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創価学会の非活メンバーによる語り

興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてこのブログで、幾たびか大石寺奉安堂にある弘安2年建立とされるいわゆる戒壇本尊について、偽作であり、後世の創作であることを重ねて主張してきました。


以前ここでしていた主張はどちらかといえば相貌面での主張であり、『御本尊七箇相承』との相貌の相違、また日興の正応3年の御座替本尊(大石寺客殿安置本尊)との相貌の相違などを指摘してきました。


ここでは日興門流の文書を挙げて、弘安2年戒壇本尊が本当に日蓮在世中から存在していたのかを考える資料としたいと思います。


①重須学頭・三位日順『本門心底抄』貞和5年(1349年)

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。」
(富士宗学要宗第2巻34ページ)

まず①の重須学頭である三位日順ですが、日興より学頭職を譲られた日順が「本門の戒壇」について語っている段で「仏像を安置すること」について言及しています。「本門の戒壇」に安置すべき本尊について戒壇本尊が当時存在していると仮定するとこのような発言が出てくること自体、不自然であると考えられます。



②重須学頭・三位日順『誓文』暦応5年(1342年)
「仏滅後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大漫荼羅」
(同2巻28ページ)

※同じく三位日順ですが「日蓮総体の本尊」と称するものを語る時に「二千二百三十余年」と書かれており、奉安堂安置の戒壇本尊「二千二百二十余年」と相違しています。



大石寺4世日道『三師御伝土代』元弘3年(1333年)
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同5巻12ページ)

大石寺4世である日道もまた「背いてはならない御本尊」を説明する際に「二千二百三十余年」としており、戒壇本尊の「二千二百二十余年」と相違しています。



④下条妙蓮寺5世日眼『五人所破抄見聞』康暦2年(1380年)
末法能弘、本化所図の漫荼羅を以ツて本尊とす、仏滅度後二千二百三十余年ノ間一閻浮提ノ内未曾有ノ大漫荼羅と遊バス也、諸仏菩薩諸世天等ハ衆生利益ヲ肝要トセリ三十余年と在る文永十一年の比よりの御筆ノ漫荼羅以テ肝心也」
(同4巻19ページ)

※興門流の下条妙蓮寺5世日眼の発言ですが、三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心とまで言われています。ちなみに戒壇本尊の記述は「仏滅後二千二百二十余年」であり、ここでの「仏滅度後二千二百三十余年」とやはり相違しています。