気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

2023年の創価学会の年間テーマは「青年・凱歌の年」

 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて2022年10月6日付の聖教新聞では、創価学会の2023年のテーマが発表されました。
2023年のテーマは「青年・凱歌の年」だそうです。

 
 
ここでこれまでの創価学会の毎年のテーマをおさらいしてみます。
 
創価学会・毎年のテーマ
 
1959年(昭和34年)黎明の年
1960年(昭和35年)前進の年
1961年(昭和36年)躍進の年
1962年(昭和37年)勝利の年
1963年(昭和38年)教学の年
1964年(昭和39年)団結の年
1965年(昭和40年)勝利の年
1966年(昭和41年)黎明の年
1967年(昭和42年)躍進の年
1968年(昭和43年)栄光の年
1969年(昭和44年)建設の年
1970年(昭和45年)革新の年
1971年(昭和46年)文化の年
1972年(昭和47年)地域の年
1973年(昭和48年)教学の年
1974年(昭和49年)社会の年
1975年(昭和50年)教育・家庭の年
1976年(昭和51年)健康・青春の年
1977年(昭和52年)教学の年
1978年(昭和53年)教学の年
1979年(昭和54年)人材育成の年
1980年(昭和55年)地域の年
1981年(昭和56年)青年の年
1982年(昭和57年)青年の年
1983年(昭和58年)建設の年
1984年(昭和59年)健康の年
1985年(昭和60年)開拓の年
1986年(昭和61年)人材育成の年
1987年(昭和62年)平和・地域の年
1988年(昭和63年)信行・成長の年
1989年(平成元年)行学・前進の年
1990年(平成2年)原点・求道の年
1991年(平成3年)平和と拡大の年
1992年(平成4年)創価ルネサンスの年
1993年(平成5年)創価ルネサンス・勝利の年
1994年(平成6年)創価ルネサンス・栄光の年
1995年(平成7年)栄光・躍進の年
1996年(平成8年)新世紀・大勝の年
1997年(平成9年)新世紀へ前進の年
1998年(平成10年)新世紀へ民衆勝利の年
1999年(平成11年)新世紀へ地域勝利の年
2000年(平成12年)21世紀開幕 青年の年
2001年(平成13年)新世紀 完勝の年
2002年(平成14年)対話拡大の年
2003年(平成15年)栄光・大勝の年
2004年(平成16年)創価・完勝の年
2005年(平成17年)青年・拡大の年
2006年(平成18年)青年・躍進の年
2007年(平成19年)前身・勝利の年
2008年(平成20年)人材・拡大の年
2009年(平成21年)青年・勝利の年
2010年(平成22年)創価完勝・青年躍進の年
2011年(平成23年)人材・躍進の年
2012年(平成24年)青年学会 拡大の年
2013年(平成25年)青年学会 勝利の年
2014年(平成26年)世界広布新時代 開幕の年
2015年(平成27年)世界広布新時代 躍進の年
2016年(平成28年)世界広布新時代 拡大の年
2017年(平成29年)世界広布新時代 青年拡大の年
2018年(平成30年)世界広布新時代 栄光の年
2019年(令和元年)創価勝利の年
2020年(令和2年)前進・人材の年
2021年(令和3年)希望・勝利の年
2022年(令和4年)青年・飛躍の年
2023年(令和5年)青年・凱歌の年
 
 
となります。
昨年に続いて「青年」をキーワードにしたテーマにしたということは、昨年に引き続き、よほど青年層の活動家の掘り起こしが急務であり、必要な課題なのでしょう。
 
 
聖教新聞(2022.10.6付)では全国方面長会議が行われたことが書かれ、原田会長の指導として、以下のように書かれています。
 
 
「席上、明年のテーマを「青年・凱歌の年」とすることが発表された。
原田会長は、広宣流布大誓堂の完成10周年となる明年を、青年を先頭に「世帯増・部員増」「活動者増」という拡大の凱歌で飾りゆくことを約し合いたいと強調。
そのためにも、"本年の勝利なくして明年の勝利もない"との決意で、下半期を「折伏・弘教」「聖教拡大」「人材拡大」に走り抜きたいと語った。
具体的には「教学部任用試験(仏法入門)の研さんを通じた、広布拡大に挑戦する人材の育成」「11、12月のSOKAユースフェスタなどの機会を活用した、青年世代の成長・激励」を力説。
とりわけ重要なのは直接会い、顔と顔を合わせての一対一の対話、一人一人への励ましであると述べ、全幹部が「励まし週間」「座談会の結集と成功」に総力を挙げ、「信心の歓喜」みなぎる広布の団結を築いていこうと呼びかけた。」
 
 
そんな内容です。
私が活動家だった時、1990年代から既に青年層、とりわけ後継の年代の減少は深刻な課題であり、信濃町が殊更に言わなくても現場で真剣に悩んでいたことです。事実それを受けてのことと思いますが、2000年の年間テーマは「21世紀開幕 青年の年」です。そして「青年」がテーマにこの時に採用されたのは何と1982年以来のことであり、18年ぶりに「青年育成」ということを既にこの時、テーマとして創価学会が活動していたことになります。
 
 
しかしながら青年は増えませんでした。当然ですが、そもそも統監がいないのです。
2022年8月6日に行われた全国の高等部の会合結集は惨憺たる結果であり、東京方面は第2総東京も含めて高等部は200人程度しか集まらず、九州や中国方面に至っては20人程度しか集まらない。全国で合わせておよそ700人の高等部しか結集できませんでした。
高等部3学年集めての結果がこれです。地域や方面差はありますが、場所によっては圏や県単位、小中高合同で未来部の会合を開かないと、会合そのものが成立しないところさえ出ています。
 
 
恐らく原田稔会長が述べたいところは、任用試験を通じて布教を進め、新しく青年層を取り込みたいところかと思います。事実、任用試験は創価学会以外の友人も受験することが可能であり、そこから布教拡大に繋がったとする事例も出てきています。信濃町執行部としては来年に向けて今年の任用試験を布教数と活動家数増加の突破口にしたいと考えているのでしょう。
 
 
しかしながら地域に若い世代が減りすぎてしまった現状としては、青年層の糾合は難しいことがわかります。
そもそも私の現在の地域や、多くの地域組織では既に地区や支部の活動家は65歳〜75歳の方がほとんどです。その中に50歳程度の団塊ジュニア世代の活動家が数人、一部の地区にいる程度。20代の若い男女青年部はここ何年も見たことも聞いたこともありません。数年前の新年の「成人の日」に、分県の中心会館に集まったメンバーはわずかに4人でした。しかも4人中3人は実家に帰ってきていただけであって、地元のメンバーは1名しかいませんでした。日蓮正宗も現在布教数が伸びず、連日『大百法』で早瀬日如氏が布教に檄を飛ばすようになりました。創価学会も同様に青年層の活動家に枯渇するようになったのです。
 
 
若い人たちが果たして75歳の人たちしか集まらない地区座談会に勇んで結集しようと思うでしょうか?
若い人たちが楽しくもない集まりに参加しようと思うでしょうか?
私が男子部世代の活動家だった頃は皆でいろんなことをやりました。バーベキューをやったり、部員とカラオケに行ったり、お好み焼き大会をやったり、ソフトボールをやったり、サッカーをやったり、会合でコントを企画したり、焼き肉を食べに行ったり……いろんなことをしたものです。実際、遊説隊や文化祭、少年少女部や合唱団などで、男女青年部が出会う場も比較的多くありました。その頃の青年部世代にはその出会いから恋愛や結婚をした人たちも多くいました。
 
 
今は遊説隊も出せません。文化祭もありません。男女青年部が楽しく企画する活動もありません。日蓮正宗の御講も創価学会の座談会ももはや旧態依然の活動に堕してしまっていて、青年が喜んで出たい場所ではなくなっています。
そもそも信濃町の執行部が青年ではありません。原田稔氏や長谷川重夫氏はもう80歳近い年齢です。
 
 
申し訳ないのですが、創価学会の衰退は既に既定路線です。信濃町執行部は2022年参院選比例区618万票がネックになっているかと思いますが、今後これが爆発的に拡大することはあり得ません。来年は活動家たちの献身的な活躍により、一時的に得票数が増えることが予想されますが、それは一時的なものであって、長い目で見れば創価学会日蓮正宗も減衰は免れないのです。全国で未来部1学年分の統監で既に1万人を割っているところがあることが如実にそれを物語っています。もともとの頭数が創価学会内部にいません。そして若い人がいない以上、外から若い人たちを惹きつける魅力に既に枯渇してしまっていることに信濃町執行部自体が気づいていないのが致命的なのです。
最後に2000年以降、年間テーマに「青年」を入れた年だけを抜き出してみたいと思います。創価学会が2000年以降、どれだけ青年層拡大に失敗してきたのかがよくわかるかと思います。その失敗したことを真摯に認め、信濃町が自分たちの間違いを認めない限り、創価学会の青年層拡大はあり得ないでしょう。
 
 
2000年(平成12年)21世紀開幕 青年の年
2005年(平成17年)青年・拡大の年
2006年(平成18年)青年・躍進の年
2009年(平成21年)青年・勝利の年
2010年(平成22年)創価完勝・青年躍進の年
2012年(平成24年)青年学会 拡大の年
2013年(平成25年)青年学会 勝利の年
2017年(平成29年)世界広布新時代 青年拡大の年
2022年(令和4年)青年・飛躍の年
2023年(令和5年)青年・凱歌の年
 
 
 
 
 
 
 
 

熊野正士氏のセクハラLINEについて。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて公明党比例区選出の参議院議員、熊野正士氏が週刊誌報道を受け、議員辞職をしました。
 
 
そもそもの発端は2022年9月6日、『デイリー新潮』『文春オンライン』で、熊野氏が社会福祉団体の女性に卑猥なLINEを送り続けていたという記事を配信したことです。
そして熊野正士氏本人は入院中のため、事実の確認ができなくなっているという事態となりました。
 
 
週刊誌側はこの被害女性が創価学会信徒であることを明かし、この女性が公明党北側一雄副代表にこのセクハラの件を訴えており、公明党執行部が熊野正士氏のセクハラ案件を知りながら、その隠蔽を行ったと主張します。
公明党はセクハラLINEに関して「事実なら言語道断」としながらも、事実であることについては言及を避けます。その上でセクハラから論点を逸らし、「事実の隠蔽はない」と述べて、事実隠蔽を主張した週刊誌側を提訴します。
そのセクハラLINEの画像は以下のようなものです。

 
 
9月29日、熊野正士氏は議員辞職の意向を示し、同日に石井啓一幹事長が辞職願を預かりました。30日に正式に熊野正士氏は議員辞職となります。
この際の石井啓一幹事長のコメントは以下の通りです。

 
石井啓一氏は30日の記者会見の中で、熊野正士氏が週刊誌報道を「報道を事実とは認めていない」ことを明らかにしました。石井啓一氏のコメントによるなら「党員・支持者・国民の皆様に多大なご心配、ご迷惑をおかけした」ので議員辞職したのだそうです。

 
さてそうなると全く筋が通りません。
そもそも熊野正士氏の前掲セクハラLINEと呼ばれる画像が事実でないとするなら、「支持者」に「ご迷惑をおかけした」のは本来「議員」ではなく「週刊誌」になるはずです。
それなら身の潔白を主張し、支持者に迷惑をかけた週刊誌側を告訴、熊野氏も堂々と政治活動をすれば良いはずです。
ところが、公明党側は論点を逸らして「セクハラLINEの事実の有無」ではなく「公明党側の隠蔽」を週刊誌側に提訴します。しかもこれは「告訴」ではなく「提訴」です。
熊野正士氏が何らやましいところがないのであれば、公明党が熊野氏の議員辞職を引き止め、身の潔白を訴えてLINE画像の捏造等の証拠を出せばいいだけです。
しかし公明党はそうしませんでした。報道を事実と認めていない、故に「潔白」であるはずの熊野氏の議員辞職を29日にあっさり認めて、早急に幕引きした印象が拭えません。
 
 
大事なことは、週刊誌側が明るみにしたセクハラLINE画像が「事実なのか」「事実でないのか」を明らかにすることです。
公明党の現在の今までの態度は、少なくともセクハラLINE画像が「事実なのか」「事実でないのか」という点を最初からあやふやにしていると私は思います。
 
 
 

 

『聖人御難事』を出世の本懐の根拠とした最初の人物は大石日応である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮正宗戒壇本尊が弘安2年に造立されたとする説を採っているのですが、その根拠にしている日蓮遺文は『聖人御難事』です。
ところがここに出てくる「余は二十七年なり」という文はそんなことを書いた文ではありません。
 
 
「『余は二十七年なり』って」
 
 
 
上記のブログから再掲してみましょう。
 
 
「……此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すが如し、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」
『聖人御難事』創価学会版御書全集、1189ページ)
 
 
これが大石寺の方々に言わせれば弘安2年の戒壇本尊を顕した文証、出世の本懐を遂げた文証なのだそうですが、どう読んでも次のような意味にしかとれません。
 
 

「教主釈尊は約40年、天台大師は約30年、伝教大師は約20年をかけて出世の本懐を遂げられた。その間それぞれ法難を受けてきたことは申すべくもない。日蓮もまた本懐を遂げんと立教開宗以来、27年間戦ってきたが、その間の大難は御存知のことであろう。」

 
加えて『聖人御難事』が執筆された日付は「弘安2年10月1日」です。大石寺戒壇本尊造立を主張する日は「弘安2年10月12日」であって、この時点では戒壇本尊はまだ建立されていないはずです。まだ作られていない時期の述作を用いて、どうして作られた証明とできるのでしょうか。

 
ところで、この『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を拡大解釈して、日蓮戒壇本尊造立を「出世の本懐」とする根拠とした最初の人は誰なのでしょうか。
それは大石寺56世大石日応(日應)です。
大石日応の『弁惑観心抄』から引用してみましょう。
 
「以上、寛記に示すが如く、弘安二年十月、本門戒壇の大本尊を顕すをもつて出世の本懐を成就せりと言うべし。故に、宗祖の云わく、
『去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日(中略)此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳癸丑なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり云云』
この御文意を深く考うべきなり。余は建長五(一二五三)年より二十七年、弘安二年十月、本門戒壇の本尊を顕し、出世の本懐を究尽し給うべきとの聖意にほかならざるなり。」
(大石日応『弁惑観心抄』348ページ、大日蓮出版、明治27年

『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「出世の本懐」を日蓮が遂げたという根拠に仕立て上げていますが、先述したように『聖人御難事』の文をきちんと読めば、単に日蓮自身が大難を受けてきたということしか書いていません。そして「余は二十七年なり」を無理矢理に「出世の本懐」の依文と曲解した最初の人物こそ、大石寺56世の大石日応なのです。
 
日応の『弁惑観心抄』引用の前段では、大石寺26世日寛の『観心本尊抄文段』が挙げられています。
日寛は、確かにここで弘安2年戒壇本尊を「蓮祖出世の本懐」としていますが、ここで日寛は『聖人御難事』は引用していないのです。
 

画像は『日寛上人文段集』(阿部日顕監修、創価学会教学部編、聖教新聞社、昭和55年)の『観心本尊抄文段』の該当部分ですが、日寛はここで戒壇本尊を出世の本懐とするのに『聖人御難事』を根拠としてここで引用してはいません。
大石日応以前に、大石寺で「出世の本懐」の根拠として「余は二十七年なり」を引用する議論は存在しなかったのです。
 
つまり現在の創価学会日蓮正宗大石寺の主張する、「余は二十七年なり」を「出世の本懐の根拠」とする議論は、明治に入って大石日応が最初に言い出したことなのであり、それ以前に『聖人御難事』を無理矢理に戒壇本尊に結びつける議論は存在しなかったということになります。
 
 
 

 

常泉寺に戒壇本尊の複写が存在する。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて、戒壇本尊の写しを法主が書写してそれを信徒に頒布するというのが大石寺の本尊教義です。しかしながら「書写」と言いながら全く同じ相貌に書いていません。
 
 
「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」
 
「能く能く似せ奉るなり」
 
「弘安10年日興本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺3祖日目書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺4世日道書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺5世日行書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
 
上記引用の「能く能く似せ奉るなり」に書きましたが、そもそも相伝とされる『御本尊七箇相承』にはよくよく似せて書くことが指示されています。それなのに法主書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌で書かれたものがただの一体も存在しないのです。
 
 
それなのに、日蓮正宗信徒は「法主の内証を書写するのだ」という訳の分からないことを述べてきます。
そんな客観性のないオカルト教義なら信用性を失うだけなのに、彼らはそのことを理解しようとしません。
 
 
 
ところで、戒壇本尊の正式な写し、全く同じ相貌の本尊というのは大石寺やその末寺には存在しないのでしょうか。
それが一体だけ記録に残されています。
それは東京・向島常泉寺にある本尊です。
この記録は『開創四百年記念 久遠山常泉寺略誌』(山口範道編、平成8年、常泉寺、非売品)に記録されています。

ここには「宗門第一之重宝御戒壇正写」と記されています。
全ての大石寺の本尊が戒壇本尊の写しだという教義なら、なぜわざわざ「宗門第一之重宝」「御戒壇正写」と示書で書く必要があるのでしょう。そもそも「御戒壇」と呼ばれる本尊は大石寺においては弘安2年戒壇本尊以外にあり得ない筈です。とするとこの本尊は戒壇本尊を正確に模写したものということになります。それが常泉寺に存在するということです。
 
 
大石寺には古来から戒壇本尊の模造レプリカが複数存在するという噂が旧信徒たちの中に伝わっています。彼らから聞く話では戦時中に空襲を避けるために埋めた話とか、掘り出した後に作り直した話とかがまことしやかに伝えられています。
常泉寺大石寺戒壇本尊の複写が存在するという記録がある以上、戒壇本尊の何らかの複写品が複数大石寺内外にあろうということは容易に想像できることだと思います。
 
 
 
 

 

『阿仏坊御書』における「出世の本懐」

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて大石寺系教団では「出世の本懐」を、弘安2年造立説の戒壇本尊のことと言い張ります。
このブログでは、そもそも戒壇本尊自体、日蓮作ではない、後世の造立でしかないと判断しています。そして日蓮や日興の遺文から「出世の本懐」というものが「弘安2年戒壇本尊」を指しているわけではないことを繰り返し述べています。
 
 
日蓮出世の本懐は『南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成如来の画像』である。」
 
「『余は二十七年なり』って。」
 
 
「出世の本懐」を「弘安2年戒壇本尊」と結びつけるのは、論理の飛躍、拡大解釈でしかありません。そもそも日興は『原殿御返事』で日蓮の出世の本懐を「南無妙法蓮華経教主釈尊久遠実成如来の画像」と述べています。
 
 
ところで、この「出世の本懐」という言葉、『聖人御難事』以外の日蓮遺文には現れない表現なのでしょうか。
実はこの「出世の本懐」という言葉は『阿仏坊御書』(真蹟不存、真偽未決)に出てくるのです。

 
 
「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。」
日蓮『阿仏坊御書』創価学会版御書全集1304ページ)
 
 
日蓮が書き表した宝塔をさして「出世の本懐」と述べています。
とすると日蓮が「出世の本懐」とするのは「宝塔」であり「日蓮が書いた宝塔」ということになります。
とすると一つの矛盾が生じます。この『阿仏坊御書』は真蹟不存ですが、述作年代は文永9年とされています。

 
 
文永9年(1272年)は日蓮佐渡にいた時期であり、弘安2年(1279年)より7年も前になります。
とすると『阿仏坊御書』を日蓮真蹟と判断するなら、日蓮は弘安2年以前、文永の時期に自分が書いた宝塔、すなわち曼荼羅本尊を日蓮自身が「出世の本懐とはこれである」と述べていることになってしまいます。
弘安2年戒壇本尊ではなく、文永期の本尊が「出世の本懐」だと日蓮が述べていることになるわけですから。
 
 
最近の創価学会日蓮正宗の信者さんは丹念に遺文を読むことをあまりしていません。なのでこのような教義の矛盾に気づかないことが多いように感じます。
 
 
 
 
 

 

『経王殿御返事』は偽書である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は『経王殿御返事』と呼ばれる日蓮遺文についてです。
 
 
 
この『経王殿御返事』は、創価学会信徒や大石寺法華講信徒さんには馴染みの深い御書として知られています。四条金吾頼基の娘とされる経王が病気になり、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」と励ます部分はとても有名です。
また「但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし」と書かれ、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と御本尊を日蓮が書いた姿勢まで述べた遺文です(創価学会旧版御書全集1124〜1125ページ)。

 
ところが、この『経王殿御返事』、読めば読むほど非常に違和感の残る御書なのです。
まずこの御書は真蹟が存在しません。上古の時代写本も存在しません。室町時代以降、録外によって知られた遺文に過ぎないのです。
大石寺創価学会の御書全集では、同遺文は文永10年8月15日に書かれたとされますので、佐渡で書かれたもの、ちょうど佐渡始顕曼荼羅本尊が書かれた一月後に四条金吾に送られたものと考えられているようです。
 
 
ただそうなると一つの矛盾が生じます。それは建治3年7月に書かれた『四条金吾殿御返事』(真蹟断簡現存、大分・下総)の次の一文です。

 
「とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり」
日蓮四条金吾殿御返事』同1163ページ)
 
 
日蓮が建治3年7月の時点で、四条金吾には「子どもがいない」と述べているのです。
文永10年は西暦1273年です。
建治3年は西暦1277年です。
1273年に『経王殿御返事』で四条金吾の娘・経王の病気の平癒を祈っているのに、その4年後の1277年の書状で「とのは子なし」と日蓮が述べているのです。
建治3年の『四条金吾殿御返事』には断簡ながら真蹟が現存していることがわかっています。しかし建治3年から4年前とされる『経王殿御返事』には真蹟も写本も残っていません。
河合一・小林正博の『日蓮大聖人の御書を読む 下・御消息編』(第三文明社、1996年)を見ると、建治3年の『四条金吾殿御返事』に真蹟断簡が現存することが書かれています(同292ページ)。

 
文永10年(1273年)に病気だったとされる「経王」と言う娘のことが書かれているのに、建治3年(1278年)には「とのには子がいない」と書かれています。
この二つは明らかに矛盾しています。つまり真蹟の現存しない『経王殿御返事』が偽書である可能性が高いと言うことです。
 
 
むろん文永10年の時点で病気だった娘・経王が亡くなってしまった可能性もあるでしょう。
とすると四条金吾は「鬼に金棒たるべし」「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」と言われながらも、結果として娘を病気で亡くしたことになります。
 
もしかすると可能性として、鎌倉時代は男子のみを子息として見ていて、女の子は子どもとしては見ていなかったのでしょうか。
確かにそれなら辻褄は合いそうですが、それならなぜ建治3年の『四条金吾殿御返事』で5年前に大病をした娘のことにここで全く言及していないのでしょうか。まして、もしもその娘が本当に亡くなっていたとしたら、日蓮ともあろう人が四条金吾の死んだ娘のことを心配しないことがあるとはとても思えません。
 
またこの『経王殿御返事』では「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」とされていますが、そもそも四条金吾夫妻が日蓮の真筆本尊を賜わるのは弘安3年2月1日のことです。妻の日眼女とともに本尊を頂いています。四条金吾夫妻に与えられたこれらの本尊は堺市妙國寺、文京区の長元寺にそれぞれ現存します。以下に画像も載せてみます。

 

 
『経王殿御返事』が書かれたとされる文永10年8月は佐渡始顕本尊が書かれた直後のことであり、この時、これらの本尊と別に本尊が夫妻に与えられたことは考えにくいことです(なぜ数年の間に2回以上も本尊を与えるのでしょうか)。またもしも佐渡で実際に四条金吾が本尊を日蓮から賜っていたとするなら、それが現在まで伝わっていないこともおかしな話です。
 
ここから考えるに、『経王殿御返事』という御書は、後世に作られた偽書の一つであると推論することが自然であると考えられます。
 
 
追加訂正(2022.9.14)
 
『経王殿御返事』は創価学会大石寺系信徒にとり、とても重要な御書とされてきました。
しかし冷静に見れば建治3年の『四条金吾殿御返事』の「とのには子なし」の一文から見て、偽書と考えるのが妥当と考えられます。
「とのには子なし」の「子」を、私は鎌倉時代においては「男子」のことでここでは「女子」は含まれないのではないかと書いてはみたのですが、その可能性は日蓮遺文からは低いのです。日蓮がきちんと「男子」と「女子」を同列に扱った遺文は存在しているのです。
それは『上野殿御返事』(大石寺に日興写本現存)でこの中で日蓮は以下のように書いています。
 
 
「内典五千余巻には子なき人を貧人といふ、女子一人・男子一人・たとへば天には日月のごとく・地には東西にかたどれり」
日蓮『上野殿御返事』創価学会旧版御書全集、1566ページ)

 
これを読むと、日蓮が「子なき人を貧人といふ」としながら「子」を呼ぶのにきちんと「男子」も「女子」もともに併記していまして、どちらも同様に「子」と考えられています。しかも同書は日興写本が大石寺に現存しています。
ここから考えても日蓮が「子なし」と書いた時、そこには「男子」も「女子」もともに含まれており、上述の建治3年の『四条金吾殿御返事』における「とのには子なし」と書かれた文は日蓮の用法から考えても「四条金吾殿には男子も女子もいない」という趣旨で「とのには子なし」と書いた可能性が高いと考えられます。したがってここから考えても建治3年の時点で四条金吾には子どもがいなかったということは明白であり、『経王殿御返事』はやはり偽書の可能性が高いのだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

本尊の前に法華経を置く奉安様式。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は日蓮の本尊の奉安様式についてです。
以前書いたブログ記事では、例えば日蓮御影を曼荼羅本尊の前に置いたり、日蓮日興御影を曼荼羅の左右に置いたりする形式を述べたりしました。
今回は法華経や経典を曼荼羅と併せて安置する様式についてです。
 
 
「本尊の奉安様式の不統一」
 
 
大石寺ではさまざまな本尊様式が統一されずに併存してきた歴史があります。
 
 
 
さて今回、最初に紹介したいのは大石寺9世日有の『有師化儀抄』から次の一節です。
 
 
「法花経をば一部読まざれども一部本尊の御前にもをき我カ前にも置くべきなり」
(日有『有師化儀抄』富士宗学要集1-65ページ)

 
 
ここで「一部」と書かれているのは「法華経一部八巻28品」のこと、つまり法華経全巻のことです。大石寺9世日有は『化儀抄』で「本尊の前に法華経を安置すべき」だということを述べているのです。つまり大石寺の本尊奉安の化儀には曼荼羅本尊の前に法華経自体を置く形式がかつて存在したことになります。
 
 
では宗祖である日蓮自身はどう考えていたのでしょう。例えば『唱法華題目抄』(日興写本現存)を見てみましょう。
 
「第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり」
日蓮『唱法華題目抄』創価学会旧版御書全集、12ページ)

 
この『唱法華題目抄』で日蓮は「法華経八巻〜一品」あるいは「題目を書いたもの」のどれかを本尊と定めるべきだと述べています。
次に『曾谷入道殿許御書』(真蹟現存、中山法華経寺)を見てみましょう。
 
「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」
日蓮『曾谷入道殿許御書』同1038ページ)

 
つまり法を広める時に一代の聖教を安置しておくことが日蓮によって記されています。
 
 
また以前に何度もこのブログで紹介している、日興の『宗祖御遷化記録』ですが、この末文では日蓮の遺言について触れられていまして、墓所に釈迦立像を置くことが書かれた後、「私集最要文」として『注法華経』が挙げられ、墓所寺に置いて花を供えるよう書かれています。

 
 
以上の日蓮や日興の記録から見ても、大石寺9世日有が『化儀抄』で述べたように本尊の前に法華経それ自体を安置する奉安様式は上古の時代に大石寺に存在しており、また日蓮や日興の言葉とも相違しないと考えられます。
それならなぜ現代において、曼荼羅本尊の前に法華経それ自体を安置する様式が伝えられていないのか、なぜ変わってしまったのかと言うことが問題になるでしょう。
ここから見ても、大石寺というところが開山以来変わらない教義を維持していると主張するのは、かなり無理がある主張かと思います。