いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は昨日の記事の続きで、『新池御書』についてです。
「『新池御書』は偽書である」
『新池御書』は真蹟不存、上古の古写本も不存、録外初出の室町時代以降に出てきた文献です。
さらに上記記事で昨日述べたように「円覚寺」という語の用例が見られます。日蓮が真蹟遺文で「円覚寺」という語を用いたことは一度もなく、しかも円覚寺の建立は弘安4年に始まり、開山が弘安5年です。末文に「弘安三年二月日」と書かれている『新池御書』はその点で矛盾します。弘安3年にはまだ円覚寺は存在しないのです。それを示す文献史料もありません。
加えて日蓮は「建長寺」という語を用いたことはあります。『開目抄』『撰時抄』『種種御振舞御書』『妙法比丘尼御返事』等、引用される遺文は多岐に渡ります。が、「円覚寺」を引用した文献は存在しません。円覚寺の建立は弘安5年で、日蓮が亡くなる年です。だからこそ日蓮は建長寺は知っていても円覚寺の存在は知らなかった筈です。弘安元年とされる『妙法比丘尼御返事』『弥源太入道殿御消息』はともに真蹟不存ですが、弘安元年でともに「建長寺」しか書かれていません。日蓮遺文で「円覚寺」と書かれたものは存在しないのです。
さてそう仮定すると、奇妙な一連の史実が浮かび上がってきます。
大石寺の歴史で、最初に『新池御書』に言及した文献は何なのかと言う点です。
以前に紹介したように実は大石寺9世日有に『新池抄聞書』という文献が非公開ながら存在することがわかっているのです。
以下の記事で公開された部分を紹介しました。本文の画像は再掲してみます。
「日有「大石寺は本尊堂」」
『新池御書』には鳥の卵の比喩が出てきます。鳥の卵は初めは水なのに、そこから羽根や嘴が揃い、三十二相八十種好の仏になれるという比喩ですが、日有はそれになぞらえて述べているのか、北山本門寺を「母の寺」、大石寺を「父の寺」としています。
『新池御書』は録外初出ですから、室町時代以降に現れた文献です。
奇妙に上記の事実が繋がるのです。