いつもみなさん、ありがとうございます。
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
さらに付言すれば、日興・日目から日道に対して板あるいは紙幅の戒壇本尊が授与された形跡は見られません。
「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺狀ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付嘱分ナリ。大石寺者御本尊ヲ以テ遺狀被成候、是則別付嘱唯授一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、從興師正應御本尊法體御付嘱例者上行薩埵定結要付嘱大導師以意得如此御本尊處肝要ナリ。從久遠今日靈山神力結要上行所傳之御付嘱、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱全體不色替其儘ナリ。八通四通は惣付嘱歟、當寺一紙三ケ條之付嘱遺狀者文證壽量品儀ナリ、御本尊者久遠以來所未手懸付嘱也。」
で、これが出てくる背景を見てみると、当時の重須本門寺(北山)は西山との争いで、武田勝頼の軍勢に押入られ、多数の文書を失ったことは史実からもよく知られています。この時、北山側は本門寺本堂に懸けるべきとされていた本尊も失ってしまいます。