いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私たち家族は皆がかつて創価学会の活動家として、その人生の大半を教団のために捧げてきました。
お金がない中でも、たった1部の聖教新聞の営業で、他者への贈呈に使う、そんな家族でした。
私の父は池田大作参謀室長・総務時代の入信で、石田幸四郎部隊長率いる第47部隊で活動した人でした。その後、石田幸四郎が男子部長と出世していく中、彼の後を継いで新しく組織改編された部隊の部隊長になりました。
その後、父は(推定されるに)男子部言論第一部に所属し、公明党の機関紙の前身の刊行に尽力することになります。
父は輸送班としても活躍し、池田大作の会長就任式でも整理役員として活躍しました。伝聞によるなら父は日大講堂内の役員「総括」として名を馳せ、その後は輸送班の「鬼隊長」と恐れられたと言われています。
「鬼隊長」という怖い異名を取りつつも、父は穏やかな性格で教学に強い人でした。新宿で父はとりわけ慕われ、たくさんの部員さんが父に指導を受けに来たことを私は子ども心に覚えています。その姿を見て私は子ども心に父が誇らしく思えたものです。宗教に洗脳された、そんな子どもが私でした。
私は青年部時代、たくさんの記念会館に行くことがありました。千葉の銚子会館には水滸会のメンバーの碑文がありました(今もきっとあるのでしょう)。池田大作先生の息のかかる創価学会本体は、そのように「見えない人たちに光を当て、見えない人たちを称えていく組織」なのだと信じていました。
正本堂御供養がそうですが、御供養に参加した人たちの名簿は永年に保管することが決定されていました。そうやって私の父や母、祖母や祖父たちの名前も後世に遺していくのが創価学会の精神なのだと思っていました。
私は高校を出て、創価大学文学部に進学しました。身体の弱い私が寮生活を送り、アルバイトをし、1日3時間の唱題をしていたことに母は驚いて涙を流していました。私のことを聞いて地元の地区の婦人部が涙ながらに私の進学のことを訴えていました。私は自分のやるべきことをやりたいと考えていただけなのに、たくさんの人から私は知られることになりました。
創価大学を卒業すると各期の銘板が学内の壁面に設置され、名前が保管されます。卒業後にその名前を見て誇らしげな気持ちになったものです。
私は創価学会が過去の「名もない、栄光もない活動家たち」のことを忘れず、顕彰する組織なのだとその時もまだ信じていました。
父の亡くなる前に私は「父の部隊のことを記念して池田大作先生が植樹をしてくださった」ことを聞きました。父の遺言は「創価大学の敷地内に私が石田幸四郎さんから引き継いだ部隊の名前を冠した植樹が必ずあるはずだ。もう私はそれを確認することができない。お前に託すから、見つかったらせめて手を合わせて私のことを思い出してほしい」、大要、そう言われました。ほどなくして父は亡くなりました。
私は創大祭等で創価大学を訪問した折、敷地内をくまなく歩き回り、父の記念植樹を探しました。しかし行けども行けども見つかりません。池田記念講堂脇の文学の池との間の道沿いには昔のものと思われる植樹がたくさんありました。しかし父の部隊の木は見つかりませんでした。
白萩寮の坂から右に下り、旧裏門(万葉の庭と万葉の家があった辺りです)に行くと、旅立ちの庭と「1期生の碑」「周夫婦桜」(本体)が見つかりました。しかし庭は手入れがされていないのか蜘蛛の巣だらけ、1期生の碑文も鳥のフンにまみれて、見ていてあまりに可哀想でした。周恩来記念の桜もこちらにあるのが本来のオリジナルであるはずなのに、蜘蛛の巣や鳥のフンが散乱し、雑草が延び放題、タイミングが悪かったせいかもしれませんが、その時はあまり綺麗に手入れされている印象を受けませんでした。
私は創価大学文系A棟の庶務課、学生課等を訪ね、父の植樹のことを聞いてみました。ところが庶務課の人たちは「どこにどんな植樹があるのか、大学本体は把握していない」という冷たい答えが返ってきました。
それから数年後、私は創価大学下の東京牧口記念会館で、牧口記念庭園に入る機会がありました。広大な庭園で、森の中を石段で下りたり上がったりして進む中、牧口常三郎や戸田城聖の胸像がありました。そしてその石段の坂の脇、森の中に無数に小さな看板が提げられた「記念植樹」が存在することに気づきました。
私は血眼になって父の部隊の植樹を探し回りました。しかし看板は石段の経路から見下ろすととても小さく、その字を判読するのが難しかったのです。私は時間内、死に物狂いになって父の部隊の数字を冠した木を探しました。が、結局、見つかりませんでした。全てを追うことができませんでした。
私は青年部時代、広宣部として活動しました。しかし活動が終われば単なる用済みの組織、誰にも見向きもされませんでした。むしろ広宣部出身で活動した人間たちの中には退会した人も少なくなかったからか、なぜか組織で冷遇されたように感じました(単なる私個人の感覚かもしれませんが)。優秀な人は大抵、公明党の地方議員として飛ばされました。体の良い人払いのように感じてしまいました。
私は広宣部時代、独自に資料も作成し、対論のためのプリントを作成しました。多くの現場にも出向いて対論をしました。
しかしそれらの活動は全て夢の中の出来事、すでに過ぎ去った幻にすぎません。私の活動には何の意味もありませんでした。そして父の活動も誰も覚えておらず、母の活動も誰も覚えてなどいませんでした。
私のことは別にどうでもいいのですが(単に熱に浮かされたように活動していただけかと思うので)、あれほど組織に貢献してきた父のことを誰も何も顕彰もせず、記憶もせず、ただ忘却されるに任せました。父の部屋にはかつて一部の幹部にしか授与されない特別御形木御本尊も特別な御守御本尊もありました(私は子どもの頃にそれらを特別に父から見せてもらったことがあります)。また正本堂の妙檀の木の一部も家にありましたし、細井日達の書いた大きな書まで置いてありました。
私の父も母も、そして私自身もただの小さな活動家、小さな一信者に過ぎませんでした。私は若い頃、創価学会はそういう「見えない人たちを大切にして称える組織」なのだと勝手に勘違いしていました。それは私の単なる先入観と誤解に過ぎませんでした。創価学会は一部の有名な人たちを大事にするだけで、一信徒はただの一信徒に過ぎませんでした。
私は父も母も亡くし、放心状態になりました。
他のブログ記事でも書いているように、私はブログを書くことを思いつきました。しかし私のことなど誰も覚えていないし、誰も見向きもしないし、誰からも相手にされないと思っていました。ただ私は自分がやってきたこと、学んできたこと、信じてきたこと、その嘘、真実、それらを明らかにしたかっただけなのです。
どうせ父や母のように一人で死んでいくなら、せめて納得して死にたい、そう私は思いました。
ブログを書いていくうちになぜか反響がありました。なぜか私のブログが多くの創価学会信徒さんに読まれ、評価されるようになりました。多い日は1日に数千件のアクセスがあり、総アクセス数は414万を超えました。はてなブログ読者は280人を超えました。雑誌『宗教問題』からもインタビューを受けるまでになり、長井秀和さん等からも高く評価されるに至りました。2016年9月からブログを書き続け、2026年現在でちょうど10年目になります。
創価学会から私は全く評価されませんでした。壮年部では冷遇の上、幹部からは遠ざけられ、私は活動から離れて非活になりました(やがて退会するに至ります)。ところがブログを書いた途端に多方面からの反響に出会い、この10年間、正直驚いているというのが率直な感想です。
私の父が尊敬していた幹部たちは石田幸四郎、竹入義勝、有島重武、諸富文紀、渡部一郎、多田省吾と言った人たちでした。しかし今の組織の方のどれほどの人がその方々を覚えているのでしょう。
私は創価学会や日蓮正宗に恨みを抱いているのではありません。
幼少期の私が病身の身体を克服したこと、貧困だった家庭が前を向いて希望を持って生きてきたこと、組織として多くの方と苦しみを分かち合い、涙を流しながら生きてきたこと、一つ一つが思い出と言えば否定はできないでしょうし、そのために信仰が一つの生きる力になったことは間違いのないことでしょう。
創価学会の罪深さは、そのようにして組織信仰で生きてきた私たちを会の手足として働かせ、貢献させ、挺身させておきながら、都合が悪くなり、不要になると手のひらを返し、切り捨ててきたことです。
組織に従順な人だけを大切にし、都合が悪くなれば私の父も切り捨ててきたのです。
今、創価学会の地区の現場では、高齢化・人口減と相まって活動家が急速に減り続けています。その原因は単なる高齢化・人口減だけでは説明できず、一人一人を大切にせず、切り捨ててきたことに愛想を尽かし、教団の欺瞞に気付いたかつての活動家たちの多くが、非活や未活を選んでいることにも原因の一端はあるように思います。その意味で創価学会は名もない一人の人を大切にする組織ではなかったのだと思います。













