気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日有『連陽房雑雑聞書』での讃文について。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて日蓮正宗大石寺系教団の本尊の左右両肩には讃文として「有供養者福十号」「若悩乱者頭七分」が書かれるのですが、古来、大石寺法主では開山の日興、6世日時らは「讃者積福於安明」と「謗者開罪於無間」も加えて書くことがありました。


『「讃者積福於安明」と「謗者開罪於無間」』


これは、確認した限り、開山日興と大石寺第6世日時以降、本尊の左右にはほとんど書かれなくなっていきます。
ところで、大石寺9世日有の『連陽房雑雑聞書』には、以下のような記述が見られます。



「仰ニ云ク、御本尊ノ事、諸家ニハ本尊等ノ諸讃ヲ書ニ自己ノ智慧ヲ以テス、当宗ハ然ラズ。御本尊ノ讃ニ妙楽大師ノ御釈ヲ上代ヨリ遊シタル也。其レト者若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号・讃者積福安明・謗者開罪無間ノ釈也。」
(日有『連陽房雑雑聞書』日蓮正宗歴代法主全書1-376ページ)

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要約すると、

「他宗派は本尊の讃文を書くのに自分たちの知恵だけで書くが、大石寺はそうではない。妙楽大師の釈文を上古より書いているのである。それこそが『若悩乱者頭破七分』『有供養者福過十号』『讃者積福安明』『謗者開罪無間』の釈文である。」

となります。


しかしながら、日有がそこまで書いているのに、現在の日蓮正宗の本尊には「讃者積福安明」「謗者開罪無間」は書かれていません。
しかもそう言っている日有本人の本尊画像を数体確認したのですが、少なくとも私の見た範囲内では日有本人も本尊に「讃者積福安明」「謗者開罪無間」は書いていません。
なお、この『連陽房雑雑聞書』は、大石寺の正文書であり、31世日因の写本が大石寺に現存しています。

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こう言うところから考えても、大石寺に古来から何か正統の教義が伝わっていたというのは考えにくく、恐らく日有以降に教義を継ぎ接ぎして作ってきたものに過ぎないと考えられます。














思想信条の自由、そして原理主義的態度のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて心ある読者の方々には多く、ご理解頂けていることなのですが、私は思想・信条の相違については認めています。自分の思想と違うからそれらを認めないということはしません。なぜなら思想・信条の自由は日本国憲法で保障された自由だからです。
何を信じても自由です。意見の相違も自由なのです。
ですから、私の友人たちには創価学会信徒の方も信濃町関連の幹部の方もいます。日蓮正宗の信徒の方もいますし、僧籍にある方も友人として付き合っています。



私がこのブログやTwitterで批判しているのは、思想上の相違ではなく、史料や文献の示す客観的な史実を頑なに認めようとしない「原理主義的な態度」の方なのです。
ですから、私の友人たちは、私のブログを読んで「確かに気楽さんの示す史料はまちがっていませんね」ときちんと史実を認めます。その上で「私はもう少しだけ池田先生を信じてみたいんだ」と言う人も中にはいますし、「僕はやっぱり大石寺の本尊から離れるのが怖いんだよね」と言う方もいます。史実を認めた上でそう仰るなら、私が申すことは何もありません。それは全て自由です。その方たちと私は今でも時々話をします。



私が批判するのは、史料や文献が示す客観的な史実に対して、大した検証もせず、全く読みもせずに「お前の言っていることはデタラメだ!」と居丈高に命令口調で罵声を浴びせてくる、原理主義者としての創価大石寺系信徒たちの態度の方なのです。
そしてそのような原理主義的な態度をもつ信徒さんたちが存在することに、心ある信徒たちは辟易しています。私のところに届く声をあげれば「なんでそんな偉そうなんだ」「誠実さがない」「罵声を浴びせるのが正義なのか」「対話と言いながら話を聞く姿勢がない」「とにかく口が悪すぎる」「こんな人たちがいるから創価学会が悪く言われるんだ」「信濃町はこんな信徒を野放しにしておいていいのか」……そんな感じです。



思想や信条は別として、きちんと文献や史料を読むこと、そしてそれらが導く客観的な史実に関しては自分で考えて受け入れ、そして他者との対話の中で結論を出すこと。普通の人たちなら誰もがやられていることだと思います。真実と思っていたものが思い込みだったなんてのはよくあることですから、他者との対話の中で自己の前提を顧みることは決して益なきこととは言えないでしょう。
そのような対話の誠実さが失われ、今まで信じ込んできたものが否定されると狂ったように罵声を浴びせることしかできない、創価大石寺系の狂信者たちは、教団内部からも冷ややかに見られていることを自覚された方がよいように思います。




追記
最近の法華講妙観講の活動ぶりには、かつての日蓮正宗信徒の旧伝統講の方たちは「なんで昔の日蓮正宗と違うことやっているんだろうね」と冷ややかな態度で見られています。伝統講の方から見れば、今の法華講の信仰姿勢は創価学会の受け売り、二番煎じにしか見えないのですから。


「昭和期の創価学会の影響下の大石寺















指導者に委託される権限と指導者の条件。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会の現在の会則の第3条では、牧口常三郎戸田城聖池田大作の三代の会長は「永遠の師匠」という扱いになっています。

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ところで、かつて池田大作氏は、アーノルド・トインビーとの対談中で、民主主義体制における指導者に委託される権限については期限付きでなければならないことを述べていました。


「それはともかく、私は民主主義体制にあって指導者に委託される権限には、必ず期限がなければならないと考えます。その期限を終えれば、その間の功罪について民衆の審判が下されます。そして、それによって再任されるか、退陣して他の人と交代するかどうかが決定されるわけです。」
(A・トインビー/池田大作『二十一世紀への対話』(3)、123ページ、聖教文庫版、1980年)

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また次のようにも池田大作氏は述べています。


「指導者は、民衆に迎合するために自己を欺いてもなりませんし、自己の信念を通すために民衆を欺いてもなりません。どこまでも、真実と誠実とを根本としていかなければならないわけです。」
(同125ページ)

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まず民主主義体制における指導者に委託される権限は期限付きでなければならないとすると、三代会長を「永遠の師匠」とすることは個人的にやや無理があるように思えます。
確かに「師匠」というのは単に尊敬を表す敬称に過ぎませんから、三代会長になんらかの無期限の権限を委託させることとは違うでしょう。
しかしながら「その間の功罪について民衆の審判が下された」際には、池田大作氏の先の引用の言葉に従うなら、たとえ三代会長であれ、批判され得る対象とならなければならない筈だと私個人は思います。



また創価学会の会長の任期は4年ですが、これが再任される場合、それを決定する会長選出委員会や総務会、また最高指導会議等の場は、果たして本当に「その功罪について民衆の審判が下された」結果の「再任」と呼べるのでしょうか。全ての会員が皆、果たしてそう思って再任を認めているのでしょうか。

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また池田大作氏の入信経緯の偽装は、果たして池田氏自身が述べた「指導者は民衆に迎合するために自己を欺いてもならないし、自己の信念を通すために民衆を欺いてもならない」「どこまでも、真実と誠実とを根本としていかなければならない」という言葉に正しく則っているのでしょうか。


池田大作氏の入信経緯の偽装」















自身の無知を誇示する傾向。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はTwitterアカウントも持っているのですが(詳しくはプロフィールをご覧ください)、Twitter上で最近、創価学会原理主義的な信徒さんから絡まれることが時々あります。
私などは悪く言われることに慣れてしまっているので、既に退会者である私は放っておいて、外野で言われることは全く気にしていません。
そもそももう退会しているので関係がないからです。個人的には関わらないでほしいだけです。



それなのに、やたら絡んで私に直接罵声を浴びせずには気が済まない方がおられることは、正直苦笑いを隠せないのですが、なぜかそういう方に限って、重要な文献を読んでいなかったり、基礎的な素養に欠けていたりします。それでいて上から目線で「お前はなあ」とか「そんなことはどうでもいい」とか、命令口調で話し出すんですね。


これらのTwitter上のやりとりをご覧になられた、仮面活動家の方から連絡がありました。以下のような文面です。



「お疲れ様です。
Twitter上で気楽さんと絡んでいる)◯◯◯◯さん、恐らく最近男子部を卒業した方かと思いました。Tweetの内容が最近の幹部に近い感覚です。最近の幹部は無知であることを誇示する傾向があります。
仏教の知識がなくても、法華経を読まなくても、御書を知らなくても、人間革命さえ一度読んで感動すれば良い、組織の言う通り活動していれば、釈尊舎利弗より自分は賢いと本気で思っています。ですから、大学教授や博士号を持つ人さえ下に観ます。自分を『地涌の菩薩』『創価学会仏』だと信じてしまった人は、手遅れです。」



これを読んで驚いたことは、こういう狂信的な大石寺系信徒がTwitterだけにいるのかと思ったら、実は最近の創価学会幹部の傾向であるようです。
学ぶことを知らず、日蓮遺文も読まず、ふんぞり返って「我賢し」と思っているのが、現在の創価学会幹部の傾向のようです。













池田大作の生命尊厳の思想は法華経薬王品と矛盾する。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、先日の記事では法華経薬王品から、自身の身を犠牲にして法華経に供養する姿勢が説かれたことを書きました。


「身を供養することが説かれる法華経薬王品」


これを見てわかる通り、法華経は我が身を犠牲にして供養することが最大の布施であると説かれていまして、生命至上主義の経典とはとても思えません。



ところが創価学会は、生命至上主義をやたら主張しているんですね。その意味でもこの薬王品とは矛盾します。
例えば池田大作氏は、アーノルド・トインビー氏との対談で次のように述べている筈です。



「また、焼身自殺をしたベトナム僧の場合を考えてみますと、自殺による抗議という政治的動機があったとはいえ、思想的背景としては、彼らの実践する南伝仏教のなかに、肉体を不浄なものとする見方があったといえるでしょう。
北伝仏教では、あらゆる人間の生命は尊極なる至宝--すなわち、仏界あるいは仏性--を内包した宝器であると説いています。生命は、いかなる等価物ももたないという意味でも尊厳ですが、そればかりではありません。生命には仏界が潜在しているがゆえに尊厳なのです。」
(A・トインビー/池田大作『二十一世紀への対話』(2)より、186ページ、聖教文庫版、1980年)

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「……仏教には、安楽死を正当化する根拠は何もありません。また、自殺についても、生命は宝器であるという理由から、認めることはできません。」
(同187ページ)

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A・トインビー氏はここでアメリカ軍占領下の南ベトナムで、政治的背景から抗議の意味の焼身自殺したベトナム僧の例を取り上げ、独裁的不当な支配に抵抗し戦ったことを提示します。それに対し、池田大作氏は「生命が宝器である」との理由からそれらは許されないものして考え、またベトナム僧たちの焼身自殺という行為は、南伝仏教に肉体を不浄とする思想的背景があったのではないかという見解を述べています。



これらの池田大作氏の見解は、法華経薬王品の「我が身を犠牲にして法華経に供養する」という考えと相違していることは、一読して明らかなのではないでしょうか。




追記
なお、トインビー対談の第1部第5章10の「自殺と安楽死」の章節の部分は、対談中、池田大作氏とトインビーとで意見が相違することで有名な部分でもあります。一読すると興味深いかもしれません。















正法護持のための軍事武装。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、このブログでは何度となく指摘させて頂いていますが、日蓮や日興における「折伏」の用例には、現在使われているような「布教」の意味はほとんどなく、どちらかというと「神仏や為政者による他宗派への弾圧・処罰」という意味で使われていることがわかります。






日興の『玄義集要文』では「折伏」が四悉檀の対治悉檀に配され、文武の「武」すなわち他宗派弾圧のための武力行使の意味で用いられていることが確認できます。
さて今回は、日興の同著作『玄義集要文』の末尾の一文を紹介したいと思います。
末尾には次のように書かれています。


「ねはんきやうにハ、まさにそのくひをきるへしといふ。これらのもんハならひにこれはほふのひとをしやくふくすへし。一さいきやうろんハこの二をいてす。一さいしやうきやうハこの四(ししち)をいてす。」
(日興『玄義集要文』、日興上人全集92ページ)

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簡単に通解すると

「涅槃経には『まさにその首を切るべし』と言う。これらの文は破法の人を折伏すべしと言うことである。」


つまり涅槃経における「首を切る」ことが「折伏」であると説かれていることになります。これは『玄義集要文』の前段で「折伏」を「武」に配する意味とちょうど対応します。
少し前には涅槃経における有徳王と覚徳比丘の故事が挙げられ、正法を護持する者は武器をもって正法の比丘を守るべきであることが書かれています。


「せんなんし、しやうほふをこちせんものは五かいをうけされ。ゐきをしゆうせされ。刀剣・きうせん・むさくをたもつて、しやうほふの比丘をまほるへし。これをなつけてちかいとす。」
(同91ページ)

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ここの「刀剣」とは刀や剣のこと、「きうせん」とは弓箭つまり弓矢のこと、「むさく」とは鉾等の武器のことです。
このように日蓮や日興の思想には、武力による他宗派弾圧が為政者や神仏によって許されるという考えがあり、また正法護持のためには涅槃経の有徳王の故事にあるように、刀剣や弓箭等による軍事武装武力行使も辞さないという考えがあることがわかるでしょう。















不軽菩薩の精神から見れば。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて非活から退会を選び、あらゆる大石寺系教団から離れた私ですが、相変わらず創価学会日蓮正宗の一部の信徒さんからは文字通り「罵詈雑言」を浴びせられることが多いです。
一部紹介すると「バカ」「アホ」「人格障害」「次元が低い」「地獄に堕ちろや」「嘘つき」「天魔」「精神に障害がある」等々、ここに載せるのも憚られるほど酷いものばかりです。


まあ、別に私はそれらの教団から離れているので、外野でやいのやいの言っている分には傍観しています。彼らの文脈の中で、彼らの世界で楽しく過ごしてもらえばいいだけのことで、私を巻き込んでほしくないだけですから。



まあ、なんでもいいんですけど、創価学会大石寺の信徒さんって、法華経の常不軽菩薩品第20を読んだことがないんでしょうか?



常不軽菩薩品第20に何が書いてあるのかなんて、日蓮系信者ならもはや常識かと思うんですが、簡単にかいつまんで書いてみましょう。



威音王仏の時代に生まれた常不軽菩薩は、一切衆生に仏性があるとして、出会う人全てに礼拝をし、決して軽んじることがありませんでした。その時に唱えた言葉がいわゆる「二十四文字の法華経」と言われています。


「我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」

「我れ深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず、所以はいかん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」

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このために、不軽菩薩は他の人たちから愚弄され、侮蔑され、木や杖で殴られ、石や瓦をぶつけられたと言われています。これらの難を「杖木瓦石の難」といいます。
法華経によれば、不軽菩薩を侮蔑した人たちは死後に阿鼻地獄に堕ちますが、その後、長い時間の後、再び仏に巡り会うことができたことが説かれています。



とすればですよ。
不軽菩薩の精神から考えれば、法華経を依処とする信徒は、あらゆる人の仏性を信じて礼拝を続けた不軽菩薩の精神を受け継ぐべきかと思います。
それなのに、なぜ創価学会日蓮正宗の信徒は、退会者を侮蔑して憚らず、挙げ句の果ては「地獄に堕ちろ」とか「バカ」とか人格否定までするのでしょう?
それが法華経に説かれた不軽菩薩の振舞いと合致するのでしょうか。
自分たちでやっていることと、法華経に説かれていることが違っているのに、そのことになぜ自覚もできないのでしょう。



私は既に創価学会を退会しました。日蓮正宗からも離れました。ですから関係はありません。
けれど思想・信条は自由ですから、外野でやいのやいの言いたいことを言うのは別に自由だと思っています。
私が理解できないのは、関係ない一般の私を巻き込んで人格否定までして、他者を侮蔑して憚らない精神性の方なのです。それは不軽菩薩の精神にも反する行為だと私は思います。