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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本門寺に懸けられるべき本尊。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日興の「本門寺」構想とそこに懸けられるべき本尊についてです。


周知のように大石寺では、広宣流布の時に本門戒壇に懸けられるべき本尊は自山の戒壇本尊であると主張しています。


ところで、大石寺の教義で言えば、広宣流布が達成された時に大石寺は「本門寺」と改称し、その時の本堂(現在は奉安堂か)が本門の戒壇となり、信徒の内拝から公開になるという考え方です。昭和40年2月16日の細井日達の発言から考えてもそういう解釈になるかと思います。


しかしながら、本門寺の構想を抱いていた日興自身が複数の日蓮真蹟曼荼羅に「本門寺に懸けるべし」等々の添え書きを残しています。
ですから本門寺に懸けられるべき本尊は複数存在しているということになります。
いくつか紹介してみましょう。



「弘安二年大才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(日興加筆)本門寺重宝たるべきなり」
大石寺蔵、富士宗学要集8-177ページ)


「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興加筆)少輔公日禅は日興第一の弟子なり、仍て与へ申す所件の如し、本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。」
(東京法道院蔵、同178ページ)


「弘安四年太歳辛巳三月日、俗日大に之を授与す、(日興加筆)富士顕妙新五郎に之を与へ申す、本門寺に懸け末代の重宝たるべきなり。」
(讃岐法華寺蔵、同213ページ)


「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す(他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし。」(伯耆曼荼羅と称す)
北山本門寺蔵、同215ページ)


「建治二年二月五日、(日興加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、本門寺に懸け万年の重宝たるなり、」
西山本門寺蔵、同220〜221ページ)


「(弘安三年)(日興加筆)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安三年九月之を与へ申す、本門寺の重宝たるべきなり、」
(京都妙覚寺蔵、同222ページ)※1


「弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(日興加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、大本門寺の重宝なり、」
(京都本能寺蔵、同223ページ)


「弘安四年太歳辛巳四月廿五日、比丘尼持円に之を授与す、(日興加筆)甲斐の国大井の庄の庄司入道の女子、同国曽根小五郎後家尼は日興が弟子なり仍て之を与へ申す、之を相伝す孫大弐公日正本門寺重宝たるべきなり、」
(京都本満寺蔵、同223ページ)


日興に「本門寺」構想があったことは『三時弘経次第』他からもわかることですが、その本門寺に懸けられるべき曼荼羅が一体のみで、それが仮にも大石寺蔵の戒壇本尊であるとするなら、そもそも日興による「本門寺」等の加筆がないことが不自然になります。また戒壇本尊以外にこれだけ多くの本尊に対して「本門寺の重宝たるべき」等の加筆を残している以上、少なくとも本門寺に懸けられるべき本尊は一体のみと日興は考えていなかったことがよくわかるかと思います。


大木道惠氏と会話した折にご教示頂いた点が「日興の本門寺構想は1つの寺ではない」ということです。つまり国分寺の考え方のように広宣流布の時に至って複数の寺が「本門寺」と改称し、それらの寺寺に懸けられるべき本尊が複数充てられていたと考える方が自然なことのように思います。


注※1:
日亨氏は富士宗学要集で京都妙覚寺蔵の当該本尊を「弘安二年」の授与と推測していますが、柳澤宏道氏が立正安国会『御本尊集』55番の写真他と対照した結果、「弘安三年」とするのが正しいとしています。ここでは弘安三年説を採っています。