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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

左京日教は本門寺戒壇を重須としていた。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日の記事で「法主」という語の用例は本来なら宗祖日蓮を指す言葉であったことを述べました。
これはその後、歴史的な変遷を経、大石寺では次第に「血脈付属の人」を「法主」と称するようになっていきます。他の興門流では「貫主」と称しているものを大石寺では次第に「法主」と呼ぶようになってくるんですね。



私はこの教義確立に際して、大石寺9世日有の存在が大きいと考えていますが、それ以上に影響を抜きにして考えられない人物として左京日教の存在があると考えています。



左京日教はもともとは、大石寺系ではありませんでした。元来、彼は住本寺(要法寺系)本是院日叶と号していまして、出雲妙蓮寺日耀を師としていました。彼は日耀から両巻血脈(本因妙抄、百六箇抄)を相伝され、書写したとされます。
文明12年(1480年)に『百五十箇条』を著しますが、左京日教が大石寺の日有に師事するのは、この後のことと考えられます。そして大石寺日有が文明14年(1482年)に死去した後、彼は南条日住とともに『有師化儀抄』の編纂に携わります。



大石寺9世日有の後、10世日乗、11世日底はそれぞれ1472年までに亡くなっています。
そこで9世日有は亡くなる直前、文明14年(1482年)に12世日鎮に相承します。80歳の日有がわずか13歳の日鎮に血脈相承を行い、この年に日有は亡くなります。



「9世日有から日乗、日底、日鎮への相承」



左京日教は後に延徳元年(1489年)に大石寺12世日鎮の指示で『六人立義破立抄私記』を著しています。これ以降の左京日教の消息はわかっていません。



左京日教は「本是院日叶」の頃から、『百五十箇条』等、重要な著作を多く遺しています。
元々彼は要法寺系だったのですが、『百五十箇条』以降(1482年以降か)、日有に師事してより次第に大石寺寄りの教義になっていきます。また12世日鎮が日有死去の時にまだ13歳であったため、その後見役として大石寺法主の絶対化を教義として強めたと推察できるでしょう。



興味深いのは『百五十箇条』で、二箇相承の全文の引用がされるのは、歴史的に『百五十箇条』が初めてです。
150の条目の第11条でこの『一期弘法抄』が引用されるのですが、その次の12条「富士山本門戒壇建立之事」で、なんと左京日教はこの富士山本門寺戒壇のことを「重須」としています。


「弘安五年九月十三日の御書には富士山本門寺戒壇を建立すべし云云、之に依つて富士ノ郡、重須本門寺御建立」
(左京日教[本是院日叶]『百五十箇条』富士宗学要集2-183ページ)

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編者の堀日亨は頭注で、当時日有に師事する前の著作であることから、この教義は大石寺以前の要法寺系であることを指摘しています。
しかしながら、ここで指摘したいのは左京日教が大石寺帰伏以前の1482年時点でに既に『二箇相承』の全文を把握しており、それを受けて『二箇相承』における本門寺戒壇を「重須」であるとしていることです。



ここからわかることは、


1、『二箇相承』は北山本門寺に伝わってきた相伝であるが、大石寺日有以前の段階で要法寺等の興門流他山に既に内容が伝わっていたということ。

2、大石寺を除く富士門流では、1482年の時点で既に『二箇相承』における富士山本門寺戒壇は「重須」すなわち北山本門寺であったという解釈が一般的であったということ。



ということになろうかと思います。


このように、大石寺に伝わっていると自称している『二箇相承』等の相伝書は、大石寺帰伏以前の要法寺流の左京日教(本是院日叶)等に既に伝わっていたことがわかります。大石寺に『二箇相承』のオリジナルがあったわけではなく、それらの相伝は既に他山にあり、それを換骨奪胎して大石寺が自山に取り込んでいくことになります。



左京日教はこの後、日有に師事することで、次第に教義が大石寺寄りに変遷していきます。
それについてはまた別途記事にしていきたいと考えています。



参考文献
小林正博「法主絶対論の形成とその批判」『東洋学術研究』131号、東洋哲学研究所、1993年