いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前に「四神相応の地」という考え方をブログで紹介したことがあります。
「四神相応の地」
上記のブログでは、そもそも大石寺から離れた創価学会が信濃町の広宣流布大誓堂を「広宣流布の中心の地」とするなら、信濃町は「四神相応の地」となるのか、それら「四神相応の地」として信濃町の判定はなされたのか、教義的に「四神相応の地」はどうなったのかと言う点が扱われています。
それは昭和46年(1971年)2月16日、大石寺での総本山総門起工式における以下のスピーチです。
「最後に、新総門につきましては、正本堂の出現により、世界の宗教史、なかんずくわが宗教界に新しい一画期が到来することを感ずるものであります。玲瓏富峰の南麓ここ大石が原の聖地は、北に千居の玄武・丘陵を控え、東に清流・潤井の清水を流し、西に下ってはるか東海道へつながる白虎の大道が通じ、南は豊満なる朱雀の美田を一望に収める四神相応、雄大無遍なる国土世間であります。」
過去に書いたこと、言ったことを、もう都合が悪いから「使わないようにしよう」というのなら、その説明を明確にすべきです。少なくとも創価学会は「国立戒壇」を使わない理由は説明しました。しかし「四神相応」を使わない理由は説明していません。繰り返しになりますが、四神相応の地を勝地としたのは日興です。創価学会は日興の門流なのではないのでしょうか。