気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

最蓮房宛ての日蓮遺文について。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会というところは、なぜか日蓮遺文の中で、最蓮房宛ての遺文をやたら好みます。日蓮正宗も同様でなぜか最蓮房宛ての御書を信徒に学ばせることが多いです。
最蓮房宛てと言われる遺文を一覧で挙げてみましょう。


生死一大事血脈抄』(文永9年2月11日)
『草木成仏口決』(文永9年2月20日
『最蓮房御返事』(文永9年4月13日)
『得受職人功徳法門抄』(文永9年4月15日)
『祈禱経送状』(文永10年1月28日)
『諸法実相抄』(文永10年5月17日)
『当体義抄』(文永10年)
『当体義抄送状』(文永10年)
『立正観抄』(文永11年)
『授職灌頂口伝抄』(文永11年2月)
『立正観抄送状』(文永12年2月28日)
『当体蓮華抄』(弘安3年8月1日)
『十八円満抄』(弘安3年11月3日)


以上13編が、最蓮房宛ての日蓮遺文として知られています。多くが創価学会大石寺法華講信徒さんによく知られた遺文なのではないでしょうか。
ところで、非常に奇妙なことなのですが、この13編全て、日蓮真蹟が存在しません。また上古の写本が遺るのはわずかに『立正観抄』と『立正観抄送状』に久遠寺3世日進写本、『祈禱経送状』に朗門の日像抄写本が存在するのみなのです。



つまり写本も真蹟もほとんど存在しないのに、なぜか創価学会大石寺も、これらを御書に収録しています。
基準があるなら示せばいいのに、基準を示していないのです。



「写本も真蹟も存在しないが、信行に資するところがあるから収録したのだ」とする考えもあるでしょう。それならそう凡例に書いて底本を示せば良いだけのことです。
もしそうだとするなら、ではなぜ『得受職人功徳法門抄』と『当体蓮華抄』は創価学会版御書にも新版御書にも収録されていないのでしょうか。最蓮房宛て遺文のうち、『得受職人功徳法門抄』『当体蓮華抄』『授職灌頂口伝抄』が収録されない理由が何なのか、さっぱりわからないのです。以下の画像は昭和新修・平楽寺版の遺文全集に載る『得受職人功徳法門抄』の当該ページ画像です。

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論点を整理します。
『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』『当体義抄』『十八円満抄』には、日蓮真蹟が全く残されていません。また写本も存在しません。しかしこれらの諸抄は創価学会版御書に収録されています。にも関わらず、これらの底本をどこから引っ張ってきたのかの記載がありません。
そして真蹟も写本も存在しない最蓮房宛てのこれらの遺文を御書に収録しているのに、なぜか同じように最蓮房宛てとされる『得受職人功徳法門抄』『当体蓮華抄』『授職灌頂口伝抄』は収録されていません。その理由も説明されていません。特に偽撰の疑いが強いとされる『十八円満抄』の後半には「当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等前前に書き進らせしが如く」(創価学会版御書1367ページ)と書かれています。もしも『十八円満抄』を御書に収録するという方針ならば、併せて『当体蓮華抄』も収録しなければ辻褄が合わないことになります。

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参考文献
中條暁秀「最蓮房宛て御書の一考察」『印度学仏教学研究』57号所収、1980年
末木文美士『増補 日蓮入門 現世を撃つ思想』ちくま学芸文庫、2010年






結局、冷酷で内弁慶な組織に過ぎなかったという事実。




いつもみなさん、ありがとうございます。





静かな年末年始を過ごしていたところ、街角でたまたま男子部時代の先輩の姿を見かけました。
私がまだ中等部や高等部時代から、未来部担当者として家庭訪問に来てくださり、私が大変にお世話になった先輩でした。彼とは男子部で再会し、活動に励んだメンバーで、区圏幹部から分県幹部にまでなって活躍していた筈です。



彼は私に気づいたのかもしれませんが、一言も私に声をかけませんでした。
彼と離れて随分経つので、もしかしたらその後、私が非活メンバーになったのも知らなかったのかもしれません。しかしながら彼の冷淡な態度を気配で感じ、声をかけるのは私も躊躇われました。



その時に改めて気づいたのですが、男子部で活躍していた、あの時代は幻のような儚いものだったのだということです。
「嵐にあっても動かない、確かな自分を作り上げろ」みたいな指導を御大・池田大作氏から聞いたことがありますが、結局その指導通りにやってきた、なれの果ては、非活メンバーなど歯牙にも掛けない、冷淡で冷酷な内弁慶な組織に過ぎなかったのだということでした。



ブログ記事を書く関係から、さまざまに古い文献や資料を見ることが多い私ですが、若い頃の池田大作氏は昔の写真を見る限り確かに溌剌としてカッコよかったのだろうなぁと思います。若い頃の石田次男氏も龍年光氏も秋谷栄之助氏も渡部一郎氏も、私の目にさえもキラキラ輝いて見えました。
けれど、それらはもはや通り過ぎてしまったのです。地域の相互扶助組織として、またセーフティーネットとして、歴史的な役割を担ってきた創価学会はその役割を静かに終えようとしています。後に遺されたのは、教団の精神的な残滓、改竄された池田大作氏の神話、そして礼拝所として各地に建てられた馬鹿でかい会館くらいです。



いつまでも永遠に続くものと信じて何かにしがみついていたいのは、人間の弱さなのでしょうけど、そのことに気づいて去っていくことが大切だと私は気付きました。それに気づかない人たちが池田大作神話を信じてグループを立ち上げたり、偽善教義だらけの大石寺に行ってみたり、正統派争いを繰り広げて彷徨の人生を歩むことになるのです。











戦争に勝ちたかった戸田城聖と牧口常三郎。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日のブログ記事で、池田大作氏の入信経緯について書きましたが、同書の小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』には、池田大作氏だけでなく、戸田城聖氏の発言も掲載されています。
戸田氏はこの中で「戦争に勝ちたかった」という発言をしています。

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「一般信者ともいうべき学会会員の教員たちは、【昭和】一七年の【機関誌】発禁以来やめる者が出はじめ、敗戦への傾斜と共に、事実上この学会は解散に近い状態に置かれていた。戸田氏は獄中にあって感じたことを次のようにいっている。
『戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。教線が延びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会への弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。』」
(小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』35〜36ページ、河出書房、1956年)
※【 】内補筆はブログ筆者による。


これを読めば明らかなように、牧口常三郎氏も戸田城聖氏も、当時から戦争に勝ちたいと念願しており、両者ともに反戦平和主義者でも何でもなかったことは、ここからも明らかであると思います。




「通牒のこと」

「国運隆昌の祈念」






池田大作氏の入信経緯の偽装。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は、池田大作氏の入信について改めて書いてみます。
池田大作氏が入信したのは、昭和22年(1947年)8月24日のことです。
この辺の事情については、以前に既にブログ記事にしているのですが、今回は資料や文献の画像も少し載せて、明確にしておきたいと思います。以前の記事はこちらです。


「池田青年の入信の事実」


さて、文献から確認できるのは、池田大作氏が最後まで入信を拒んで、御本尊を受けようとしなかった姿勢です。
創価学会の公式見解では昭和22年8月14日に戸田城聖氏に池田氏は会ったことになっていますが、その10日後の入信(御授戒)の日には、最後まで本尊を貰うことを拒んでいるのです。


以下の画像は、溝口敦『池田大作「権力者」の構造』(講談社+α文庫、2005年)60ページの部分で、ここでは当時の我孫子支部の参与であった瀬尾正吉氏が、中野の歓喜寮での池田大作の御授戒について、後の大石寺65世堀米日淳氏の発言をきちんと証言しています。

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堀米日淳師からよく聞かされたものだが、池田の御授戒は日淳師が住職をしていた中野の歓喜寮でだったんですね。池田は小平(注:小平芳平氏)に連れられて来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊を受けるのはどうしても嫌だという。日淳師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうです。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』60ページ、講談社+α文庫、2005年)



なお創価学会側が公式に溝口敦氏の同著作に対して異議を申し立てたり、裁判を起こした事実は存在しません。つまり創価学会は上記記述を事実上"黙認"していることになります。


さて次は小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』(河出書房、1956年)から、池田大作氏のインタビュー記事を載せたいと思います(同57〜59ページ)。ここには「創価学会 E(男)」と書かれているのみですが、記述中に「生まれは大森のノリ屋」「三歳くらいの時に蒲田に移り」「青年部の部長をしている」「大倉商事【大蔵商事】(金融会社)に勤務中」「教団内にも著名な人」「青年期まで病気ばかりしていた人」「戸田さんの出版に小僧から入った」こと等が書かれていますので、池田大作氏本人へのインタビューであることは疑い得ないと思います。

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「話しぶりも、人柄から受ける感じも強い信念にもえているような感じがみられる。青年期まで病気ばかりしていた人とはとうてい思えない。折伏のときには強い戦士として教団内にも著名な人であり、青年部の部長をしている。現在大倉商事(金融会社)に勤務中。
「生まれは大森のノリ屋です。三歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性(コウモンネンパクビラン)のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰が出てたんです。終戦の反動でなにかやりたいという気持があって、学校時代の友人に誘われて創価学会の本部へいきました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と二人で行ったのですが、三、四〇人もいたでしょうか。五時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。そのときの話しというのはこうなんです。『これから先のこと、二十年先のことがわかるか。これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるが、それならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らないではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ』というのです。
私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部がなだめて、むりやり私に押しつけました。
家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかりを狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校を出て蒲田に勤めて出張していたときのことです。それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。二年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるようになりました。三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくて仕方がなかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。一四、五人の研究会の仲間からもやられました。そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい、という願いをして御題目を六〇万遍唱えることにしました。逃れなければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうと言われています。信仰していなかったら貧乏で病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。」」
小口偉一編『新心理学講座4  宗教と信仰の心理学』57〜59ページ、河出書房、1956年)




上記記事を読めばわかりますが、入信の際に御本尊を当初は受けるのを池田大作氏が嫌がっていたことがわかります。また上記インタビュー中では、入信の際に戸田城聖の名前が全く出てきません。戸田の名前は入信後「三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入った」で初めて出てきます。ここからもわかるように、8月14日の時点でも24日の時点でも池田大作氏が戸田城聖氏と会っていた事実は立証できないと思います。もしこの前後に池田氏戸田城聖と会っていたのであれば、そのことがこの入信のエピソード中に出てくる筈です。
またこのインタビューは、昭和22年8月24日の時点で、池田大作氏は入信の意図を固めたとは言い難かったこと、前述の瀬尾正吉氏の発言とも矛盾していないこともわかります。


しかし、私は池田大作氏のこの入信の経緯を知っても、さほど不自然なこととは思いません。むしろ池田大作氏も若い頃に悩みながら信仰活動に取り組んだのであり、非常に人間的で素朴な信仰をしていたことがわかって、返って好感が持てます。
私が批判されるべきだと考えるのは、このような素朴な池田氏の信仰観自体ではなく、むしろ戸田城聖氏から禅譲があったかのように入信の経緯を「偽装」し、入信神話を創作したことであり、そのような偽装の入信過程の虚像を頑なに守ろうとする後の池田大作氏や教団、またそれらを頑なに信じ込んで実像を受け入れようとしない、大石寺系教団らしい原理主義的信徒のドグマチックな姿勢の方なのです。







戸田城聖が出版したかったのは富士宗学全集だった。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、このブログでは大石寺59世の堀日亨氏の『富士宗学要集』を資料として採り上げています。
『富士宗学要集』全10巻は、元々『富士宗学全集』全134巻の毛筆本が基礎になっていまして、堀日亨はこの『全集』から富士日興門流の特に重要と思われる文献を採り上げて『要集』を発刊しました。
ではこの『富士宗学全集』134巻を、現在読むことはできないのでしょうか。


結論から言うとできません。『富士宗学要集』第10巻の跋文によれば、毛筆本は全部で3本あったようですが、うち一つは戦災で失われ、一つは創価学会に、一つは大石寺にあるようです。大石寺富士学林の教学研究書には、ほぼ同内容が収録されていますが、富士学林は僧侶専用の教育機関ですから、一般の目には触れることができません。



ところで、創価学会戸田城聖氏が、『富士宗学要集』に続き、『富士宗学全集』を発刊したいと述べていたことがあるようです。
昭和32年11月に堀日亨氏が亡くなり、『大白蓮華』では、追悼特集として座談会が掲載されました。今回はその複写を史料として入手しましたので、その中から紹介したいと思います。複写なので、大白蓮華の具体的な号数が不明なのですが、昭和32年12月以降の『大白蓮華』かと推測されます。追悼座談会の参加者は小泉隆、原島宏治柏原ヤス辻武寿石田次男、小平芳平、池田大作龍年光、司会は多田省吾です。

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「小平  宗学全集は全部で、一三四巻、宗学要集の三〜四倍ですよ。一三四巻を宗学要集と同じ形にすると、三十冊か四十冊くらいになると思います。
池田  この宗学全集のことにつきましてちょうど二年くらい前に、吉川英治の新平家物語が出ましたね。あのとき、吉川英治の著書が、出版としては立派だという話が出ましてね。『同じ出版でも、あれほどになれば大したものですね』といつたら、先生が、『あんなのはダメだ。オレがほんとうに出版したいと思うのは、ただ一つ、堀猊下の富士宗学全集だ。これ以上の物はない』とおつしやつたのです。
小平  宗学全集を出すときに、いずれいろいろ、編さん委員会やなんかできてやるようになると思いますけれど、そのときに、大白蓮華の日興上人詳伝なども入れたいと思うのですけどね。」
(『大白蓮華』所収、追悼座談会「ありし日の堀日亨上人」より)




池田大作氏(当時は参謀室長)が「先生」の発言として「本当に出版したいと思うのは、ただ一つ、堀猊下の富士宗学全集だ」と述べていたことを紹介しています。
とすれば、創価学会は、池田大作氏の遺した言葉をもとに、すぐにでも堀日亨氏の『富士宗学全集』の発刊に着手すべきなのではないでしょうか。
それにも関わらず『富士宗学要集』でさえ既に絶版になり、かつての教学研究の姿勢をうやむやにしてしまったところに、現在の創価学会大石寺系教団の凋落の遠因があるように、私には思えてなりません。





















三代会長に匹敵する指導者は今後もう出ないという認識。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会は、2017年11月18日から施行された「創価学会会憲」において、牧口常三郎戸田城聖池田大作の三代会長を「永遠の師匠」としています。
教義的に破綻している元鞘の大石寺から離れたかったのかと思いますが、結果として三代会長までを権威化することになりました。

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まあ、教団が何のどこを根本にしようが、教団の勝手なんですけど、私が疑問に思うのは、三代会長までを「永遠の師匠」と決めてしまったので、今後、会の新しい指導者となるべき未来の会長の芽を会自らが摘んでしまった点です。



教団は人間が運営するもので、人間は不死の存在ではありません。いずれ運営する人間が入れ替わるのは避けられないのです。
池田大作氏は、公式に会長になる前から、蒲田の二月闘争や大阪の闘いなど、青年時代の華々しい活躍がクローズアップされてきました。



今後、そういう人材が出てくる可能性はもはやないと考え、三代会長までで「永遠の師匠」を打ち止めとするというのは、如何なものかと私は思います。新しい人材の華々しい登場によって、会が劇的に生まれ変わり、飛躍する可能性はもはやないのでしょうか。大石寺にも「中興の祖」があったように、歴史的に盛り返す、そういう指導者はもはや出ないのでしょうか。
創価学会員が毎日拝んでいる本尊は、大石寺の26代目の管長の日寛書写本尊です。
たかだか第6代会長までしか出てきていない、教団の歴史で、今後、三代会長たちに匹敵するような未来の指導者は「もう出ない」ということで、本当によいのでしょうか。



「それでよいのだ、私たちは永遠に三代会長を師匠とするのだ」ということなのであれば、私は教団が既に未来の可能性を自ら閉ざしてしまったように思えてなりません。



















日興が遺した写本に富士門流系の相伝書は一つも存在しない。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて2021年11月18日に創価学会日蓮の『御書全集新版』を発刊しました。
この中で、真蹟不存のため信用性の低い文献として扱われる『御義口伝』『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』『二箇相承』等、富士門流系の相伝書は、相変わらず収録されたままです。


大石寺写本『御義口伝』の改竄」

「『本因妙抄』本文の改竄」

「『百六箇抄』の問題点①経巻相承」

「『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想」

「『百六箇抄の問題点③史実との不整合」



上記記事どれを読んでも、いかに『御義口伝』『本因妙抄』『百六箇抄』等、富士門流系の相伝書の信用性が低いかわかるかと思います。



ところで、大石寺開山は白蓮阿闍梨日興ですが、彼は日蓮遺文の写本を非常にたくさん遺しています。それらは師の教えに厳格であった日興の使命感に基づくものと考えられます。
ではその日興本人の写本に『御義口伝』や『百六箇抄』等の相伝書の写本が一つでもあるのでしょうか。
答えは全く存在していません。



『日興上人全集』(興風談所、平成8年)から、日興本人による日蓮遺文の写本全ての目録を全て載せてみます。どこにも『御義口伝』『百六箇抄』『本因妙抄』『二箇相承』の写本は存在しません。一つも存在していないのです。

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師匠の教えを守ることに厳格だった日興は、日蓮の真蹟本尊に倣って曼荼羅を書写し、遺文の写本を多く遺しました。
それにも関わらず、なぜ『御義口伝』や『百六箇抄』『二箇相承』等の重要な相伝書、後世に伝えなければならない筈の相承書の写本が日興筆で一つも遺されていないのでしょう。
つまり日興在世中には、これらの相伝書が存在せず、日興没後に偽作された可能性が高いことを雄弁に物語っていると思います。