気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

法華経一部読誦について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は法華経読誦についてです。


大石寺系教団では法華経の題目を唱えますが、それに併せて法華経方便品と如来寿量品を読誦しています。方便品では十如是までを三転読誦し、世雄偈を読むことはしません。また創価学会では如来寿量品は自我偈を読むだけです。


大石寺系では例えば『五人所破抄』などを根拠にして、法華経一部を唱えることを否定しています。
まあそれはそれでも教団の教義ならそれは構わないとは思うのですが、考えてみると日蓮本人は生涯にわたって法華経一部を読んだり書写したりしていることは、諸御書からわかります。



「一日にわづかに一巻・一品・題目計なり」
(『四恩抄』創価学会版御書936ページ)


「されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候」
(『月水御書』同1202ページ)


法華経一部御仏の仏六根によみまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎え入れまいらさせ給へ」
(『真間釈迦仏御供養遂状』同950ページ)


「今日蓮法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部をや」
(『転重軽受法門』同1001ページ)


「昼は終日一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす」
(『身延山御書』昭和新修版1283ページ)


「一向に法華経の内・自我偈読誦し候又同じくば一部を読み奉らむとはげみ候これ又偏に現当の御祈祷の為なり」
(『下山御消息』創価学会版御書343ページ)


「御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ」
(『上野殿母御前御返事』同1568ページ)


「世間の道俗の中にわずかに観音品・自我偈なんどを読み適父母孝養なんどのために一日経等を書く事あれば」
(『唱法華題目抄』同5ページ)


「三十余人をもつて一日経かきまいらせ・並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし」
(『地引御書』同1375ページ)



以上の諸御書に見られるように、日蓮自身は法華経一部を読誦したり、また一日経(法華経一部を一日で書写すること)等の修行も認めていることがわかるかと思います。ちなみに『上野殿母御前御返事』は弘安3年の述作で真蹟現存ですから、日蓮自身は佐渡以降も生涯にわたって、法華経一部読誦を行なっていたことがわかります。


ところで、『月水御書』には「常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」(同1202ページ)とされていますから、これを基本とするなら方便品は十如是以降の世雄偈も読むことになろうかと思います。ちなみに正信会系僧侶の一部は方便品世雄偈も読誦していますが、その根拠はこの辺なんだろうと思います。


ブッダは一人ではない。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて『ダンマパダ』には次のような一節があります。


「諸の悪を作すことなく、衆の善を奉じ行い、自らその意を浄くすること、これは諸のブッダの教えなり。」
(『ダンマパダ』183節)


釈迦は確かに「ブッダ」と呼ばれましたが、ここで「諸のブッダ」とあるように、実は釈迦は自分以外にも「ブッダ」が存在していることを認めています。


仏教の興隆以降、歴史的にブッダはゴータマ・シッダルタ一人を指すようになりますが、実は「ブッダ」という語は「目覚めた人」という意味であり、釈迦以前にも「ブッダ」と呼ばれた人は存在していました。
例えばジャイナ教マハーヴィーラは仏教から見れば「六師」の一人ですが、「ブッダ」と呼ばれていました。つまり「ブッダ」はもともと仏教以前の諸宗教においても普通に用いられた尊称であったわけです。


それが釈迦の存在、そして仏教成立以降に「ブッダ」が「釈迦」一人を指すようになっていきます。


仏教において、「ブッダ」が再び釈迦以外のことを指すようになるのは、北伝仏教以降のことで、例えば『法華経』や『阿弥陀経』などで、この世界と別の世界に数多くの「ブッダ」が存在することが説かれるようになります。


ですから、本来「ブッダ」とか「仏」とか「仏性」と呼ばれるものも、本来釈迦の時代に使っていた概念から変容して、大乗以降に成立した概念なのかと思っています。





父との思い出・その2





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて少し前に父の思い出のことを少しブログに書きました。今回はその続きです。


「父との思い出」


父は石田幸四郎さんと同じ「第47部隊」で活動するメンバーでした。この「47部隊」という数字は父から遺言で聞いていたもので、正しいのかどうかわからないでいましたが、溝口敦氏の著作で石田幸四郎さんの部隊は正しく「第47部隊」だったことを確認できたので、間違いないと思います。


私の父の活動のことをここではあまり詳しく書けないのですが、部隊名を書いたのは、もう父のことを覚えている方の多くが故人になってしまい、誰も知らないと思うがゆえです。
おそらく私の父のことをハッキリ覚えている方は、石田幸四郎さん、有島重武さん、渡部一郎さんあたりかと思います。私が子どもの頃に選挙で有島重武さんを応援していたのは懐かしい思い出です。


父は私よりも先にいわゆる「非活」になりました。「非活」というか実質的に組織から離れていたんですね。
若い日の私は非活になった父を活動に連れ戻そうとする活動家でした。それで父といろいろ話したものです。
父は都内で慕われ、引っ越しをした後も父を慕って指導を受けに来た方もいたくらいです。穏やかな性格で、教学に深い方でした。


父は若い頃、地方から出てきて、貧しい中、学校にも行けず、ろくな高等教育も受けないまま創価学会に入会しました。母も似たような境涯でした。当時、昭和30年代の創価学会はそんな感じの組織だったはずです。


父は創価学会組織の上の方の事情をみて知っていたこともずいぶんあったようです。けれどほとんど口にすることはなく、みんな墓場まで持っていってしまいました(笑)。
ただ「お前は創価学会であまり偉くなってはいけないよ」と言われました。当時それがどんな意味なのかよくわかっていませんでした。今にしてみれば、父は偉くなった創価学会幹部がいかなるものか、どのように転落していくかをその目で見てきたのかもしれません。



1998年頃のこと、竹入義勝氏が朝日新聞回顧録を出し、彼は聖教新聞紙上で口汚く罵倒されるようになりました。この時、父は珍しく感情的になったことを私は覚えています。


「なんだこれは! 竹入さんはそんな人じゃないよ!」


「竹入さんは温厚な人で、人を騙したりするひとではない。この聖教新聞は間違ってるよ」


当時、組織の創価学会員がみんな竹入義勝氏を口汚く罵る中、父だけは「竹入義勝さんはそんな人ではない」と堂々と主張していました。
父は竹入さんといろいろ思い出もあったのでしょう。誰が何を言おうと父は竹入さんのことを決して悪く言いませんでした。父はそういう人でした。


こうして書いてみると、父は公明党の幹部になる人と随分、関わっていたような印象を抱きます。やってたことも実際そういうところがありました。詳しく書けませんが。



この記事の最後にあえて書きたいことは、「創価学会は過去の歴史を大事にしない」ということです。
私の父は竹入義勝さんや石田幸四郎さんから受けた恩を生涯忘れることがありませんでした。また新宿の部員さんが数十年ぶりに尋ねてきてもその人のことをしっかり覚えていました。
父は池田会長から言われた言葉もきちんと覚えていました。自分が寄稿した文章がどこの本のどこに書かれているかもちゃんと覚えていました。
けれど創価学会は、そんな一部隊の小さなことを全く大事にしません。池田会長就任の頃、父がどこで何をしていたのかなんて多分誰も覚えていないはずです。歴史を書いて遺そうという意志が創価学会には感じられません。あるのは教団に都合の良い歴史と事実の改竄だけです。その意味では大石寺と同じです。


父は遺言通り、小さな一部員として生涯を終えました。「あまり偉くなってはいけないよ」と私に言い遺して亡くなりました。昭和30年代は創価学会に本部職員などほとんどいませんでした。父は職業的な宗教幹部が徐々に増えていく現状に危惧の念を覚えていたのかと思います。


父と母から学んだことはたくさんありますが、その一つは「平凡であることに誇りがあってなぜいけないのか」ということでした。
小さな貧しい平凡な一部員で構わない、けれどその暮らしの中に誇りがあってなぜいけないのか、誇りをもって暮らしていきなさいと言われました。


日蓮の正統を騙ったり、血脈の正統性を主張したり、教団を仏扱いしたり、名誉学位記を数え挙げたりしても構いませんけど、それらは本質ではないということだと思います。



刻んで作られた本尊。

f:id:watabeshinjun:20180415190552j:plainf:id:watabeshinjun:20180415190526j:plain





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて1999年に発刊された英訳の創価学会版御書ってのがあります。


これは1999年に発刊されたもので、御書翻訳委員会訳ということになっています。池田大作氏の序文では訳に関してバートン・ワトソン氏の手助けもあったようです。バートン・ワトソン氏は英語版の鳩摩羅什法華経の英語への重訳、それから『御義口伝』の英訳などもしている人物です。


ところで、この巻末にいろいろ付録がついていて語句の説明など興味深いのですが、ちょっと気になったのは日蓮の生涯に関する年表の記述です。


ちょっと気になって弘安2年の戒壇本尊のことを英語で何て書いてあるんだろうと思ってみてみたんですね。そしたらこんな風に書いてありました。

"10/12  Inscribes the object of devotion for all humanity."

簡単に訳しますと、弘安2年(1279年)10月12日に日蓮は「全人類のために信仰の対象を彫って作った」のだそうです。


ところで、動詞の"inscribe"は「銘板や壁などに文字を刻む」という意味ですから、具体的に何か実体のあるものを作ったと言う意味にとることができます。つまりこの記述が正確なら日蓮は具体的に形のあるものを全人類のために作って残したというニュアンスになるはずです。


これって大丈夫ですかね?
というのは、創価学会は弘安2年の大石寺の本尊を受持の対象から外しました。まあ、戒壇本尊など後世の贋作に過ぎませんし、その信憑性の低さが創価学会側、信濃町池田氏もだんだんわかってきてしまったのだと思いますけどね。
日本語ならば「三大秘法の御本尊を現した」とかなんとか言ってうまくごまかすこともできるんでしょうけど、ここでの"inscribe"という動詞はちょっとごまかし切れない気がします。
文字通り意味をとるなら、「弘安2年に日蓮は全人類のために信仰対象を彫刻して作り出した」ということになります。つまり作られた実物が存在しないとおかしなことになりません?


創価学会本部はかつて大石寺の教義に習い、弘安2年戒壇本尊を「一閻浮提総与の大御本尊」とぶち上げ、それを帰命依止の本尊としていました。それを中途半端に否定して「受持の対象としない」なんて言ってしまったからこんなことになるわけなんですけど、じゃあ「全人類のために日蓮によって板に刻まれた信仰対象」はどうするのでしょうか。これもまた教義的に説明をしなければならないことでしょう。


というか説明なんてしなくても「私たちが実は間違っていました。ごめんなさい」って言えばそれで済むことなんですけど、過去の総括も反省もできない体質、つまり「ごめんなさい」を言えない体質が創価学会にも大石寺にもあるから、こんなところでいろいろボロが出てきて、その継ぎ接ぎに地域幹部とかがアドホックな説明をしてお茶を濁しているというのが偽らざる実態なのかなと思います。




仏像を安置することは本尊の図の如し。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は、本門戒壇建立時の本尊を日興はどう考えていたのかという点です。


以前、ブログ記事で指摘したように、大石寺開山の日興は、「本門寺」構想を持っており、そこに安置されるべき曼荼羅本尊を一体と定めてはいませんでした。


「本門寺に懸けられるべき本尊」


ところが、日興本人が曼荼羅以外に仏像本尊も実際認めていることもブログでは書きました。


「日興は仏像本尊を認めている」


また日興の弟子たちも実質的に本門戒壇建立時に仏像を安置することを認めています。
例えば以下のような発言です。


広宣流布せば本門の戒壇其れ豈立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」
(三位日順『本門心底抄』富士宗学要集2-34ページ)


「仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依之時、三ケ大事一度に成就せしめ給うべき之由御本意なり、御本尊図は其れが為なり」
(日代『宰相阿闍梨御返事』日蓮宗宗学全書2-234ページ)


このように日興の弟子たちに本門戒壇建立時の本尊が仏像になることはきちんと伝えられています。
私の現在の考えは本来日蓮曼荼羅で説こうとしたことと、仏像で表現されたものが内実が同じであるという点です。


ところでそんなことを書くと多くの方は「日興は仏像本尊を否定された筈だ」と感情的に反発されるかもしれません。しかし先のブログ記事で引用した『原殿御返事』で日興は仏像本尊を否定していません。


加えて『富士一跡門徒存知事』で仏像本尊が否定されていますが、実はこれはよく読むと五老僧が「釈尊一体仏」や「普賢文殊」を脇士としたことに対する論駁であり、ちゃんと日興は同書の追加8箇条の中で「一尊四菩薩像」を本尊と認めています。
少し引用してみましょう。


「一、伊予阿闍梨下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩薩の像は宝冠形なり。
一、民部阿闍梨も同じく四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり」
(『富士一跡門徒存知事』創価学会版御書1609ページ)


さらに『五人所破抄』にも以下のような記述があります。


「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云」
(三位日順『五人所破抄』同1614ページ)


上述の引用から想像される日興の思想は決して仏像本尊否定論者ではありません。日興は釈尊一体仏や四菩薩を脇士としない権迹門の釈迦像を否定したのであって、実は日興にあっては「本門の釈尊像」は肯定されているのです。
三位日順が『本門心底抄』で「仏像を安置することは本尊の図の如し」と述べているように、曼荼羅は仏像本尊を本門戒壇に建立するまでの図であるということです。


末法思想について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は「末法思想」というものを基本信じていません。


釈迦の教えがやがて廃れ、その効力を失ってしまう時代が第5の500年ということになりますけど、これは『大集経』に説かれた教えです。「闘諍言訟・白法隠滅」なんて言いますけど、これは『大集経』の言葉です。


末法思想を中国で強調したのは天台智顗の師匠にあたる南岳慧思です。中国南北朝の動乱を見てきた慧思は、戦災に対する悲壮感や時代の閉塞感から時代が「末法」になりつつあることを信じていました。慧思は次第に『般若経』から『法華経』に力点を移すことになり、この点が天台智顗に引き継がれたものと思います。


そもそも末法が来たら、そのための経典こそが『法華経』だと主張するのを認めるとして、その末法思想を説明する経典が法華以前の『大集経』というのはどういうことなのでしょう。
そもそも天台智顗の教判なら法華以前の爾前経になるはずの『大集経』を根拠として「闘諍言訟・白法隠滅」という説明をするのは、私にはよくわかりません。


私にわかるのは、創始者が始めたことは年月を経るごとに徐々に形骸化するということです。
だからこそ釈迦の本来の意義を見つめ直したりすることは重要なことであると思いますが、別にそのために「末法」という言葉を使う必要性は私はないと思いますし、それがそもそも「第5の500年間」に当たるとも思いません。
その意味では私の考えは、末法概念を否定する道元の考えに近いのかもしれません。



まあ南岳慧思から引き継がれた、天台智顗の五時八教判に依拠し、法華一乗の考えを採るのは個人の思想の自由ですが、別段文献学的に何の根拠も持たない天台教判をもとにして、殊更に現代を「末法」と呼ぶことの重要性を、さほど私は感じません。



末法は存在しない」






狸祭り事件。




みなさん、いつもありがとうございます。
さて今回は昭和27年(1952年)4月27日、大石寺創価学会員が多数登山し、小笠原慈聞氏を牧口氏の墓前に引き出して謝罪を要求した、いわゆる「狸祭り」事件について書いてみようと思います。


実はこの「狸祭り」事件は、創価学会の言っていることと、大石寺側や小笠原氏が言っていることとで語ってる内容が全く違います。


小説『人間革命』第6巻では、「神本仏迹論」を唱えた小笠原慈聞(『人間革命』中では笠原慈行)に謝罪を要求する表現に"美化"されていますが、どうも実態は違うようです。


昭和27年4月27日、ちょうど宗旨建立七百年記念慶祝大法会が挙行される前日から、戸田城聖創価学会員約4,000名を引き連れ、大石寺に乗り込んでいました。
戸田氏は単に式典に参加するだけではなく、大石寺における創価学会の存在感を示すために「狸祭り」と呼ばれる一連の暴力事件を起こしたと考えられます。というのは大石寺に乗り込む前、3月2日に戸田氏は青年部にすでに小笠原慈聞氏の糾弾を指示していたからです。池田大作を含む当時の青年部幹部は戸田氏の指示を受けて実行の手筈を整え、実働部隊47人を事前に選び、プラカードや謝罪文の案文等の準備まで行なっていました。


昭和27年4月27日夜、創価学会青年部の行動部隊は大石寺内の僧坊を回り、小笠原氏を探し歩きます。やがて寂日坊に彼を発見し、龍年光池田大作の部隊は小笠原氏に謝罪を要求します。ところが小笠原氏はこれに反論して埒があかず、業を煮やした龍年光たちは彼を担ぎ上げます。この時、池田大作の知らせで戸田も寂日坊に駆けつけます(聖教新聞、昭和27年5月10日)。


事件後に小笠原氏が発表した手記『創価学会戸田城聖己下団員暴行事件の顛末』によれば、戸田は「生意気いうな」と小笠原氏の左耳の上と右横頭を強打し、行動部隊多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の服を脱がせてシャツ一枚にしてしまいます。
その後、行動部隊は小笠原氏を担ぎ上げ、筆頭理事の和泉覚の指揮で大声をあげながら、大石寺内の牧口常三郎の墓前まで彼を運びます。ここで行動部隊は再び小笠原氏を責め立て、あらかじめ用意しておいた案文の謝罪文を彼に書かせます。この間に地元の消防団や村民が騒ぎを聞きつけて詰めかけ、暗夜の墓地で乱闘が始まり、墓石が倒れて怪我人が出ました。


小説『人間革命』第6巻では「笠原に傷をつけてはならない」と戸田が発言したと書かれ、あたかも創価学会側には一切の暴力行為がなかったかのように描かれていますが、実際には小笠原慈聞氏は全治数週間の負傷で医師の診断書を添えて告訴しています。そのため会長の戸田城聖と筆頭理事の和泉覚は警察に拘留され、取り調べも受けています。


小笠原氏はその後、全国の日蓮正宗の末寺に創価学会を告発するパンフレットを送り、創価学会に牛耳られたとして総本山の管長も告訴しています。創価学会事件直後にはシャツ一枚の姿の小笠原氏の写真を『大白蓮華』に掲載までしており、日蓮正宗側も事態を重く見て、宗会は戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議しました。


戸田城聖は即座に巻き返しに出ます。創価学会幹部に宗会議員を個別に訪問させ、決議を事実上潰します。池田大作も7月に文京区戸崎町の白蓮院(現在は江戸川区北小岩に移転)を訪問しており、決議の全面取り消しを約束させています。また小笠原氏本人に対しては創価学会から30万円を支払い示談をしています。
また大石寺信徒(伝統講)の関戸了三氏によれば、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したとされます。
このような戸田城聖の根回しと本山への圧力によって、小笠原慈聞は慰謝料30万円で手を打たされることになります。


この「狸祭り」事件で強まったことは、創価学会大石寺に対する発言力です。戸田城聖大石寺への圧力、また発言力の強化という理由から周到に「狸祭り」事件を計画していたのだと私は考えています。




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年。