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『百六箇抄』奥書に見る「出世の本懐」




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、先日は日蓮の「出世の本懐」について、日蓮門下の日興の『原殿御返事』によるなら、「出世の本懐」は「南無妙法蓮華経の教主釈尊如来の画像」と述べられていることを記事に書きました。意外とこの記事は反響が大きかったようです。


日蓮出世の本懐は『南無妙法蓮華経の教主釈尊如来の画像』である」


日興は、どこにも戒壇本尊が「出世の本懐」などとは書いていません。
この文献は真蹟不存ながら京都要法寺日辰の古写本が知られ、日辰の『祖師伝』にも全文が引用されています。また身延山11世の行学日朝の『立像等事』にも抄録が知られ、中山久成日親の『伝燈抄』にも引用があることで知られています。
また『原殿御返事』や『美作房御返事』は、日興の身延離山の史料として、ほぼ唯一の貴重な史料になっています。これらを否定するならそもそも日興の身延離山の歴史を根底から否定することと同義です。


さて前置きが長くなりましたが、今回は『百六箇抄』奥書から「出世の本懐」を考えてみたいと思います。
『百六箇抄』は後世の偽書説が濃厚です。引用する部分は『富士宗学要集』第1巻の画像です。ここでは文章に全て二重線が引かれていますが、これは堀日亨氏の注によるなら、後世の加筆部で特に疑義が持たれている部分です。

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「右件の口決の血脈は聖人出世の本懐衆生成仏の直路なり、上人御入滅程無く聖言朽ちず符号せり、恐る可し一致の行者悪む可し師子身中の虫なり、建治三年壬八月十五日聖人曰く日蓮が申しつる事ども世間出世間共に芥爾計りも違せば日蓮法華経の行者に非ずと思ふ可し云云、未来世には弥よ聖言符号すべしと之を覚知せよ貴し貴し云云、設ひ付弟たりと雖も新弘通所建立の義無くんば付属を堅く禁じ給ふ者なり、然る間・玉野太夫法印は王城の開山日目弘通の尊高なり、花洛並に所々に上行院建立有り云云、仍て之を授与するのみ。
正和元年壬子十月十三日  日興日尊に之を示す。」
(『百六箇抄』奥書、富士宗学要集1-24ページ)


この引用部の冒頭で「口決の血脈」が「聖人出世の本懐」であり「衆生成仏の直路」とされています。ここでは口伝の血脈が「出世の本懐」とされているんですね。
ところが日蓮自身は遺文中で、伝教最澄の言葉を繰り返し引用して「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」と、口伝を否定しています。具体的に創価学会版御書全集から述べれば『開目抄』(219ページ)、『撰時抄』(282ページ)、『聖愚問答抄』(482ページ)、『立正観抄』(528ページ)と何度も口伝は否定されています。このことからも「口伝」を「出世の本懐」とする『百六箇抄』の信用性の低さがわかるかと思います。



加えてこの『百六箇抄』奥書、内容からも少しおかしなところがあります。それは「玉野太夫法印は王城の開山」としているところです。
玉野太夫とは、京都要法寺開山日尊のことです。日尊が京都の六角油小路に上行院を建立して、京都弘通の先鞭をつけたことをここで「王城の開山」と称されているのですが、この事実は日目の死後、建武3年頃と推定されていまして、末尾にある「正和元年」からは20年以上も後のことになります。
このことからも、大石寺59世の堀日亨氏は「正和の百六箇相伝の示書のごときは、まったく後人の偽作と見ても差しつかえがない」と述べています。つまり史実と内容が付合していないのです。


またこの奥書の末尾には「日興日尊に之を示す」とあります。これが正しいとするなら、日興から京都要法寺の日尊に血脈口伝が伝わったことが「聖人出世の本懐」となってしまいます。



「『百六箇抄』の問題点①経巻相承」

「『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想」

「『百六箇抄の問題点③史実との不整合」