いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、本日は『三大秘法抄』(『三大秘法稟承事』)について、思うことを書いてみたいと思います。
「戒壇とは王法仏法に冥じて仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」
(『三大秘法抄』創価学会版御書1022ページ)
広く知られているように『三大秘法抄』は真蹟不存の真偽未決です。なのでこれを過信するのは注意が必要なのですが、私が最近気になっているのは、ここにある「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」という言葉です。
有徳王と覚徳比丘とは、涅槃経に出てくる人物です。
その結果、衆生は出家僧侶たちにすがろうとしますが、仏がいない時代に慣れ、僧侶たちも私利私欲に走る姿が描かれます。
そんな時代を憂いていた有徳王、そして僧侶の堕落を嘆いて改革を訴える僧侶・覚徳比丘が現れます。
有徳王は覚徳比丘を支持し、後に覚徳比丘を殺害しようとする僧侶たちと武器を持って戦います。結果、敵の僧侶たちは倒され、覚徳比丘は守られますが、有徳王は身体に大小無数の傷を負い、命を落とすことになります。
……とまあ、そんな話なんですが、つまり武器を持って有徳王が他宗派の僧侶を悪として倒していく姿が現れた時こそが、ここでいう「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」ということになります。
真偽未決ながら、日蓮系の思想にはこのような国家による他宗派弾圧の思想が含まれているのですけど、今の私にはそんな考えは願い下げです。そのような考えは無効であるし、その意味で日蓮は批判されるべきだと思います。