いつもみなさん、ありがとうございます。
「相承の断絶」
しかもその根拠がないことを指摘されても、何も信徒は答えられないありさまです。
どれほど酷い相承のありさまなのかは、既にブログで何度か書いたところです。
「相承の断絶」
抑も大石寺3祖日目から4世日道への相承の証拠さえ存在しません。
「日目から日道への相伝はなかった」
5世日行(?〜1369)
6世日時(?〜1406)
7世日阿(?〜1407)
10世日乗(?〜1472)
11世日底(?〜1472)
加えて10世日乗が亡くなるのは1472年12月20日のことです。そして11世の日底が亡くなるのは1472年5月14日です。つまり後代の11世日底の方が10世日乗より先に亡くなっているのです。
10世日乗から11世日底へ血脈相承がなされたのが大石寺『富士年表』では「1470年(文明2年)」とされていますが、その根拠としては「石文」(大石寺文書)にあるとしながら、出典やページ数等は具体的に何一つ示されていません。つまり証拠が何もないのです。
当然ながら11世日底から12世日鎮への直接の血脈相承はなされていません。

12世日鎮への血脈相承について、大石寺では既に隠居していた9世日有(1402〜1482)が1482年(文明14年)に12世日鎮に相承したことになっています。しかしこれもまた大石寺『富士年表』では出典や記録が具体的に示されていません。

加えて大石寺『富士年表』の記録に依るなら9世日有(1402〜1482)は、1482年9月29日に亡くなります。そして12世日鎮(1469〜1527)は生年1469年(文明元年)です。つまり日有から日鎮への血脈相承は、日有の死の数週間前、80歳の日有から13歳の少年に対して行われたことになります。
そして11世日底は既に1472年に亡くなっていますから、1482年の80歳から13歳に血脈相承がなされるまで10年近く法主が不在だったということです。しかもその血脈相承を記録した証拠さえ何一つ具体的に示されていないのです。
不可解なことはまだ続きます。12世日鎮が亡くなるのは1527年(大永7年)ですが、これを受けて法主に登座した13世日院(1518〜1589)は、当時なんと9歳の少年・良王(日院)です。
同年1518年9月5日、12世日鎮の『付弟状』では実際に「良王殿の事幼少の御方に御座候」と書かれてしまっています。
「大石寺13世日院のこと」
そして日院も生年が「1518年」ということは記録で示されているのですが、誕生の日付が不明なのです。
つまり大石寺の血脈付法の上古の歴史は、証拠も何もない、記録も碌になされない、血脈相承があったのかさえ疑わしい、法主というべきものの生年さえわからない、そんな歴史が既に5世日行の頃から普通だったということになります。