気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自戒をこめて。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はこんなブログを書いていますが、別段、アクセス数を増やそうと努力しているわけでもありません。ブログ執筆の目的はそこではないからです。
もちろん今のブログに読者が100人以上もついてくださるのはありがたいですし、ひと頃から減ったとはいえそれでも日々1,000件近いアクセスがあるので、そのことに関しては感謝しかありません。本当にありがとうございます。



私は別に今の自分が正しいのかどうかということに最近はあまり執着しないようにしています。
日蓮の教えから離れて、親鸞や龍樹の念仏を中心にし、自力の考え方から離れようとしています。
もちろん人間である限り、「自力」という発想から離れられないものです(親鸞自身もまた自身の弱さとともにそれを認めています)。ただその執着する姿を自ら意識し、自分にとっての真実を更新する態度をいつも持つことが大切なことだと今は考えています。



私は自分のやってきたことが「間違いであった」と思っています。
またこのブログを開設して、Twitterで論争になった時は自分の愚かさ故に自身が間違えた、自分が誤っていたと考えています。
そしてその愚かしさは、今もって否定できないとも考えています。



そのような愚かしさ、何かの真実に執着してしまう弱さが人にはあることを、今の私は何となくわかるなくつもりです。
だから必要のなくなったものは、全部捨てることも辞さない態度でありたいと考えています。



創価学会系、大石寺系信徒の中には、「私は間違っていない」とか「私の感覚は正しい」とか「私は被害者だ」とか「真実は常にどこかに存在するのだ」とか、そんなことを述べる方々が一定数存在することを感じます。私はその考えこそが「真実を求める病」だと考えています。




「真実を求める病」



そのような自身の姿勢を反省して自己批判をし、その上で新しい生活を始めなければいけないでしょう。
そうでなければ、その人は「どこかに真実の法がある」とか「私の感覚は正義だ」とか思い込んで生きていくことになってしまいます。
私はそうありたくないし、また私にもそのようなところがあることを、よく知っているつもりです。
そのような醜悪な心を見つめ、阿弥陀仏を求めて自身の心を常に更新していきたいと今の私は考えています。
私のブログが自身の感覚を絶対視して他者を貶めて自己正当化をするだけのブログに堕するならば、単に他人から読まれなくなって忘れ去られるだけです。
そうならないように、いつも自戒の心で書いていきたいと考えています。