気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

後世に池田思想が残るのか。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてそもそも私は創価学会の活動家でした。
活動家の時代は青年部でしたが、新聞の営業も布教活動も会合の結集も熱心にやっていたものです。


私が若い頃、池田名誉会長をどう評価するかということは切実な課題でした。
というのも、本部幹部会で見聞きする池田氏はとても庶民的でユーモアのある方なのですが、思想の内実がとてもあるとは思えませんでした。


加えて本部職員の方、第一庶務、国際部のメンバーから得た情報を総合して、相当程度、池田名誉会長のスピーチや著作が代筆されている実態を知りました。
いちおう御大の名誉のために申し添えておくと、池田氏自身がスピーチ原稿を書くことがないわけではありません。とりわけ2005年前後は自身で原稿を用意して書いていたことも聞いて知っています。
ただ書かれた原稿のどの部分をどのように使うかは、その時の雰囲気で即興的に話すことが多いため、聖教新聞の方や同時通訳の方はご苦労も多かったようです。



閑話休題、私は代筆の実態を知ってからは、旧来の『御義口伝講義』や『立正安国論講義』、また比較的新しい『法華経智慧』、またトインビー対談等の諸対談集の再構成、再解釈から池田思想を自身の中でどのように得心させるかをいつも考えて、膨大な原稿を書いていました。
それは活動家時代、自分が池田氏の思想を残して後世に伝える使命があると勝手に盲信していたためです(笑)。けれど当時としてはかなり真剣に書いていました。


広宣部のメンバーとして、私は顕正会妙観講対論の資料を独自に作成しながら、並行して池田思想を考える覚書をワープロでまとめていました。


しかしそのことを幹部に話しても、彼らはなんらその重要性を認識しませんでした。彼らは「その確信を今度は折伏の結果をもって師匠にお応えしていこうよ」という、わけのわからない論理のすり替えです。


私は布教活動もしつつ、池田思想をどう後世に残していくべきなのかも考えて書いていました。今からすれば幼稚な精神性にすぎませんが、本当にそんなことを考えていたんですね。


やがて私はそんな幹部たちに嫌気がさし、非活になります。父がかつてそうだったように。


私は書いていた資料のほとんどを処分しました。ただ『御義口伝』に関する覚書は捨てるに忍びなくワープロで打ち、ごく一部のみをファイリングしてありますが、いずれ処分することになろうかと思います。



私のブログを批判し、池田思想を後世の思想として残そうとする池田門下がいても構わないとは思いますが、現在の幹部たちはそんなことをやろうとは思っておらず、単に布教活動に挺身させたいだけのようですね。


「池田哲学とは何か」


池田氏の生命至上主義」


「池田と日寛」



戒壇本尊の創作時期。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログ中で、大石寺戒壇本尊が後世の単なる贋作に過ぎないことを何度か指摘しています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」


戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」


「『御本尊七箇相承』から考える」



ところで先日Twitterでも指摘しましたが、文明14年(1482年)に小泉久遠寺他と大石寺との問答を記録する『大石寺久遠寺問答事』では、両者の問答が「大石寺本尊堂」で行われたことが記録され残されています(富要9-53)。しかしここでは戒壇本尊について全く言及されていません。
ここから考えると、1482年までまだ戒壇本尊は存在しなかったと考えた方が推論として自然かと思います。


それが大石寺14世日主(在位1573〜1596)になって彼の『日興跡條々事示書』に突然今までの大石寺の歴史に出てこなかった「戒壇本尊」の文字がいきなり出てくることになります。


「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺狀ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付嘱分ナリ。大石寺者御本尊ヲ以テ遺狀被成候、是則別付嘱唯授一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、從興師正應御本尊法體御付嘱例者上行薩埵定結要付嘱大導師以意得如此御本尊處肝要ナリ。從久遠今日靈山神力結要上行所傳之御付嘱、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱全體不色替其儘ナリ。八通四通は惣付嘱歟、當寺一紙三ケ條之付嘱遺狀者文證壽量品儀ナリ、御本尊者久遠以來所未手懸付嘱也。」
(日主『日興跡條々事示書』日蓮正宗歴代法主全書第1巻、459ページ)


戒壇本尊が後世に最初に創作されたのはおそらく16世紀後半で、この大石寺14世日主の周辺によって行われたのだろうと私は考えています。



「日主の文書中の戒壇本尊」



『二箇相承』写本の誤字。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今日のテーマは『二箇相承』の写本についてです。



日蓮から日興への唯授一人の相承があったと主張する際によく大石寺が引き合いに出すのがこの御書ですが、そもそもこの『二箇相承』は北山本門寺に伝えられていたものであり、仮にこの書を真蹟と考えれば日蓮日興の血脈は大石寺ではなく北山本門寺に伝えられていたことになろうかと思います。


「『二箇相承』のこと」


加えて今回指摘したいのは、写本の誤字についてです。
冒頭の画像は西山本門寺に現存する弘治2年(1556年)、京都要法寺日辰の写本です(正確に言いますと、要法寺日辰がその場で弟子の日耀に臨写させたものと言われています)。
ところでこの日辰本では画像で示した通り「身延山」と書くべきところが「身遠山」となっており、これは単なる書き間違いと考えられています。事実、公開されている住本寺日教本では正しく「身延山」と書かれています。


ところが大石寺14世日主(在位1573〜1586年)による写本ではこの「身延山」が日辰本と同様に「身遠山」と書かれていることを大石寺側が認めています。これについて大石寺は「元の写本が『身遠山』だった可能性がある」としています。



ただ私などからすれば、日教本(1480〜1489)や日現本(1516)と「身延山」と書かれていることから考えても、大石寺日主が日辰と同じ書き間違いをするのは考えにくく、大石寺日主は北山にあったとされる"原本"ではなく単に日辰本を転写したと考えた方が自然なのではないでしょうか。




富士山・本門寺の久成釈迦仏。

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いつもありがとうございます。
さて日興の『三時弘経次第』では、本仏はきちんと「久成釈迦仏」とされています。ここから考えても日興在世中に日蓮本仏説というのは存在しなかったと思います。


冒頭の画像は『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻(日蓮正宗、昭和47年)43ページに載る『三時弘経次第』の部分です。これを見ると日興は比叡山を「迹門寺」としてその本仏を「始成釈迦仏」としていますが、それに対して富士山を「本門寺」としてその本仏をきちんと「久成釈迦仏」と書いています。


というわけで、日興は釈迦本仏説であり、日興に日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考える方が自然かと私は思います。



なお比叡山を迹門とし、富士山を本門とするのは『本門弘通事』に書かれており、この正本は大石寺に現存します(同44〜45ページ)。それゆえにこの『三時弘経次第』は日興の著作と考えてよいでしょう。



「日興の本門寺構想」

「日興『三時弘経次第』を読む」







日興の譲座本尊の相貌。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて以前、法華講の(恐らくは新参講さんで伝統講さんや旧来の信徒さんではないでしょう)Yさんから日興の正応3年10月13日の譲座本尊(いわゆる御座替本尊)が戒壇本尊の写しであると、議論で主張されたことがありました。


「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」


いちおう上の記事で両者の相貌が全く違うことから写しではないことを主張しておきましたが、件のYさんは本尊の相貌のことは一切議論からはぐらかし、論理をすり替えてまともに答えようとしませんでした。しかもTwitterで一方的に向こうからブロックをかけ、一方的に議論を打ち切ってしまいました。


まあ法華講さん、とりわけ昭和の新参講の方々は元学会員さんが多く、旧来の戸田城聖系の教義で身を固めています。ですから議論も自ずと教団の擁護的な内容しか語れないことが多く、そもそも「戒壇本尊と譲座本尊で相貌は違うことを認めるのか」とか「譲座本尊の相貌が『七箇相承』とも違うことは認めるのか」、その辺について、都合の悪い質問は一切答えない。まあそういう狂信的な態度しか取れないことが法華講さんの信徒の特徴のように感じます。広宣部時代に散々議論をしてきたのでいやというほどわかるんですけどね。


ちなみに大石寺の旧来の檀信徒さん、いわゆる伝統講さんはもっと自由に話す雰囲気があるんですけどね。とりわけ信徒さん、また正信会系の方にはいろいろお世話になったことも多いです。ありがとうございます。


さて本題ですが、冒頭の画像で示したように、すでに大石寺客殿蔵の譲座本尊(御座替本尊)の相貌は興風談所の『日興上人御本尊集』他ですでに広く知られています。


ここからわかることは、戒壇本尊と譲座本尊との相貌のあまりの違いです。つまり日興が譲座本尊を書写した際に戒壇本尊を手本として写したことは推論として考えられないということです。


そもそも戒壇本尊に「提婆達多」が書かれているのに、譲座本尊では書かれていません。

戒壇本尊と譲座本尊とで「天台大師」の書かれる位置が左右反対になっています。しかも譲座本尊では「天台大師」ではなく「天台智者大師」となっています。

さらには戒壇本尊に書かれていない「南無天親菩薩」が譲座本尊には書かれていますし、下部の広目天増長天が譲座本尊では日蓮真蹟本尊の筆法にならって梵名で書かれています。


そういった点から、両者の相貌の違いから考えても、譲座本尊は戒壇本尊をもとに書写したものでも何でもないですし、そもそも譲座本尊が戒壇本尊の存在の証明になり得ないことは火を見るより明らかなことです。




教義のソフトランディング。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて創価学会は、宮田幸一氏や犀角独歩氏らの研究からもわかるように、すでに大石寺蔵の弘安2年戒壇本尊が後世の贋作でしかないということがだんだんわかってきてしまっています。単にそれを表向きに公言していないだけで、教義的にもすでに「受持の対象としない」としたことからも推察できるかと思います。


で、これはすでに既定路線で、教義はより大石寺教学から離れていくことになります。
何せ御大池田氏本人が「戒壇本尊が根本であることはこれからも少しも変わらない」なんて言ってしまいましたから、どうやってソフトランディングさせるのか、信濃町としても御大としてもタイミングを計っているところかと思います。おそらく日蓮か日興の真蹟本尊を使って、日寛本尊からも脱却するかと思います。その時は大誓堂にある大石寺64世水谷日昇書写の創価学会常住本尊も見直しを迫られるかもしれません。


で、その際、ロジックとして考えられるのは「我々、創価学会は真実の意味で広宣流布を現実のものとしてきた唯一の団体だ。だからそこに血脈があり、功徳があったのだ」という説明に持っていきたい意図を感じます。
要するに戒壇本尊だろうが何だろうが、私たちは一生懸命やってきたんだと。その"心"が日蓮と繋がったのであり、そこにこそ創価学会の血脈があったのだとして教義を転轍したいのでしょうね。


ただそうなると、一つごまかしがあります。
所詮、創価学会はかつて大石寺の信徒団体でした。そして戒壇本尊こそが唯一無二の本尊であり、他の本尊は功徳がないことを重ねて主張してきたのです。この主張は初代牧口会長から変わらない教義であったはずです。
それなら「今まで私たちがやってきたことは間違っていました」ときちんと総括すべきなのだと思います。


私が理解できないのは、過去のやってきたことと言ってきたことと全く違うことを主張しながら、それを安易に正当化し、謝ることも総括することもできずに、「創価学会仏」と称して自分たちの過去を正当化して憚らない、その姿勢です。


人間のやることだから間違いはあります。それならきちんと過去の自分の間違いを認めて謝罪すればよいのです。事実、私は過去の友人たちに強引に布教活動をしたことを率直に詫びました。その中には現在、私の友人となって関係が改善された方もいらっしゃいます。


過去の教義との整合性もずれも見ないふりをして、過去の自分たちの姿勢をごまかし、「俺たちはいつだって正しかった。そしてこれからも正しいのだ。何しろ広宣流布を実現する唯一の団体で、創価学会仏なのだから」などと主張するならば、それは後世の創作教義に固執して自分たちを権威化する大石寺となんら変わるところはないでしょう。



神本仏迹説の根拠。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日、大石寺の僧侶の小笠原慈聞への暴力事件「狸祭り事件」について、記事を書きました。


「狸祭り事件」


ところで、なぜ小笠原氏がスケープゴートとされたのかと言いますと、彼は「神本仏迹説」という教義を立ち上げたからだとされています。つまり天照大神が本地であって、釈迦も日蓮もその垂迹であるとする考え方です。


ところで、この「神本仏迹説」なんですが、実は大石寺相伝書にはきちんとこんなことが書いてあります。



「一、釈迦と申すは天照大神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本にまた大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て、正直の頭に宿る、末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ、諸仏の本誓を顕はす」
(『本尊三度相伝』富士宗学要集1-39ページ)



一読すればわかるように、ここで書かれているのは天照大神が本地であり、釈迦や日蓮はその垂迹であるとすることであり、小笠原慈聞氏の唱えた説となんら変わりはありません。


つまり創価学会が小笠原氏を糾弾して「神本仏迹説」を否定したということは、本来大石寺に伝わっていた古来の相伝を否定したということになります。


まあ、この『本尊三度相伝』というものもかなり信憑性に乏しい書でして、そもそも写本を遺している水口日源なる人物が一体どこの寺の何者なのか私には全くわからないのですが(笑)、少なくとも大石寺の古来の教義に小笠原氏が言う「神本仏迹説」なるものが存在したことは言えると思います。