気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

名もない一人の人を大切にしなかった教団。

 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私たち家族は皆がかつて創価学会の活動家として、その人生の大半を教団のために捧げてきました。
お金がない中でも、たった1部の聖教新聞の営業で、他者への贈呈に使う、そんな家族でした。
私の父は池田大作参謀室長・総務時代の入信で、石田幸四郎部隊長率いる第47部隊で活動した人でした。その後、石田幸四郎が男子部長と出世していく中、彼の後を継いで新しく組織改編された部隊の部隊長になりました。
その後、父は(推定されるに)男子部言論第一部に所属し、公明党の機関紙の前身の刊行に尽力することになります。
父は輸送班としても活躍し、池田大作の会長就任式でも整理役員として活躍しました。伝聞によるなら父は日大講堂内の役員「総括」として名を馳せ、その後は輸送班の「鬼隊長」と恐れられたと言われています。
 
「鬼隊長」という怖い異名を取りつつも、父は穏やかな性格で教学に強い人でした。新宿で父はとりわけ慕われ、たくさんの部員さんが父に指導を受けに来たことを私は子ども心に覚えています。その姿を見て私は子ども心に父が誇らしく思えたものです。宗教に洗脳された、そんな子どもが私でした。
 
私は青年部時代、たくさんの記念会館に行くことがありました。千葉の銚子会館には水滸会のメンバーの碑文がありました(今もきっとあるのでしょう)。池田大作先生の息のかかる創価学会本体は、そのように「見えない人たちに光を当て、見えない人たちを称えていく組織」なのだと信じていました。
正本堂御供養がそうですが、御供養に参加した人たちの名簿は永年に保管することが決定されていました。そうやって私の父や母、祖母や祖父たちの名前も後世に遺していくのが創価学会の精神なのだと思っていました。
 
私は高校を出て、創価大学文学部に進学しました。身体の弱い私が寮生活を送り、アルバイトをし、1日3時間の唱題をしていたことに母は驚いて涙を流していました。私のことを聞いて地元の地区の婦人部が涙ながらに私の進学のことを訴えていました。私は自分のやるべきことをやりたいと考えていただけなのに、たくさんの人から私は知られることになりました。
 
創価大学を卒業すると各期の銘板が学内の壁面に設置され、名前が保管されます。卒業後にその名前を見て誇らしげな気持ちになったものです。
私は創価学会が過去の「名もない、栄光もない活動家たち」のことを忘れず、顕彰する組織なのだとその時もまだ信じていました。
 
父の亡くなる前に私は「父の部隊のことを記念して池田大作先生が植樹をしてくださった」ことを聞きました。父の遺言は「創価大学の敷地内に私が石田幸四郎さんから引き継いだ部隊の名前を冠した植樹が必ずあるはずだ。もう私はそれを確認することができない。お前に託すから、見つかったらせめて手を合わせて私のことを思い出してほしい」、大要、そう言われました。ほどなくして父は亡くなりました。
 
私は創大祭等で創価大学を訪問した折、敷地内をくまなく歩き回り、父の記念植樹を探しました。しかし行けども行けども見つかりません。池田記念講堂脇の文学の池との間の道沿いには昔のものと思われる植樹がたくさんありました。しかし父の部隊の木は見つかりませんでした。
 
白萩寮の坂から右に下り、旧裏門(万葉の庭と万葉の家があった辺りです)に行くと、旅立ちの庭と「1期生の碑」「周夫婦桜」(本体)が見つかりました。しかし庭は手入れがされていないのか蜘蛛の巣だらけ、1期生の碑文も鳥のフンにまみれて、見ていてあまりに可哀想でした。周恩来記念の桜もこちらにあるのが本来のオリジナルであるはずなのに、蜘蛛の巣や鳥のフンが散乱し、雑草が延び放題、タイミングが悪かったせいかもしれませんが、その時はあまり綺麗に手入れされている印象を受けませんでした。
私は創価大学文系A棟の庶務課、学生課等を訪ね、父の植樹のことを聞いてみました。ところが庶務課の人たちは「どこにどんな植樹があるのか、大学本体は把握していない」という冷たい答えが返ってきました。
 
それから数年後、私は創価大学下の東京牧口記念会館で、牧口記念庭園に入る機会がありました。広大な庭園で、森の中を石段で下りたり上がったりして進む中、牧口常三郎や戸田城聖の胸像がありました。そしてその石段の坂の脇、森の中に無数に小さな看板が提げられた「記念植樹」が存在することに気づきました。
私は血眼になって父の部隊の植樹を探し回りました。しかし看板は石段の経路から見下ろすととても小さく、その字を判読するのが難しかったのです。私は時間内、死に物狂いになって父の部隊の数字を冠した木を探しました。が、結局、見つかりませんでした。全てを追うことができませんでした。
 
私は青年部時代、広宣部として活動しました。しかし活動が終われば単なる用済みの組織、誰にも見向きもされませんでした。むしろ広宣部出身で活動した人間たちの中には退会した人も少なくなかったからか、なぜか組織で冷遇されたように感じました(単なる私個人の感覚かもしれませんが)。優秀な人は大抵、公明党の地方議員として飛ばされました。体の良い人払いのように感じてしまいました。
 
私は広宣部時代、独自に資料も作成し、対論のためのプリントを作成しました。多くの現場にも出向いて対論をしました。
しかしそれらの活動は全て夢の中の出来事、すでに過ぎ去った幻にすぎません。私の活動には何の意味もありませんでした。そして父の活動も誰も覚えておらず、母の活動も誰も覚えてなどいませんでした。
 
私のことは別にどうでもいいのですが(単に熱に浮かされたように活動していただけかと思うので)、あれほど組織に貢献してきた父のことを誰も何も顕彰もせず、記憶もせず、ただ忘却されるに任せました。父の部屋にはかつて一部の幹部にしか授与されない特別御形木御本尊も特別な御守御本尊もありました(私は子どもの頃にそれらを特別に父から見せてもらったことがあります)。また正本堂の妙檀の木の一部も家にありましたし、細井日達の書いた大きな書まで置いてありました。
 
私の父も母も、そして私自身もただの小さな活動家、小さな一信者に過ぎませんでした。私は若い頃、創価学会はそういう「見えない人たちを大切にして称える組織」なのだと勝手に勘違いしていました。それは私の単なる先入観と誤解に過ぎませんでした。創価学会は一部の有名な人たちを大事にするだけで、一信徒はただの一信徒に過ぎませんでした。
 
私は父も母も亡くし、放心状態になりました。
他のブログ記事でも書いているように、私はブログを書くことを思いつきました。しかし私のことなど誰も覚えていないし、誰も見向きもしないし、誰からも相手にされないと思っていました。ただ私は自分がやってきたこと、学んできたこと、信じてきたこと、その嘘、真実、それらを明らかにしたかっただけなのです。
どうせ父や母のように一人で死んでいくなら、せめて納得して死にたい、そう私は思いました。
ブログを書いていくうちになぜか反響がありました。なぜか私のブログが多くの創価学会信徒さんに読まれ、評価されるようになりました。多い日は1日に数千件のアクセスがあり、総アクセス数は414万を超えました。はてなブログ読者は280人を超えました。雑誌『宗教問題』からもインタビューを受けるまでになり、長井秀和さん等からも高く評価されるに至りました。2016年9月からブログを書き続け、2026年現在でちょうど10年目になります。
創価学会から私は全く評価されませんでした。壮年部では冷遇の上、幹部からは遠ざけられ、私は活動から離れて非活になりました(やがて退会するに至ります)。ところがブログを書いた途端に多方面からの反響に出会い、この10年間、正直驚いているというのが率直な感想です。
 
私の父が尊敬していた幹部たちは石田幸四郎、竹入義勝、有島重武、諸富文紀、渡部一郎、多田省吾と言った人たちでした。しかし今の組織の方のどれほどの人がその方々を覚えているのでしょう。
私は創価学会や日蓮正宗に恨みを抱いているのではありません。
幼少期の私が病身の身体を克服したこと、貧困だった家庭が前を向いて希望を持って生きてきたこと、組織として多くの方と苦しみを分かち合い、涙を流しながら生きてきたこと、一つ一つが思い出と言えば否定はできないでしょうし、そのために信仰が一つの生きる力になったことは間違いのないことでしょう。
創価学会の罪深さは、そのようにして組織信仰で生きてきた私たちを会の手足として働かせ、貢献させ、挺身させておきながら、都合が悪くなり、不要になると手のひらを返し、切り捨ててきたことです。
組織に従順な人だけを大切にし、都合が悪くなれば私の父も切り捨ててきたのです。
 
今、創価学会の地区の現場では、高齢化・人口減と相まって活動家が急速に減り続けています。その原因は単なる高齢化・人口減だけでは説明できず、一人一人を大切にせず、切り捨ててきたことに愛想を尽かし、教団の欺瞞に気付いたかつての活動家たちの多くが、非活や未活を選んでいることにも原因の一端はあるように思います。その意味で創価学会は名もない一人の人を大切にする組織ではなかったのだと思います。
 
 
 
 

 

灰身滅智について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて皆さんは「灰身滅智」(けしんめっち)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
これは以前の宗創和合時代、いわゆる「日蓮正宗創価学会」の時代によく使われていた語で、現在の創価学会ではほとんど使われない言葉です。法華講の方は今でも使われるかもしれませんね。
 
これは中国仏教や日本の仏教で使われた用語でして、大乗仏教における成仏に対し、それ以前の仏教(部派仏教等)の成仏を批判する際によく用いられていた語です。
大乗仏教はそれ以前の部派仏教諸派を「小乗仏教」と卑下し、批判します。その際、部派仏教や初期仏教が前提としていた「四聖諦」「十二因縁」を克服した成道の姿として「煩悩も肉体も完全に滅し尽くした無余涅槃」に至る状態を指すのが「灰身滅智」です。
そのような部派仏教の考え方は、肉体を滅ぼす利己的で実践不可能な修行法として大乗仏教諸派から批判されることになります。
 
ところが、この「灰身滅智」という言葉は、中国仏教では『大智度論』『天台四教儀』や『金剛仙論』等で扱われ、日本でも空海の『秘蔵宝鑰』、最澄の『一乗要決』でも引用されるのですが、肝心の部派仏教や阿含経典、初期仏教には見られない考えなのです。少なくとも私は『スッタニパータ』や『ダンマパダ』『サンユッタ・ニカーヤ』等を読んで、「肉体も煩悩も滅し尽くす」という考えを見たことがありません。
実際、『Web版・新纂浄土宗大辞典』(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8)で検索すると、「灰身滅智」はこの語は阿含経典や部派仏教の諸論書には現れず、大乗仏教の諸論疏にしか見られないことから、その典拠も明らかではなく、部派仏教の姿勢を批判する大乗仏教側が造語した可能性もあるとされているのです。

したがって「灰身滅智」(欲望を断じ尽くすために肉体と煩悩を滅ぼす)という教義は、恐らくは大乗仏教側が部派仏教を批判するために作った言葉であり、本来初期仏教にも部派仏教にもそのような考え方は存在しなかったのでしょう。一部の保守化、また先鋭化した部派仏教諸派が「灰身滅智」のような極端な教義を採用し、それらが大乗仏教側から批判された可能性もあるのかもしれませんが、そもそもその論拠が諸資料、文献から確認できない以上、大乗仏教側からの「灰身滅智」という批判は正当なものとは言えないと私は思います。
 
日蓮はこの「灰身滅智」という教義をいくつかの御書で引用しています。それらは『一代聖教大意』等、教判的な文脈で引用されていますので、天台宗系の教判の根拠として「灰身滅智」の教義が阿含に説かれる立場を採っていたのかと考えられます。以下に「灰身滅智」が引用される御書とそのページ数(創価学会旧御書全集)を挙げてみましょう。なお創価学会版御書全集に不掲載の『本門戒体抄』と『戒体即身成仏義』については昭和新修『日蓮聖人遺文全集』から「灰身滅智」の用例の掲載ページを載せてあります。
 
『一代聖教大意』日目写本現存、390
『十法界明因果抄』日進写本現存、433、434
『三世諸仏総勘文教相廃立』真蹟古写本不存、559【灰身入滅】という語での用例で2箇所】
『始聞仏乗義』真蹟現存、984
『太田殿女房御返事』真蹟現存、1005
『太田左衛門尉御返事』真蹟古写本不存、1014
『本門戒体抄』創価学会版不掲載、真蹟古写本不存、新修1795
『戒体即身成仏義』創価学会版不掲載、真蹟古写本不存、新修4
 
実際、『一代聖教大意』冒頭を見ると「三蔵とは阿含経の意(こころ)なり」「無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり」と書かれていますから、日蓮自身は阿含部の基本を三蔵の経律論とし、十二因縁と対峙する過程で煩悩を断じ無漏の境地に至って「灰身滅智」して成道するのが阿含部の悟りと考えていたのかと推察できるでしょう。
しかしながら、既に見たように、初期仏典の中に「身を灰にして煩悩を断じて滅ぼす」という考え方を私は見たことがありません。もしそれらが部派仏教諸派にあるのなら、それらの教義を彼らの論疏等から具体的に引用して批判されるべきかと思います。
それらが見られないということは、鳩摩羅什や龍樹以降、中国仏教では部派仏教を批判するために、彼らの成道を「灰身滅智」に至るものというレッテル貼りをして批判した、そしてその考え方は中国仏教を通じて日本に伝播し、広く一般的なものになってしまったのかと思います。
 
 
 
 

 

独裁者チャウシェスクと「意見の一致をみた」池田大作。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
以前ですが、私は池田大作がルーマニアの独裁的指導者であったニコライ・チャウシェスクと会見していたことを記事に書いています。
 
「池田氏とチャウシェスク氏との交友」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/06/19/000000
 
当時の創価学会の機関誌『大白蓮華』を確認すると、実はこのチャウシェスクと池田大作氏との会見は肯定的に評価されていまして、池田大作SGI会長の1983年の海外歴訪に同行した幹部らが同誌に明確に書いていたことがわかりました。
 
当時、池田大作に同行した山崎良輔副会長の記事から見てみましょう。

 
「チャウシェスク大統領との会見は約五十分に及び、率直に意見を交換できた。ことに核軍縮の重要性、新たな核兵器の開発や配備の中止、既存設備の廃絶などが真剣に話し合われ、平和への国際協力がぜひ必要だとの点で意見の一致をみた。
六十五歳の大統領は十一歳で革命運動に身を投じ、以来、入獄、戦争と半世紀に及ぶ難局を経験してきた。SGI会長が、少年時代の夢は何ですかとたずねたところ、ルーマニア民族のために理想の社会を実現することだった、そのために働き、戦ってきたと述べていた。
民衆に尽くし切ったがゆえに、大きな信頼と支持を勝ち取っており、大統領の立場を九年間務めあげている。それだけに、平和に対する願望は強烈であった。意見を真剣に交わし終わったあと、「たびたび訪問してください」と大統領は手を差しだした。」
(山崎良輔「同行記」、機関誌『大白蓮華』1983年8月号所収、29〜30ページ、聖教新聞社)

 
山崎良輔氏は、同記事で、1983年の32日間にわたる池田大作氏のヨーロッパ訪問を「平和旅」と呼んでおり、この記事は「世界平和」のために「激闘」する池田大作氏を讃える内容となっています。
その中で、ニコライ・チャウシェスクは池田大作氏と新たな核兵器の開発や配備の中止、既存設備の廃絶等について真剣に話し合い、平和への国際協力が必要という点で意見の一致をみたと書いています。
 
ところで、そのニコライ・チャウシェスクは1974年の大統領就任から何をしたか、彼はハンガリー系住民を弾圧し、独自の民族主義路線を強めて、さらには「チャウシェスク讃歌」を青少年に歌わせるなど、極度の個人崇拝・独裁主義路線を推し進めていたのです。
やがて1989年12月16日、ルーマニア北部のティミショアラで、反政府活動家であったハンガリー系の牧師に対する警察の強制連行を阻止しようと集まった市民に対し、チャウシェスク大統領が武力弾圧を命じて非常事態宣言を出すことになります。ところが、この集まりはやがて数万人に膨れ上がり、鎮圧は失敗に終わります(ルーマニア革命の発端)。チャウシェスクは対抗するために同21日に大統領支持派の集会を開きますが、支持派の集会であるにもかかわらず、群衆から「チャウシェスク打倒」との声があがり、民衆側の反発は抑えられない状況に達してしまいます。
その日の夜に大統領官邸に群衆が押し寄せ、軍に大統領から発砲命令が出されますが、軍さえもそれを拒否。ヘリコプターで脱出しようとしたチャウシェスクでしたが、着地したところで取り押さえられます。
チャウシェスク夫妻は軍事裁判にかけられ、国家に対する犯罪、民衆を苦しめる一方で贅沢な暮らしをしていた罪状等をあげられて、即日で銃殺刑に処されることになります。
 
創価学会はニコライ・チャウシェスクをどう評価するのか、現在はどう評価するのか、全く述べていません。1983年はチャウシェスクの個人崇拝が強まり、独裁的傾向が高くなっていた時期と重なります。そんな時期に社会主義国家としてのルーマニアを訪問し、池田大作とニコライ・チャウシェスクが「意見の一致をみた」国際平和について、どのように考えるべきなのでしょうか。
そのような疑念に何も答えることをせず、過去を誤魔化してなかったことのようにする姿勢こそが私は誤りだと考えます。
 
 
 
追記
今回、一ブログ読者の方より謝意とともに、史料提供の申し出があり、非常に貴重な過去の『大白蓮華』を多数寄贈いただきました。本当にありがとうございます。今回の記事もその方が提供してくださった『大白蓮華』から引用して書かせていただきました。改めて感謝申し上げます。
このブログは、たくさんの方の協力によって支えられていることを改めて知ることができました。みなさん、本当にありがとうございます。
 
 
 

 

 

 

「創価学会を弾圧したために、大東亜戦争は負けた」と考えていた池田大作。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会の初代会長である牧口常三郎、そして2代目の会長である戸田城聖は、15年戦争当時、決して戦争自体に反対していた訳でなく、むしろ「日蓮正宗の信仰を根本にして戦争に打ち勝つ」ことを信徒に訴えていました。当時の創価教育学会は何ら戦争自体に反対などしていなかったのです。そのことは何度となくブログで記事として書かせて頂いています。
 
「戦争に勝ちたかった戸田城聖と牧口常三郎」
 
「戦争を肯定していた牧口常三郎」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2022/04/16/151813
 
「戸田城聖(妙悟空)著『人間革命』初版の改竄」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2023/01/28/081015
 
「牧口常三郎らは戦争反対の容疑で逮捕されたのではない」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2026/04/27/000000
 
「戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/10/20/000000
 
 
 
上記の記事、どこからどう読んでも構いませんが、どこから読んでも牧口常三郎、戸田城聖ら、当時の創価教育学会が戦争に反対しておらず、むしろ信仰の力で戦争に勝つことを切望していたことがわかるかと思います。
例えば戸田城聖氏は小口偉一氏のインタビューで戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。と述べていますし、小説『人間革命』(戸田城聖著)でも戸田城聖は宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てるとまで述べています。それがいつの間にか、創価教育学会自体が戦争に反対したようにすり替えられ、牧口常三郎らがまるで反戦平和主義者でもあったかのように史実が歪曲されていくのです。
 
今回、ご紹介したいのは昭和36年5月9日、会長時代の池田大作が京都府舞鶴市の実土寺入仏落慶式で行った会長講演です。この実土寺は創価学会により建立寄進されたものです。
この会長講演の中で、池田大作は先の戦争を「大東亜戦争」と呼称し(この講演のみならず、当時の池田大作氏は「太平洋戦争」や「15年戦争」という語を使わず「大東亜戦争」という語を常に用いています)、しかも日蓮正宗・創価学会を弾圧したがために「大東亜戦争は負けました」と発言しているのです。
 
 
「大東亜戦争の時には、この舞鶴の地は、有名な軍港でありました。大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は全部といっていいくらい軍部と結託しました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です。また大東亜戦争中は、わが創価学会は真っ向から軍部と戦って初代の会長、また二代の会長戸田先生も牢にはいられました。あくまでも日蓮正宗、そして創価学会は、真実の幸福と真実の平和のために戦っている教団であります。その日蓮正宗を、創価学会を弾圧したために、大東亜戦争は負けました。正法に反対して勝つわけはありません。その『地獄の使い』として、何百万人の人が帰ってきたのは、舞鶴の地ではありませんか。」
(池田大作『会長講演集』第2巻、143〜144ページ、創価学会、昭和36年)

 
いかがでしょうか。池田大作はここで明確に「正法に反対して勝つわけはありません」と述べています。つまり「正法に反対しなければ戦争に勝った」ことになります。しかも池田氏は「大東亜戦争」と呼んでおり、戦時中の大東亜共栄圏構想をここで否定していないのです。
つまり会長就任直後、昭和36年前後の池田大作もまた、牧口常三郎や戸田城聖らとともに「正法に反対したからこそ大東亜戦争に負けた」と考えており、戦争自体に反対した反戦主義者ではなかったことになるでしょうし、また少なくとも反戦主義ではなかった牧口、戸田らの行動を池田大作は肯定していたことになります。
 
 
 
 

 

複数のブッダ。

 
 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて私は以前、こんな記事を書いています。
 
 
原始仏典を繙けば、「ブッダ」と呼ばれる人は釈迦だけなのではなく、むしろ釈迦は釈迦以外にも「目覚めた人」としての「ブッダ」を認めているのです。
また『スッタニパータ』386節では「目覚めた人」(単数形:buddha)を「諸々の目覚めた人々」(複数形:buddhā)と呼び、ブッダを複数形にしているのです。
 
「普通の人間としてのブッダ」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2023/02/06/000000
 
ところで、このような複数のブッダを前提とするブッダ観は「誰もが解脱してブッダになれる」「既に修行してそのようなブッダが複数存在する」ということを示しています。事実、東洋大学の渡辺章悟氏は著作で次のように述べています。
 
「複数のブッダは最初期の仏典として知られる『スッタニパータ』(第81, 85, 86, 386, 523偈)にすでに見られるように、誰でも解脱してブッダになれるというのが、本来の仏教であった。それが部派仏教の時代になって、ブッダを神聖化し、特別視するようになり、その結果ブッダはシャーキャムニ、過去の六仏、未来の弥勒仏のみに限定されるようになったのである。その意味で大乗はむしろ最初期の仏教の考え方に近い。」
(渡辺章悟「大乗仏教」、菅沼晃博士古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』所収、141ページ、大東出版社、2005年)

 
さて『スッタニパータ』では妄執から離れ、執着から目覚めて離れることを教えています。それらを果たした人が「ブッダ」「目覚めた人」の意味なのであれば、「成仏する」「仏になる」と言うことの真の意味は「執着から離れて目覚めること」なのであって、殊更に「大宇宙の生命と合致する」とか「御本尊に境地冥合する」と言うことを釈迦は説いていないことになります。『スッタニパータ』等の原始仏典で説かれる仏である「諸々のブッダ」「複数の目覚めた人々」とはそう言う妄執、形式、執着から離れた人のことを指すのです。創価学会や日蓮正宗の信者は初期仏教の成仏を「歴劫修行」のように批判しますが、それらは漢訳大乗仏典によって作られた概念なのであって、釈迦の在世の初期教団では既に仏としての「ブッダ」が複数存在していたことになります。誰も「歴劫修行」などしている訳がありません。
さて『スッタニパータ』から引用してみましょう。
まず81節です。
 
「詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。」
(中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)25ページ、岩波文庫、1984年)

 
ここに書かれていることの趣意は「バラモンはヴェーダの詩を唱えて食物などの謝礼を受けるが、仏教の修行者はそれらをしてはならない」と言うこと意味です。そしてそれらを斥ける人たちを「諸々のブッダ」「目覚めた人々」としています。と言うことは当時、釈迦の初期教団の中で既に「目ざめた人々」が複数存在しており、そのブッダたちの生活法が教義や生活律として確立していたことになるでしょう。
 
次に『スッタニパータ』85節〜86節を見てみます。
 
「鍛治工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を〈道による勝者〉と呼ばれるのですか? また〈道を習い覚える人〉はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、〈道によって生きる〉ということを説いてください。また〈道を汚す者〉をわたくしに説き明かしてください。」
「疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間を導く人、--そのような人を〈道による勝者〉であると目ざめた人々は説く。」
(同27ページ)

 
ここで「道による勝者」について、中村元氏の注を見ると「道による勝者とはbuddhasamaņaのことである。これを逆に解すると、ブッダとは、世の中に多数いる修行者のうちの一種類に他ならない」(同269〜270ページ)と述べられていまして、ブッダが多数いる修行者の内の一つでしかないことがわかります。つまりブッダとは釈迦の在世の頃から複数存在していたものであり、執着を離れた「ブッダ」は釈迦以外にも存在したことになります。つまり仏とは執着を離れたものなら誰もがなれる境地なのであって、別に題目を唱えたり、呪文を唱えたり、布教活動や選挙活動に勤しんだりすることは必要にはなりません。大乗仏教以降に作られた仏の概念とは全然違うことがここでわかるでしょう。
そして、ここで教えを説く主体は釈迦本人なのではなく「目ざめた人々」、すなわち複数形のbuddhāです。当時から既に「ブッダ」は修行者のうちに複数存在しており、何ら特別なものでもないことがここからもわかるでしょう。現代では「成仏」を何か特別なことのように強調しますが、釈迦の時代は誰もが執着を離れて修行のうちにブッダになっていたのであって、何も法華経で成仏ができるという約束をされる必要もないし、記別を受ける理由もないということなのです。そう言った後世における「成仏」の概念は後世に作られて解釈された創作品であり、本来の釈迦の考え方や当時の教えとは異なることになるでしょう。
 
 
追記
 
そもそも大乗仏教側から「過去の仏教は長い年月の修行をしないと成仏できない」として「歴劫修行」を述べたのは、後世の偽作の『無量義経』説法品です。これに対し『無量義経』十功徳品で「速疾頓成」すなわち速やかに成仏することを説いています。しかしこれら大乗仏教側、無量義経による「歴劫修行」とする過去の仏教への批判は的を得ておらず、そもそも上述のように既に『スッタニパータ』の時点で釈迦の教団内外に複数の「ブッダ」が存在していたことになります。
 
 
参考文献
 
渡辺章悟「大乗仏教」、菅沼晃博士古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』所収、大東出版社、2005年

53世日盛の退座。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さてこのブログでは大石寺の貫主の血脈が数度に渡って断絶していることを何度か書いています。
 
 
この中で書いていることは次の通りです。
 
①3祖日目から4世日道への付属状が無い。
 
②6世日時から代官7世日阿に相承が預けられるも、8世日影晋山前に日阿逝去。在家の柚野浄蓮に預けられる。
 
③10世日乗と11世日底の行方不明と9世日有の再往。
 
④12世日鎮から当時わずか9歳の13世日院に相承後、日院は13歳になってから晋山。
 
⑤15世日昌死後、16世日就の晋山が遅れ、理境坊日義が血脈を預かり、付属。
 
⑥17世日盈に付属したのも理境坊日義であり、18世日精は日就から血脈を受けておらず、日盈にも血脈相承を与えていない。
 
⑦日精から血脈相承を受けたことを当時主張したのは、異流義の三鳥院日秀である。
 
⑧19世日舜は敬台院により推挙されるが、正法2年10月27日まで血脈相承を受けておらず、その間は血脈が断絶している。
 
この辺の事情を上記のブログ記事、及び関連の記事でいろいろ調べて書いたことがありますが、そもそも時系列に血脈相承が続いておらず、在家に飛んだり、空白期間が存在したり、行方不明だったり……あまりに途切れ途切れで、全然大石寺の血脈相承は繋がっていないのです。
 
加えて今回紹介したいのは、江戸時代〜明治期における大石寺の血脈相承の断絶です。この辺の血脈相承について、大石寺発行の『富士年表』の記述がバラバラで、全く血脈の次第を追えない酷いありさまなのです。
まず大石寺の主張する法主の登座の順番を整理してみます。
 
51世日英(にちえい)
52世日霑(にちでん)
53世日盛(にちじょう)
54世日胤(にちいん)
 
今回はこの4人に絞ります。実はこの後の世代の血脈相承もかなり珍妙な登座になるのですが、それは煩瑣になるのであえて割愛します。
 
まず『富士年表』では1853年(嘉永6年)6月20日に51世日英から52世の日霑に血脈相承がなされたことがわかります(『富士年表』345ページ)。

 
次に『富士年表』で52世日霑から53世日盛へ血脈相承がなされたのが、1862年(文久2年)12月になります。なぜか日付は不明です(同349ページ)。

 
問題はこの次です。1865年(慶応元年)2月28日に大石寺では火災が発生し、客殿と六壺、大坊を焼失します。この年、5月7日に53世日盛は血脈相承も授けずに大石寺を下山。わずか3年で日盛は退座してしまい、何とその後に栃木県の平井信行寺に行ってしまいます。54世はこの時、確定していません。同年5月7日に51世日英が再往。さらに閏5月15日には日英までもが大坊を辞し、52世日霑が再往する形になってしまいます。

 
これには事情もあります。実は日俊・日英・日盛系の派閥と日永・日霑系の派閥とが大石寺内に当時形成されつつあり、大石寺で火災が発生し、客殿焼失の責任を問われた日盛が大石寺を追われる形になってしまいます。日霑も介入に入ったようですが、当時の大石寺大衆が納得しなかったのでしょう。
 
結果として53世日盛は誰に血脈相承をすることもなく、大石寺を下山してしまいます。その後、日英と日霑の再往を経て、何と4年後の1869年(明治2年)11月1日に52世日霑から54世日胤に血脈相承がなされることになります。先代の53世日盛が存命であるにもかかわらず、先々代の52世日霑が54世日胤に血脈相承を授けるという異例の形になります。ちなみに53世日盛が亡くなるのは1892年(明治25年)6月2日のことです。
 
大石寺の血脈相承が「法灯連綿」と信じる方がいるのは別に構わないことですが、史実をきちんと見れば、一本の線で繋がっているのではなく、事態は途切れ途切れになってしまっているのです。
 
 
 
 

 

『御義口伝』冒頭は『当体蓮華抄』を使って偽作された。

 
 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は、偽書『御義口伝』冒頭の「序文題目釈」の扱いについてです。
 
 
というのもX(旧Twitter)上で、『御義口伝』冒頭の序文題目釈の部分から引用した際、フォロワーさんから指摘が入ったからです。
「気楽さんは何の版をお使いですか?」「妙覚寺版や大正蔵ではその部分は存在しません。」という話になり、慌てて諸版を確認することになりました。
 
 
そこで調べてみると、創価学会版の御書全集では削除されてはいません。ちなみに昭和新修(平楽寺版)でも同部分は存在しました。削除されてはいません。
しかしながらこの『御義口伝』冒頭・序文題目釈は調べてみると明治17年の妙覚寺版『増補御義口伝鈔』にて削除され、以降『大正蔵』所収本、また清水梁山校訂『御義口伝・日向記』(平楽寺版、髙橋善中編集)、またそれを底本とする『昭和定本』(昭和27年)が踏襲する形になっています。ただし大石寺本の『昭和新定』には存在しています。
 
 
これらの削除が諸版でなぜ存在するのか、その理由について、山上弘道氏はこの冒頭の「蓮華」の説明部分が偽作遺文である『当体蓮華抄』の蓮華の解説部分と「ほぼ同文」であることが「その要因と思われる」としています。なおこの点については執行海秀の『御義口伝の研究』でも指摘されていまして、序文題目釈がほぼ『当体蓮華抄』によって構成されていることは重大な疑念としてあげています。
 
 
この冒頭の序文題目釈を、試しに『当体蓮華抄』と対照して読んでみました。
通読すると決して同じ文と構成で使われている訳ではないのですが、細かく『当体蓮華抄』が一文一文切り貼りされて、各断片となり、この序文の主要な部分が作られた印象を確かに受けました。創価学会旧版御書全集708ページ分の各文で、『当体蓮華抄』の対応する部分を2箇所あげてみましょう(『昭和新修・平楽寺版』より)。
 
 
「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」(『御義口伝』708)
 
→「妙の文字は外の事にはあらず、我等が心法なり。」「此の法の文字は我等が色法なり。妙法の二字が我等色心の二法なりと覚る處を成仏と云ふなり。」(『当体蓮華抄』新修2081)
 
「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと」(『御義口伝』708)
 
→「さて経と云ふは、一切衆生の吐く所の言語皆是経なり。天台の云はく、『声仏事を為す、之を称して経と為す。』(『当体蓮華抄』新修2087)
 

 
 
これ以外にも確かに語句のレベルで言えば「八葉九尊」「妙法」の語を使って切り貼りしている印象は感じられます。山上弘道氏も「全体的に文章が未整足の感は否めない」と述べていまして、同じ印象を受けました。
ところで私が今回、『御義口伝』冒頭部と『当体蓮華抄』とを対照して読んで気になったことは、同じようなことが両抄で使われることというよりも、むしろ「なぜ創価学会版御書全集に『当体蓮華抄』が収録されないのか」という素朴な疑問の方なのです。
 
『当体蓮華抄』は一連の最蓮房宛偽撰遺文のうちの一つですが、とりわけ『十八円満抄』と関係の深いものです。創価学会は最蓮房宛の御書を多く御書に収録し、信徒に読ませていますが、『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』『十八円満抄』『最蓮房宛御返事』等を載せながら、なぜか創価学会版御書全集では『当体蓮華抄』は収録されていないのです。
 
『御義口伝』冒頭が『当体蓮華抄』に部分的に酷似している以上、創価学会側が信徒の目に『当体蓮華抄』が触れるのを避けようとしているような印象を受けます。やはり創価学会が「なぜ『当体蓮華抄』を採用しないのか?」と言う問いに答えているようには思えません。
仮に『御義口伝』偽作の事実が信徒たちに露呈するのを避けるために、信徒の目から意図的に『当体蓮華抄』を遠ざけているとするなら、姑息な手段のように思います。
 
 
「『御義口伝』における『科註』の『補註』への改竄」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2024/05/11/064301
 
「「弘安元年正月一日」という日付はあり得ない」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2025/10/04/083258
 
 
 
 
参考文献
山上弘道『日蓮遺文解題集成』興風談所、2023年