気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

池田大作の虚像と実像。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回、創価学会の名誉会長である池田大作氏について、私の持つイメージを簡単に書いてみたいと思います。



何度となく私は池田名誉会長について、その「世界的指導者」とか「平和運動家」とか、仰々しい言葉で語られるものを「作られた虚像」であるとしてきました。
例えば私は池田名誉会長のピアノ演奏などについてブログで書いたことがあります。


「池田名誉会長のピアノ」


本来池田氏という人は、創価学会の布教の方法論、また選挙戦の方法論をほぼ現在の形に確立した人です。
地区の名簿から全有権者を割り出し、票数を洗い出し、投票日から勝利の算段を立てる。そして遊撃のような形でいろんな手を打っていく。
央忠邦氏も著作中で指摘していましたが、池田氏は決断が早かったので、即断即決で様々な手を打ち、選挙戦や拡大戦で結果を出してきました。


最大の問題は、池田氏の功績を評価し、讃えるあまりに、池田氏本人と信濃町が一緒になって「平和思想家」とか「世界的指導者」という虚像を少しずつ膨れ上がらせてしまったことです。


本来、池田氏は江戸弁が似合う庶民的な人で、本人自身、青年時代から貧しい生活を送り、結核で苦しんできました。言わば「病人と貧乏人の団体・創価学会」を体現するような人でした。溝口敦氏も「一口に病・貧・争と言われるが、池田はそのすべてを体験した」と述べています。


「私も新潟鉄鋼にいっておったときに、戦争中です。諸君みたいに裕福な勉強もできなかった時代です。軍国主義の真最中ですから。私は肺病でした。今の体の半分しかなかった。血痰をはきながら、行かなきゃなんないが、ずいぶん休んだけども、会社も。国賊みたいに言われたもんだ、近所から。」
池田大作、第2回創友会総会、昭和51年11月6日)


池田氏は入信してすぐはさほど積極的な会員ではありませんでした。


「最初から創価学会の全てが納得でき、戸田先生の言葉が、理解できて信仰したわけではない。信ずることにせっかちな余りの一般会員の強引さや、情熱にまかせて陥りがちな壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある」
池田大作「自己変革と宗教者」『中央公論』昭和46年7月特別号)


貧しく病気ゆえにやや内向的な性格であった池田氏は次第に少しずつ自身の課題を克服し、信仰の道で生きていくようになります。克服された時、池田氏は功徳と考えたのでしょう。ただ問題は池田氏の思想にはそのような利益主義的な側面と大石寺日寛由来の教義くらいの内実しか存在しないにも関わらず、次第に池田氏が自身の思想を尊大に大きく見せようとし始めていったことです。
具体的に言えば、小説『人間革命』における入信の逸話の創作と事実の隠匿です。以前ブログでも書きました。


「池田青年の入信の事実」


溝口敦氏は次のように述べています。


「池田には庶民の出自として親しめる一面があるが、彼はその権力の肥大化とともに、『若き日』を語らず、語ったとしてもひと理屈つけて自己の偉大さを証するためだけに語るようになる。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社、2005年)


御大は昭和40年頃に『御義口伝講義』を発刊しますが、前書きで池田氏本人が述べているように、あの講義の草稿はほぼ原島嵩氏によって書かれたと考えられます(講義をしたのは当然池田氏本人ですが)。当時池田氏原島嵩氏とともに『御書と四条金吾』などを発刊、教学的な基盤を原島氏とともに構築してきました。その最大のポイントこそが「御義口伝を生命論の次元から解釈する」というところでしょう。このへんの視点は原島嵩氏や川田洋一氏に見られたところです。つまり特別書籍のメンバーたちの考えを取り込み、池田氏はそれらを自身の思想として無反省に展開してきたのだと言うことです。


トインビー対談も実質的に書籍代筆グループによって書かれたものです(レコードには対話の全文が収録されていないことからも明らかです)。この対談も実質的に原島嵩氏の生命論的視点から解釈された日寛教学を自在に現代的に駆使した内容でした。


それらを自在に解釈して、自由に話す度量や大胆さのようなものが池田氏にあったことも事実です。池田氏はどこか大胆にスピーチを展開する才覚のようなものがあり、聞き手を巻き込む魅力がありました。そして池田氏周辺もまた師匠の宣揚のために喜んでさまざまな協力をしてきたのです。


池田氏は自身でスピーチ原稿や詩歌、和歌、メッセージ等を書くこともありますが、第一庶務や池田氏の周辺が作ることも少なくありません。つまり代筆の実態は以前から常態化していたと考えるのが自然でしょう。
このことは創価学会元本部職員の三人もブログ中で実態をきちんと告白しています。


「②学会本部の師匠利用の実態と私たちの決意」


例えば会員に激励と称して池田氏の押印和紙等が配られますが、あれは池田氏によって押されたものではありません。本部の第一庶務、会員奉仕局が作っていることは上記の三人組のブログ記事などからも明らかです。


私は池田氏を悪し様に罵りたいのではありません。そうではなく実像をきちんと語りたいだけなのです。
池田氏が貧しい人、弱い立場の人、一会員に見せる思いやりの深さ、優しさのようなものがあったことは事実です。その思いやりによって奮起した会員は決して少なくありません。池田氏にはどこか庶民的な親しみやすさがあり、それはどこか戸田会長にも共通する特徴でもありました。


そして会を爆発的に拡大することに成功した池田氏は次代のリーダーとして頭角を現します。そして次第に日寛教学への過信、自己の確信への過信から、次第に在家主義的傾向を強め、「世界的指導者」という虚像を作り上げてしまったのです。
そこに悪気はなかったはずです。池田氏周辺も、第一庶務や側近、原島嵩氏や川田洋一氏、その他文芸部や国際部も、池田氏を称揚することに自分たちの活動を見出してきたのです。


その結果、その虚像は引き返せないところまで大きくなってしまい、もはや会員は池田氏を疑うことさえできず、その庶民的な好々爺然たる池田氏の実像との乖離ははるかに大きくなってしまったのです。


それらの虚像を生み出した責任は、信濃町池田氏本人、その両者に帰せられるべき問題でしょう。
だからヨハン・ガルトゥング氏が安保法制について池田氏を諌めるような発言をしても、氏は沈黙することしかできないのかと私は思います。


池田氏も一頃よりも体調を回復され、信濃町の第2別館で過ごすことも多いようですが、実質的に池田氏は現在の信濃町の運営を黙認・容認しているということです。
原田稔さんは昭和54年前後、当時青年部長だった人物です。第一次宗創問題の際に師弟を強調、師匠との血脈ということを当時激しく主張していたのは、他の誰でもない、原田さんでした。
現在の創価学会信濃町の執行部もまた、池田氏を師匠と仰ぎ、氏とともにその尊大な虚像を作ることに腐心してきたと私は考えています。もちろんそれは宗教的な使命感からなされたもので、そこに悪意はなかったと私は考えています。しかしそのために庶民的で親しみのある池田氏の実像は見失われ、大き過ぎる虚像を生み出してしまったのでしょう。


私はやたら戸田会長との師弟とか在家主義とかの正統性を強調するような池田氏の虚像より、親しげで平凡で庶民的な実像の池田氏の方がずっと好きですね。
教義のドグマ化による個人の束縛は、悪意から始まるのではなく、単なる凡人が己を見失って虚飾で偽り始めた時から始まるのだと思います。