『百六箇抄』における問題点は山ほどあります。その一つが女性への差別思想、すなわち男尊女卑の考えが見られるという点です。
「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり」
(創価学会版御書全集、862ページ)
非常に明確に女性を差別しています(笑)。
これ以上の説明は不要でしょう。
日蓮自身にそのような考えがあったのか、あったとすればそれは大いに問題にすべきであって、そこを見て見ぬふりをするのはいかがなものかと思うんですね。
例えば池田名誉会長の『百六箇抄講義』でもこの部分への言及がありますけど、非常に歯切れが悪い(笑)。
これは日蓮の本来の思想ではないと言いたいかのようです。打ち消しに躍起なのでしょう。
それから提婆達多品における竜女の成仏は、女性そのままの姿で成仏していません。経文に「変成男子」とあるようにわざわざ男性に変身して成仏しています。サンスクリット原典では竜女に実際に"男性器が生えて"成仏するという露骨な表現が取られています。ですからそもそも法華経に具体的に一切衆生即身成仏の原理が説かれているとは言いがたいのです。
それとも何ですか。創価学会の副会長はみんな男性であり、地区部長も支部長もみんな男性で、日本の青年部長もみんな男性であり、役職上の男女差別が見られるのは、この『百六箇抄』のこの部分を依拠とするゆえなんですかね?(笑)
それならSGIで女性の青年部長が存在するのは、この『百六箇抄』の精神に"違背する"のではありませんか?(笑)
何せ「男は本、女は迹」と書いてあるんですから。
日蓮正宗も創価学会も、この『百六箇抄』における「男は本、女は迹」という思想が内実としてどのようなことなのか、具体的に説明する責任があると思います。少なくとも両者は『百六箇抄』を真蹟とする立場なのですからね。
追記:
ちなみに空海の『秘密曼荼羅十住心論』では8番目の「一道無為心」(天台宗・法華経)よりも9番目の「極無自性心」(華厳経)を上位としていますが、空海は10番目の真言密教の立場からそれらを否定しているのではありません。むしろ法華経や華厳経を通じて悟りの境地に導かれていく心の多層的なあり方を説いているんですね。