いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前に父の思い出のことを少しブログに書きました。今回はその続きです。
「父との思い出」
父は
石田幸四郎さんと同じ「第47部隊」で活動するメンバーでした。この「47部隊」という数字は父から遺言で聞いていたもので、正しいのかどうかわからないでいましたが、溝口敦氏の著作で
石田幸四郎さんの部隊は正しく「第47部隊」だったことを確認できたので、間違いないと思います。
私の父の活動のことをここではあまり詳しく書けないのですが、部隊名を書いたのは、もう父のことを覚えている方の多くが故人になってしまい、誰も知らないと思うがゆえです。
おそらく私の父のことをハッキリ覚えている方は、
石田幸四郎さん、有島重武さん、
渡部一郎さんあたりかと思います。私が子どもの頃に選挙で有島重武さんを応援していたのは懐かしい思い出です。
父は私よりも先にいわゆる「非活」になりました。「非活」というか実質的に組織から離れていたんですね。
若い日の私は非活になった父を活動に連れ戻そうとする活動家でした。それで父といろいろ話したものです。
父は都内で慕われ、引っ越しをした後も父を慕って指導を受けに来た方もいたくらいです。穏やかな性格で、教学に深い方でした。
父は若い頃、地方から出てきて、貧しい中、学校にも行けず、ろくな高等教育も受けないまま
創価学会に入会しました。母も似たような境涯でした。当時、昭和30年代の
創価学会はそんな感じの組織だったはずです。
父は
創価学会組織の上の方の事情をみて知っていたこともずいぶんあったようです。けれどほとんど口にすることはなく、みんな墓場まで持っていってしまいました(笑)。
ただ「お前は
創価学会であまり偉くなってはいけないよ」と言われました。当時それがどんな意味なのかよくわかっていませんでした。今にしてみれば、父は偉くなった
創価学会幹部がいかなるものか、どのように転落していくかをその目で見てきたのかもしれません。
1998年頃のこと、
竹入義勝氏が
朝日新聞に
回顧録を出し、彼は
聖教新聞紙上で口汚く罵倒されるようになりました。この時、父は珍しく感情的になったことを私は覚えています。
「なんだこれは! 竹入さんはそんな人じゃないよ!」
「竹入さんは温厚な人で、人を騙したりするひとではない。この
聖教新聞は間違ってるよ」
当時、組織の
創価学会員がみんな
竹入義勝氏を口汚く罵る中、父だけは「
竹入義勝さんはそんな人ではない」と堂々と主張していました。
父は竹入さんといろいろ思い出もあったのでしょう。誰が何を言おうと父は竹入さんのことを決して悪く言いませんでした。父はそういう人でした。
こうして書いてみると、父は
公明党の幹部になる人と随分、関わっていたような印象を抱きます。やってたことも実際そういうところがありました。詳しく書けませんが。
この記事の最後にあえて書きたいことは、「
創価学会は過去の歴史を大事にしない」ということです。
私の父は
竹入義勝さんや
石田幸四郎さんから受けた恩を生涯忘れることがありませんでした。また新宿の部員さんが数十年ぶりに尋ねてきてもその人のことをしっかり覚えていました。
父は池田会長から言われた言葉もきちんと覚えていました。自分が寄稿した文章がどこの本のどこに書かれているかもちゃんと覚えていました。
けれど
創価学会は、そんな一部隊の小さなことを全く大事にしません。池田会長就任の頃、父がどこで何をしていたのかなんて多分誰も覚えていないはずです。歴史を書いて遺そうという意志が
創価学会には感じられません。あるのは教団に都合の良い歴史と事実の改竄だけです。その意味では
大石寺と同じです。
父は遺言通り、小さな一部員として生涯を終えました。「あまり偉くなってはいけないよ」と私に言い遺して亡くなりました。昭和30年代は
創価学会に本部職員などほとんどいませんでした。父は職業的な宗教幹部が徐々に増えていく現状に危惧の念を覚えていたのかと思います。
父と母から学んだことはたくさんありますが、その一つは「平凡であることに誇りがあってなぜいけないのか」ということでした。
小さな貧しい平凡な一部員で構わない、けれどその暮らしの中に誇りがあってなぜいけないのか、誇りをもって暮らしていきなさいと言われました。
日蓮の正統を騙ったり、血脈の正統性を主張したり、教団を仏扱いしたり、
名誉学位記を数え挙げたりしても構いませんけど、それらは本質ではないということだと思います。