いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は「末法思想」というものを基本信じていません。
釈迦の教えがやがて廃れ、その効力を失ってしまう時代が第5の500年ということになりますけど、これは『大集経』に説かれた教えです。「闘諍言訟・白法隠滅」なんて言いますけど、これは『大集経』の言葉です。
末法思想を中国で強調したのは天台智顗の師匠にあたる南岳慧思です。中国南北朝の動乱を見てきた慧思は、戦災に対する悲壮感や時代の閉塞感から時代が「末法」になりつつあることを信じていました。慧思は次第に『般若経』から『法華経』に力点を移すことになり、この点が天台智顗に引き継がれたものと思います。
そもそも天台智顗の教判なら法華以前の爾前経になるはずの『大集経』を根拠として「闘諍言訟・白法隠滅」という説明をするのは、私にはよくわかりません。
私にわかるのは、創始者が始めたことは年月を経るごとに徐々に形骸化するということです。
だからこそ釈迦の本来の意義を見つめ直したりすることは重要なことであると思いますが、別にそのために「末法」という言葉を使う必要性は私はないと思いますし、それがそもそも「第5の500年間」に当たるとも思いません。
まあ南岳慧思から引き継がれた、天台智顗の五時八教判に依拠し、法華一乗の考えを採るのは個人の思想の自由ですが、別段文献学的に何の根拠も持たない天台教判をもとにして、殊更に現代を「末法」と呼ぶことの重要性を、さほど私は感じません。
「末法は存在しない」