気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価・大石寺系の分派と諍いの果て。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はこのブログ中で、何度となく「どこかに日蓮の正統がある」とか「宇宙に常住の法がある」とか「正統な血脈を純粋に受け継いだ教団がある」という正統派論争の考え方を否定しています。
そのような無意味な正統派論争をすることこそ否定されるべきです。実際、法華経安楽行品では「教えの論争に関わらない信徒の姿勢」が描かれていたりします。



それなのに大石寺系教団は同族嫌悪のように、互いを口汚く罵り合います。およそ仏教徒とは思えないほどです。法華経不軽菩薩品の精神とはかけ離れた世界です。
日顕宗は創価学会を切ったから血脈が切れた大謗法」とか「創価学会のニセ本尊を拝むから仏罰が出る」とか「国立戒壇を否定したから総罰が出る」なとと罵り合っている姿は傍目から見て、態度の悪い連中が悪口を応酬しているだけにしか見えません。彼らは自分たちが何をしているのか、わかっているのでしょうか。
私からすれば、どれも正統派論争に執着した、カルト的な思考法に過ぎず、法華経安楽行品や不軽菩薩品にも反する考え方です。


これらの大石寺系教団は分裂の様相を呈していまして、今まで多くの分派が分かれては飽くなき論争を未だに繰り広げています。その醜い姿には心底辟易します。


正信会は、昭和54年の細井日達逝去をきっかけとして、阿部日顕氏の血脈の正統性に疑問符を呈した「正信覚醒運動」が元になっています。阿部日顕氏本人が後ろ盾として創価学会を利用し、創価学会が阿部日顕氏の相承を認めることを前提として宗内僧侶の正信会系を擯斥処分にしました。当時は創価学会寄りだった阿部日顕氏の考え方への批判もあったのだと思います。
今や正信会は「宗教法人正信会」「日蓮正宗正信会」「富士大石寺正信会」と大きく三つに分裂してしまい、また同派内でも意見が異なるなど、もはや同じ宗教法人とは思えません。日蓮や日興真蹟翻刻や研究に特化した「興風談所」などはやや異色の存在でしょう。
顕正会はもともと「妙信講」という講組織でしたが、正本堂建立以降に「国立戒壇説」を強硬に訴え、顕正会として先鋭化していくことになります。正信会の一部が今、この顕正会に接近しているところもあるようです。




創価学会の海外SGI組織は、2014年の会憲制定の頃から、徐々に大場SGI理事長に意見をする国が相次ぐようになります。その中で最も大きかったのはセルビアSGIでしょう。御本尊下付停止措置になってしまい、片野勝・片野典子氏らが中心となって、保田妙本寺に接近する動きまで見せていました。
実はセルビアだけでなく、他にもヨーロッパ諸国のSGIでは内紛が起きていまして、日蓮正宗がこの頃、切り崩しに動いていたこともありました。中には信濃町の国際部通訳に好条件を提示して日蓮正宗に引き込もうとしたほどです。他のヨーロッパ諸国だと◯◯◯◯◯アとか、◯◯◯とか、一時期本当に大変だったという話を聞いています。今はどうなのか知りません。



セルビアSGI保田妙本寺に接近する際に橋渡し的な役割を果たしたのが、誰なのかわかりませんが、恐らくは波田地克利らを中心とするグループであったかと思います。波田地克利氏は元広宣部の資料作成の中心者であり、対宗門論争の急先鋒でした。彼は池田大作氏を現代の転輪聖王と位置づけ、その後、五重相対を拡大解釈した「八重相対」という謎の教義を構築しました。彼の教義は正木正明元理事長に引き継がれていました(私は活動家時代、正木正明氏の指導で「池創相対」等の言葉を聞いたことがあります)。また彼のところに集まったのが、金原明彦氏や林信男氏などで、自活グループを結成しましたが、その後、波田地克利氏と金原氏らは分派して分かれてしまうことになります。



創価学会本部職員を懲戒解雇された元職員三人組(野口裕介、滝川清志、小平秀一)が本を出版したことがきっかけとなり、少し前に公明党支持の姿勢を批判する創価学会内部のグループもありました。れいわ新選組を支持するポピュリズム的な政治姿勢を堅持する会員信徒が多いですね。彼らの多くは池田大作絶対の原理主義集団でしかなく、かつての池田大作氏を絶対正義として強硬な主張をしています。



日蓮正宗法華講は、かつての旧伝統講と大きく異なり、創価学会を切り崩して折伏布教ノルマを達成しようとするような、創価学会寄りの信仰姿勢を持っています。本来、伝統講の人たちは神棚も祀りますし、神社のお札も受け、本尊も日蓮御影とともに曼荼羅を奉る一幅一体式の奉安方法です。それが神札を祀らないようになり、謗法厳戒と称して布教数ノルマを煽るやり方は、そもそも創価学会が始めたものなのです。その意味でかつての伝統講の人たちから見れば現在の法華講は「新参講」でしかありません。
そんな法華講組織ですが、所属する寺院によっていろいろ系統が変わっています。日蓮正宗の信徒はそんなまとまりのない多様な集団の連合体と考えると実態に合っているかもしれませんね。
かつての理境坊所属の妙観講のように、強硬に創価学会組織切り崩しをやる人たちもいますが、最近では趣味のサークルのような形で近づいて勧誘してくるスタイルも増えています。やっていることが親鸞会などとあまり変わらなくなってきているんですね。



どの分派たちもそうですが、自分たちが正しいと信じて生きてきてしまったので、今さら自分たちのやってきた人生が「ウソ」だったとは言えなくなってしまっているんですね。
そして「自分たちこそ正統な教団だ」と信じて、その担保を本尊なり池田大作なり本山なり血脈なりに置き換えて自身を正当化しているのです。



このような正統争いによる分派の果てにたくさんのグループが現れては消えていきました。池田大作氏が会長になった時には、会長就任に反対する「顕徳会」という分派があったことなど、もう殆どの方は覚えておられないでしょう。また福島源次郎氏が創価学会を除名された際に「蘇生講」という分派を作ったりもしました。
とにかく私たち創価大石寺系の歴史というものは、そのようなたくさんの分派に分裂して、醜い正統派論争を繰り広げてきただけだったのです。



「原田会長が悪い」とか「阿部日顕こそが極悪だ」とか「今こそ池田先生にかえれ」とか「池田大作こそ極悪だ」とか、そんなことをあちこちで主張しますが、結局やっていることは「私たちこそ正統なんだ」という子どもじみた自己主張に過ぎないのです。
そのような正統派争いをして彷徨ったところで、どこに行き着くでしょう。真実がどこにもない迷路に入り込んでしまうだけです。
日蓮にも真実はないし、法華経にも真実はありません。釈迦の教えにも真実はないですし、大宇宙のどこかに真実が存在するという考えそのものこそが「誤り」なのです。
常住の法への執着を捨てることしかありません。そんなものに執着するからこそ迷いの人生になってしまいます。



どうか、このブログを読まれている一人でも多くの方が正統性への執着から離れて「正しいものは存在しない」「正しいものは自分で選び取ることでしかない」ということに気がついてほしいと願っています。