唱題を決意し、青年部の幹部時代は寝る間も歩く暇も惜しんで題目をあげていました。あまりにずっとあげているもので、近所の幹部さんが心配になって家のドアを叩いて尋ねてきたことがあるほどです。

やるなら徹底してやりたいといつも考えていました。

そしてそんな妄想の熱が醒めた頃、自分のやってきたことは何だったのかと考えるようになりました。気が付けば私は母も父も失くし、天涯孤独の身になっていました。母の親族も宗教絡みの拗れから疎遠になり、亡くなったり一家離散になったりしていました。

 

 

 

バリバリの活動家だった私は母とともに活動から遠ざかり、一気に非活になりました。

母と地域家族の縁から当初は退会にまで踏み出すことができませんでした。

私は創価学会が地域に強いネットワークを張り巡らせており、その相互扶助の組織からおいそれと抜け出すことがいかに地域によって難しいかをよく知っているつもりです。ですから母の地域からの目もあり、当初はゆるやかに非活の道を選ぶことしかできませんでした。

と同時に、今の私は創価学会を退会していますが、一定数の会員が直ちに創価学会の組織から離れることがそれなりに難しいということも熟知しているつもりです。

 

 

 

だからこそ苦渋の選択ながら非活の道を選んでいる方も私には大切な人です。まして私の母や父がそうでした。

そのような方を侮蔑して憚らない、選民思想の裏返しのような考え方を持つ人に私は全く共感できませんでした。

結局、創価学会大石寺を批判する人たちの多くが、同じ元の穴のムジナで、同じような選民思想に囚われてしまうのでしょう。自身のパラダイムの限界も理解し得ないのなら、釈迦の十八界を学ぶことも現実として彼らは無意味だということです。

 

 

 

自身の思想的陥穽に気づき、自身の依拠する思想がそもそも根底から根拠がないこと、一切は十八界の束に過ぎないこと、それへの執着から離れることこそが私の考え方です。

と同時に、私は仏教に無量の門があるとする龍樹の考えに深く共感するものです。

 

 

 

 

『龍樹菩薩伝』によれば、若き日のナーガルジュナは仙術を会得し、王宮に勝手に入って女性たちを誑かしました。その結果、龍樹の仲間たちは切り殺され、一人龍樹のみが生き残ることになります。彼は心に「欲は苦しみの根である」と自らを恥じ、仏門に入るに至ります。ここで描かれるナーガルジュナは決して他人から褒められたような人間ではありません。単なる欲の塊が自身の若き日の半生を悔い、生き直すという起点から龍樹の信仰が始まっていると考えられます。

 

 

 

私はかつて創価学会員として、また日蓮正宗の信徒として、多くの人を傷つけ、その人生を狂わせてきました。

広宣部として対論や諜報活動に取り組み、恥の多い生涯を送ってきました。

私は他者に褒められる人間ではありません。何かを語れるような人間でもない。

しかしそんな罪深い人間もまた、念仏の思想によって救われることを龍樹や親鸞の著作は教えてくれています。

私はどんな寺の信徒にも檀徒にもなりません。

大石寺系の日寛教学から離れることのできない、御義口伝かじりの池田大作戸田城聖の思想には辟易しました。

どんな信仰も自由です。しかしどんな教団も個人の信仰を侵害する権利は持ち得ません。