気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

トルコ大地震に沈黙する教団指導者。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて2023年2月6日、トルコ南部、シリアとの国境付近で起こったM7.8という大きな地震により、すでに2万人を超える死者が出ています。
世界中から支援が寄せられる中、世界平和を希求するという創価学会からは、その日、何ら声明は出されませんでした。2023年2月10日になって初めて原田稔会長名でトルコへの義援金が届けられたことが聖教新聞で発表されました。しかも現時点で、池田大作名誉会長の声明は一切発表されていません。
 
 
池田大作氏とトルコはかつて深い絆で結ばれていた関係だった筈です。例えば1992年(平成4年)6月24日、池田大作氏にトルコ・アンカラ大学から名誉博士号が授与され、この時の記念講演「文明の揺籃から新しきシルクロードを」の中で池田氏は「近代日本とトルコが交流を始めてから100年余、貴国から送られる友情のエールに比べて、我が国からの"発信"はあまりに弱かったと言わざるを得ない。」「新しい世紀の両国の友好に更に全力で貢献しゆく決意であります。」とまで述べていました。
講演全文はネット上にpdf.で公開されています。

 
そんな池田大作氏が今回のトルコ大地震に際して何の声明も発表しないというのは如何なものなのでしょう。
 
また池田大作氏は2007年にトルコ出身の人類学者ヌール・ヤーマン氏(アンカラ大学の講演では講演の3ヶ月前にヤーマン氏と池田氏が懇談したことが語られています)と対談集を発刊しています(『今日の世界 明日の文明』河出書房新社、2007年)。この対談集の第1章は「トルコとの日本 響きあう心」から始まります。ヌール・ヤーマン氏はその後、2015年に創大祭記念行事で創価大学を訪問し、講演も行っています。
そこまでトルコとの交流を願い、友誼を保ち続けていた池田大作氏が、今回のトルコ大地震に関して何も述べないというのは、そもそも1992年以来の友誼として如何なものなのでしょうか。
 
 
私はこのブログで、池田大作氏の著作や対談集の代筆の実態についてもいろいろ書いています。
 
池田大作の代筆の実態」
 
もしそれが違うと創価学会が主張されるなら、なぜ池田大作氏の声明は発表されないのでしょうか。先日のウクライナ戦争に関する提言の発表のみで、今回のトルコ大地震に関しては何も言わない無慈悲な指導者こそが池田大作という理解でよろしいのでしょうか。
 
 
こういう過去の発言との不整合に目をつむり、都合が悪いことは無かったことにしようとするのが、創価学会日蓮正宗顕正会と言った大石寺系教団なのだと改めて思います。
 
 

 

日興からの伝燈法師・日代。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて、私は日蓮日興に「付弟一人」「唯授一人」という相伝の考え方が存在しなかったと思っています。
そもそも日蓮の弟子は「六老僧」として晩年に選定され、日興はそれに倣って「本六」「新六」と言う6人ずつの弟子を決める方法論です。日蓮にも日興にも「唯授一人」という弟子への相伝の方法は採られていないのです。
 
 
「『二箇相承』と『宗祖御遷化記録』との矛盾」
 
 
ですから、日興が日目だけに唯一の相伝を残したというのも、普通に考えてあり得ない話です。
日興は正応3年(1290年)に大石寺が建立された後、大石寺を日目に譲り、自身は永仁6年(1298年)、重須に移ります。そして重須は伊予公日代に譲られることになります。
 
 
事実、日興から日代へ重須管長の付属があった証拠として、日代書写の本尊に自身を「日興上人伝燈法師」「日興上人伝燈日代」と書かれた本尊が複数体、西山本門寺に現存しているのです。
以下は嘉慶2年(1388年)8月の日代書写本尊ですが、左下に「日興上人伝燈法師 日代」と書かれています。

 
また康応2年(1390年)6月8日、日代の書写本尊には「日興上人伝燈日代」と書かれています。これらの本尊は西山本門寺に現存しています。

 
ここからもわかるように、日興からの相承というものは、「本六」「新六」という複数人に対して行われていたものなのであり、その意味で大石寺は日目に、また重須本門寺は日代に譲られたというのが正確な史実であったと思います。誰か一人を特別視するような相伝日蓮や日興の考えには見られません。
しかし後世に自山を権威化する発想が出てきて、その結果として『日代八通譲状』や『二箇相承』『日興跡条条事』といった偽書が作成されたと考えることができるでしょう。
 
 
 
 

 

「唯除五逆誹謗正法」の「正法」とは無量寿経である。

 
 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて日蓮は念仏を「四箇の格言」で「念仏無間地獄」としました。果たしてこれは正しいと言えるのでしょうか。
 
 
日蓮は『立正安国論』で「所依の浄土三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き」(旧創価学会版御書全集23ページ)と述べていまして、浄土経典における「唯除五逆誹謗正法」の文を根拠として「正法」としての法華経を誹謗するからこそ、念仏が無間地獄の教えであることを主張するのが日蓮の立場なのでしょう。
 
 
この「唯除五逆誹謗正法」という文章、確かに無量寿経に出てくる言葉です。以下は岩波文庫版『浄土三部経』(上)より無量寿経の当該箇所のページです(157ページ、早島鏡正他訳註、岩波文庫、1963年)。

 
ところで、この無量寿経における「誹謗正法」の「正法」とは、法華経のことを指しているのでしょうか?
文意から素直に読めば、ここでの「正法」とは「無量寿経」そのものであって「法華経」ではありません。
 
 
日蓮は漢訳仏典の成立年代を、天台の五時八教判に依拠して決定する立場です。
では無量寿経等の浄土三部経は、天台五時八教判ではどこの時代に配されるのでしょうか。
それは「方等部」です。事実、日蓮の『一代五時図』(真蹟:中山法華経寺蔵)等で阿弥陀経等は全て「方等部」に置かれています。

 
天台五時八教判では「方等部」が30年説かれ、その後に「般若部」が説かれ、最後の8年が「法華涅槃部」になる筈です。
それが正しいとするなら、なぜまだ説かれてない、存在していない法華経を「正法」と定義できるのでしょうか?
要するに日蓮無量寿経の「正法」を「法華経」だとしているのは、短絡的なこじつけに過ぎません。
無量寿経が説かれた時点で、法華経のことを予見していたとするなら、当該部分は「唯除五逆誹謗正法」ではなく「唯除五逆誹謗妙法蓮華経」と書かれなければならないでしょう。しかしそれは書かれていない。文意から考えても、五時八教判の時系列から見ても、ここで書かれた「正法」とは無量寿経自体のことを指していると捉えるのが自然です。それを強引に「正法だから法華経だ」と主張するなら、単なるこじつけであり、牽強付会の批判を免れないでしょう。
 
 
 
 
 

 

普通の人間としてのブッダ。

 
 
 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて『スッタニパータ』の386節には次のような文があります。
 
 
「修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の〈目ざめた人々〉は時ならぬのに出て歩くことはない。」
中村元訳『ブッダのことば』【スッタニパータ】80ページ、岩波文庫1984年)

 
ここで「目覚めた人々」とはブッダ(buddhā)で複数形です。『スッタニパータ』では後世に「仏」と訳される「ブッダ」の概念が今と全然違うことがわかるかと思います。
訳者の中村元氏の註を見てみましょう。
 
 
「ここで「諸々の目ざめた人々は……」(buddhā, 複数)というが、その原語は「ブッダ」である。それは、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外を出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。また求道者としての bodhisattva をブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することはできない。」
(同326ページ)

 
どうでしょうか。釈迦が『スッタニパータ』で語った「ブッダ」の概念は、後世に生まれる北伝仏教の仏や仏性の概念とは全く違います。だからこそ中村元氏は buddha を「目ざめた人」と訳しているのです。
『スッタニパータ』は執着する人間の心を目ざめさせ、執着すること、妄執から離れることを教えたものです。それ故に「偉大な仏の法が存在する」とか「戒壇本尊が正しい」とか「仏とは生命である」とか、何か正しい教えが常住するように考え、その教えに固執する人々は、『スッタニパータ』の釈迦の教えから見れば、「執着に囚われた人間」に過ぎないことになろうかと思います。
釈迦の教えとは、そのような執着から離れることを説いたものなのだと私は思います。
 
 
 
 
 

 

題目板碑について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は東北地方の富士門流の寺院において、題目板碑が複数存在することについて書いてみます。出典は松岡幹夫『日蓮正宗の神話』(論創社、2006年)であり、この内容の一部を紹介する形になります。
 
 
さて富士門流系の本源寺、妙教寺、上行寺、妙円寺等の周辺には複数の「題目板碑」が現存します。これは塔婆の形状に加工した石に「南無妙法蓮華経」と刻み、経文等を加えたものです。
日蓮宗には曼荼羅本尊の形を石に刻む板碑が存在するようですが、何と日蓮正宗の寺院にも普通に曼荼羅本尊の形を石に刻んで境内や路頭に置いてあるものも存在します。
以下の画像は仙台・仏眼寺28代の寿円院日倚が造立した「題目板碑」です。何と大石寺26世日寛書写本尊を石に模写して刻み、大石寺48世日量の開眼を受けていることが石の左側に刻まれています(松岡幹夫前掲書より、337ページ)。

 
この曼荼羅本尊板碑は、他にも公道の脇等、一般の通行人が自由に見られるところにも置かれています(同338ページ)。

 
日蓮正宗の本尊は、雨ざらしになるような場所に、一般の通行人の目に触れる場所に置いても良いようなものなのでしょうか。少なくとも現今の日蓮正宗は信徒に頒布している曼荼羅本尊に対してそのような態度はとっていないでしょう。その点は大きく矛盾します。
 
つまりかつての大石寺は、日蓮宗に見られるような題目板碑の教義について、法主が許可を出し、開眼までして設置することが普通に行われていたのであり、本尊不敬を許さないとする現代の教義はもっと後世に作られた可能性が高いことになるでしょう。
 
 
 
参考文献
松岡幹夫『日蓮正宗の神話』論創社、2006年
 
 
 

 

如来神力品で別付嘱はされなかった。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮・天台系における法華経解釈では、法華経の解釈では如来神力品第21を「別付嘱」、嘱累品第22を「総付嘱」と考えます。
つまり地涌の菩薩である上行菩薩らに対して付嘱されたのが神力品であり、それ以外の会座の大衆に付嘱したのが嘱累品だったと言う理解です。
 
 
ところが、法華経如来神力品を読むと、実は上行菩薩に対して付嘱ができていなかったと書いたら、皆さんは驚かれるでしょうか。
具体的に法華経を読んでみましょう。画像は創価学会版の『妙法蓮華経並開結』(2002年、創価学会)から571〜572ページになります。
 
「爾時仏告上行等菩薩大衆、諸仏神力如是無量無辺、不可思議、若我以是神力、於無量無辺百千万億阿僧祇劫、為嘱累故、説此経功徳、猶不能尽」
 
簡単に訳しますと
 
「その時、仏は上行菩薩等の大衆に告げた。『諸仏の神力はこのように無量無辺、不可思議である。もしも私がこの神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇の劫において、付嘱のため故にこの経の功徳を説いても、なお言い尽くすことができなかった。』」

つまり「釈迦は上行菩薩等の大衆に付嘱するためにこの経の功徳を説いたが、言い尽くすことができなかった」としているのです。画像でも確認して頂ければと思いますが、きちんと「猶不能尽」と書かれています。
 
したがって如来神力品で上行菩薩に対する「別付嘱」がされたとする天台智顗の解釈は間違いということになります。
そもそも天台教学で法華経如来神力品は「別付嘱」としている筈なのに、釈迦が付嘱のために語りかけているのは「上行等菩薩大衆」です。上行菩薩のみに語りかけてはいないのです。
 
 
ところが、これが歪曲され、あたかも「上行菩薩に付嘱がされた」となり、そしてその後、無理矢理に最終章である筈の「嘱累品」が神力品の後の22章としてねじ込まれ、神力品から薬王品の宿王華への付嘱に至る流れが見えなくなっているのです。
 
 
「嘱累品を元の位置に戻すと見えてくるストーリー。」
 
 
本来の法華経のストーリーは以下のようになるでしょう。
 
如来寿量品(第16章)で「色香美味」の良薬を「今留在此」として残しておくことを宣言する。
 
如来神力品(第21章)では上行菩薩等の大衆に付嘱をしようとしたが「猶不能尽」で言い尽くすことができず、「以要言之」として法華経を読誦したり、書写したりして「如説修行」するように言い残す。
 
③本来なら22章である薬王品で、釈迦は宿王華菩薩に法華経を付嘱し、自分の滅後に「広宣流布」をするようにと宿王華に委任する。宝塔中の多宝如来も宿王華を讃嘆して薬王品が終わる。
 
なので、本来は28章(最終章)の嘱累品が強引に「22章」として割り込まされてしまい、本来のストーリーが見えなくなってしまっているのです。天台教学では総付嘱の嘱累品第22で宝塔が閉幕し、虚空会の儀式が終わったとしますが、薬王品を読めばきちんと多宝如来が「宝塔」の中から宿王華に語りかけているのが確認できます。つまり薬王品は付嘱の儀式の最後の部分なのであり、虚空会の儀式はまだ閉幕していないのです。

 
神力品での上行菩薩への付嘱が「猶不能尽」でできなかったのに、できたことに改竄されたこと。
そして神力品の後に無理矢理に嘱累品を持ってきて、強引に法華経の儀式を閉幕させ、宿王華付嘱をなかったことにしたこと。
これらが中国仏教における解釈だったということになります。本来の法華経で嘱累品は最終章なのですから。
そしてそれらの中国仏教の解釈や教判を基にして教説を展開してしまったのが、日蓮の時代的制約による限界だったということになるでしょう。
 
 
 

 

戸田城聖氏の「業病」についての指導。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は戸田城聖氏が「業病」について、どのような指導をしていたかを簡単に紹介したいと思います。かつての創価学会はこのように「御本尊に祈ると病気は治る」と指導していたのですが、この指導は果たして現在でも有効なものとして創価学会日蓮正宗信徒内では考えられているのでしょうか。
以下に引用の画像は戸田城聖『巻頭言集』(創価学会昭和35年)145〜150ページ、『大白蓮華』47号(昭和30年4月1日)巻頭言「業病について」になります。

読んでおわかりかと思いますが、戸田城聖氏は過去世の業因によって起こる難病を小児麻痺、精神病、脳水症としています。そしてその原因を日蓮の『太田入道殿御返事』(真蹟断簡現存)に求め、「法華誹謗による」とするのです。
過去世の業により病気になるという指導はかつての創価学会大石寺で広くなされていたものです。そしてそれを治すために戸田城聖氏は「大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子どもは直る(ママ)」としています。
 
 
私は鎌倉時代の限界のある医療で、神仏への祈祷がなされていたことは当時の歴史的文脈から容易に想像できると思います。
しかしながら、それを安易に現在の文脈に置き換えて「祈れば治るのだ」とする考え方は、あまりに論理的思考を欠いた安直なものだと考えざるを得ません。
 
 
また今の創価学会は、今もこの戸田城聖氏の指導が正しいと考えるのでしょうか?
戸田城聖氏は会の「永遠の指導者」として会則で定義づけられていますが、今でもこの指導は有効なのだと考えるのでしょうか?
また日蓮正宗は、今もなおこの戸田城聖氏の時代錯誤な考え方を正しいとして、病気は後世の偽作でしかない「戒壇本尊」に祈れば治ると本気で考えているのでしょうか?
 
 
かつての解釈が間違っていたのなら、過去の過ちは認めればよいのだと思います。
それを「あの時はこう指導するのが正しかったのだ。今は違うのだ」とするなら、単なる自己矛盾の正当化でしかないと私は思います。