いつもみなさん、ありがとうございます。
例えばあるブログで、宿坊の掲示板を批判して、私のブログも批判して、さてどんな面白いことを言うのか期待して読んでいると、結局「日蓮の出世の本懐は弘安2年の戒壇本尊だと思う」って「なんかの冗談じゃないかしら」と思ってしまいました。
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
つまりそういう方々の思考法は、どこかに真実があると考えていて、今までそれでやってきてしまったから、いまさらそれを否定できなくなっているんですね。
私は、どれかが正しい宗教であり、どこかにその真実があるという考え方を基本取りません。
日蓮の弟子たちに六老僧がいて日興だけが正しくて他が間違っていたという考え方も基本取りません。
そして日蓮の中に仏教の真実があるのかと問われれば、それは大いに疑わしいと思っています。
言ってしまえば、日蓮の中にも法華経の中にも真実があるわけではないですし、天台智顗や妙楽湛然の中に真実があるわけでもありません。南岳慧思の中に真実があるわけでもありませんし、もっと言えば龍樹の中にも真実があるとは考えていません。
では釈迦の原始仏教の中に真実があるのかと問われれば、釈迦の中にも真実はないと思います。
どこまで行っても真実はありません。
そういった真実を求める病を否定したことこそが、大パーリ・ニッバーナ経の思想ではないのでしょうか。
他者を拠り所とせず、釈迦本人をも拠り所とせず、自身を拠り所とせよとしたのは釈迦の最後の指導ではなかったでしょうか。
そもそもスッタニパータは確かに釈迦の直接の言辞に近かろうとは思いますが、別段スッタニパータが真実であるとは考えていません。大パーリ・ニッバーナ経にしても同様です。
つまり私たちは真実を求める病に犯されているんだと思います。
どこにいっても真実はありません。ものへの物神性を根底から乗り越えないと本物という幻想を求めて永遠に彷徨うことになるかと思います。そういった方がカルト宗教の陥穽にはまったりするのです。
私が大乗仏教運動に一定の意義を見出しているのは、自ら釈迦の思想を再解釈し、自分たちで思想を語ろうとするその姿勢の方です。
私は一定の思考の型に囚われる必要もありません。検証をして私の認識が不十分だと考えればその時に変えていけばよいだけの話です。
真実とか実在とかがあるとか、何か素晴らしい法が私たちを救ってくれるという考え方をすでに私は取っていません。
真実とか実在とかは存在しません。それを理解しないことには龍樹の意義を理解したことにはならないと私は考えています。
「自身の過去の告白と総括」
追記:
真実を求める病に犯されると、真実がないものを「邪義」として責めたりします。私は自らの真実性を根拠に他宗を批判する考えを基本取りません。そのような過去の創価学会や大石寺の姿勢こそ総括されるべきものであると考えます。