気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『新池抄聞書』が非公開である謎。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて『新池御書』の偽作説を私はこのブログで主張しています。
 
「『新池御書』は偽書である。」
 
「日有と『新池御書』のこと」
 
そもそも『新池御書』は真蹟が不存、同時代の古写本も不存、録外初出であり、六老僧や中山日常等、日蓮と同時代の弟子たちに言及されたことがありません。恐らく最古の引用は私が見た限り大石寺9世日有の『新池抄聞書』であると思われます。日有は室町時代の人物ですから、『新池御書』の実在は室町時代以降でしか確認できず、鎌倉時代の文献であるとは考えられないことになります。
 
 
今回考えてみたいのはこの『新池御書』のことではなく、『新池御書』を引用した最古の史料の一つと思われる日有の『新池抄聞書』に関してです。
 
 
実はこの『新池抄聞書』という文献は「非公開」です。この書名と文章の一部を初めて紹介したのは大石寺59世堀日亨なのですが、これは彼の『富士日興上人詳伝』であり、ごく一部と名前だけの紹介になっています。
 
 
それではなぜこの『新池抄聞書』が「非公開」とされるのでしょうか。
非公開である故に、全文は読むことができません。ここでは堀日亨氏の『富士日興上人詳伝』294〜295ページ(創価学会昭和38年)に記されたものを全文挙げてみましょう。
 
「日有云く、また云く、大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は頼願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生・即本因・本果・本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり、開山置状に云く日目・日仙・日代は本門寺の大奉行・中にも日代は日興が補処たり文、是は日興は母の得分にて後座すに依て日代には母の方を授け日目には父の方を授け給へり。」
(『新池抄聞書』、堀日亨『富士日興上人詳伝』所収、294〜295ページ、創価学会、昭和38年)

 
ここで日有は「大石寺は父の寺」「重須(北山本門寺)は母の寺」とし、北山本門寺の御影堂と対照させることで、父である大石寺は本尊堂がある故に優れていることを主張していると考えられます。日興から北山本門寺を託された日代は母の寺を譲られ、大石寺を託された日目は父の寺を譲られたとしていることから、日興から日代への相承よりも、日興から日目の相承の方が優れていると主張しているようにとることもできます。
 
それでは何故この『新池抄聞書』が非公開なのかという謎です。むしろ普通に考えれば同抄は公開すべきで、公開することで本来大石寺系から見れば彼らの正統が傍証され得る文献の筈です。それが何故非公開なのかということになります。普通に考えれば「一般に知られてはいけない内容」が存在するからこそ非公開とされたと推察する方が自然でしょう。
以下はあくまで本文から考えられる類推に過ぎませんが、私が考えるのは以下の2点です。
 
 
1、北山本門寺よりも大石寺の優位を説く『新池抄聞書』は、非公開の部分の内容が大石寺法主の相承に何らかの部分で関係しており、相承の内容が知られてしまうために非公開と判断された。
 
2、『新池抄聞書』の『新池御書』は真蹟不存、古写本も不存の偽書の疑いの強い遺文であり、『新池御書』等、偽撰遺文が偽作された事情が露呈することを恐れて非公開とされた。そもそも『新池御書』初出は録外で室町時代以降のことであり、日有の時代と付合する。
 
 
日亨氏の前掲書には「此の上両状の御大事血脈相承は目上のへの御付属なり」(同295ページ)と書かれていますので、『新池抄聞書』が単純な疏ではなく「両状の御大事血脈相承」の一つとして『新池抄聞書』が扱われていたことが推察できます。つまり「両状の御大事血脈相承」の一つとも言うべき『新池抄聞書』には相応の相承における重大な事が書かれていたことになるでしょう。
 
また堀日亨は「いたずらに篋底に蔵して発表したることなきも、日教・日我の説を補わんために引用した」とここで書いていまして、同抄が非公開ながら実在する文書であることを窺わせます。
実在する文書なのであれば、何も隠す必要がなく公開すればよいだけなのですが、ここで堀日亨は「未だよき古本を得て校定するの機もなく」「篋底に蔵して発表したることなきも」としています。
 
なぜこの『新池抄聞書』が未だに非公開なのか、また同抄のように大石寺文書にはまだ他にも非公開のものが存在するのか、疑念を抱かせるものかと私は思います。