気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

真珠湾攻撃の戦果に喜ぶ創価教育学会。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて先日、戸田城聖(妙悟空)著の『人間革命』初版(精文館、昭和32年)の記事を書きましたが、反響がとても大きかったです。
 
 
戸田城聖(妙悟空)著『人間革命』初版の改竄」
 
 
この中で、戸田城聖(巌さん)は、牧口常三郎(牧田城三郎)の思いを代弁する形で「宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てる」と発言しています。
実はこの戸田城聖の『人間革命』、他にも戦争容認、戦勝を願う戸田城聖ら、創価教育学会信徒の姿が随所に描かれているのです。
 
 
例えば以下のようなページです(313〜315ページ)。

 
 
巌さん(戸田城聖)と森田正一、福島政雄らがおでん屋で互いに酒を飲みながら、真珠湾攻撃の戦果について熱く談笑している場面です。戸田城聖らが「巌先生、やったねぇ!」「うん! やったな」と話します。「日本人なら一応、誰でも胸がスーッ! となるさ」「親父さんは、どんなに嬉しくなっても、勘定は忘れないね」等々、これらの会話を読んで、果たして誰が戸田城聖氏を先の15年戦争に反対した反戦平和主義者だと思うでしょうか?
なおこの部分は昭和47年の聖教文庫版でも削除されてはいません(下巻、89〜92ページ)。
 
 
また牧田城三郎(牧口常三郎)がこの真珠湾攻撃での戦果に言及するシーンで、牧口常三郎氏は緒戦の戦勝に不安を覚えているのが伝わりますが、彼はここで「日本の兵隊は勇敢だ」「緒戦の華々しい戦果」もまで言及しています(前掲書328ページ)。

 
牧口常三郎氏がここで「緒戦の華々しい戦果」にもかかわらず、一抹の不安を覚えているのは「日本が負ける」という不安なのです。つまりこの後、創価教育学会が国家諫暁を決意し、布教活動に打って出るのは日本を敗戦から救うためであり、戦争に勝ちたいがためだということになります。
 
 
 

 

創価学会の布教方法を真似てきた大石寺。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会大石寺が仲良く協力していた昭和40年代、果たして日蓮正宗宗門はどのような指導をしてきたのでしょう。
それは「創価学会を見習え」というものでした。
 
 
具体的に挙げてみましょう。『大日蓮』昭和44年4月号から、大石寺66世細井日達氏の寺族指導会への説法を画像で紹介してみます。この文は一度ブログでも取り上げたことがあるのですが、今回はきちんと『大日蓮』のページを画像としてあげます。

 
読んでいただければおわかりのように、昭和44年(1969年)のこの当時、法主細井日達本人が寺族同心会、法華講の方々に創価学会の座談会に出ることが決まったことを伝え、「体験を話すように」指導しているのです。
また細井日達氏はここで法華講に「『人間革命』を読んでいただきたい」「座談会に出る時は大白蓮華を持っていらした方がよい」とまで述べていまして、布教方法のお手本として創価学会の刊行物をあげたり、創価学会信者の態度をあげたりしてすすんで学ぶことを推奨しているようにとることができるでしょう。
 
 
現在の大石寺は「折伏誓願」と称して、実質的な布教数のノルマを信徒に打ち出していますが、このような各支部や各方面に一定の布教数のノルマをあてがって、拡大をしてきたやり方は本来創価学会のとってきた方法論なのです。
大石寺は宗創和合時代に「創価学会を見習って布教活動を」と呼びかけていました。私も当時お寺でそのような住職の指導を聴いたことがありますし、そのように創価学会を賞賛する僧侶を当時活動家だった私は尊敬したものです。
ところが、宗創紛争が起こり、両者の対立が決定的になった後も、大石寺は独自の布教方法論を確立することができず、実質的に各末寺に布教数ノルマを課すという、創価学会そっくりの布教方法をとっているということなのかと私は思います。
 
 
 
 

 

不動明王と愛染明王を真言の梵字で書いた日蓮。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて日蓮曼荼羅本尊は左右に必ず梵字不動明王愛染明王を勧請します。
日蓮真蹟の本尊にはほとんどこれが書かれているのです。
 
日蓮真蹟本尊中、梵字が書かれないものを挙げてみましょう。
 
 
10番、船中楊枝本尊、文永11年3月15日?
19番、文永11年?正月日
21番、文永12年卯月日
22番、文永12年卯月日
23番、文永12年卯月日
28番、玄旨伝法本尊、建治元年12月日
29番、今此三界本尊、建治元年?
47番、病即消滅本尊、弘安元年3月16日
66番、日仰優婆塞授与、弘安2年9月日
90番、今此三界本尊、弘安3年?
 
 
 
日蓮真蹟曼荼羅は、身延曽存の佐渡始顕曼荼羅を含めると全128幅の曼荼羅が存在することがわかっていますが、そのうち梵字が存在しないのは、上記の10体のみです。それ以外には全て梵字が書かれているのです。
当然のことながら、大石寺法主の書写する本尊も日蓮に倣ってきちんと真言梵字不動明王愛染明王が書かれています。
 
 
真言を批判しながら、なぜ真言梵字不動明王愛染明王が書かれるのかは、日蓮の矛盾です。こういう部分に日蓮真言に対する態度のアンビバレントな部分が現れているのかと思います。以下の記事で書いたように日蓮真言批判は何ら論理的ではないのです。
 
 
日蓮真言に対する態度」
 
 
例えば日蓮真蹟曼荼羅18番(文永11年? 平賀本土寺蔵)には「南無胎蔵大日如来」「南無金剛大日如来」がきちんと書かれています。

 
また同じく文永期と推定される「一念三千本尊」(同平賀本土寺蔵)には、大日如来が左右両肩に梵字で書かれています。

 
文永期以降、確かに大日如来の勧請は見られなくなります。しかしながら日蓮が生涯にわたって曼荼羅本尊図顕の際に不動明王愛染明王とを真言梵字で書いていたことは間違いありません。しかも不動明王愛染明王法華経には何の関係もありません。法華経に出てもこない密教の神仏をなぜ日蓮が生涯にわたって曼荼羅本尊に書き続けなければならないのでしょう? さらに言えば「曼荼羅」という語は本来真言由来の語です。
 
 
 
 

 

戸田城聖(妙悟空)著『人間革命』初版の改竄。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて、このブログでは戸田城聖氏が何ら反戦平和主義者でもなく、戦時中には戦争勝利を願っていた事実については何度も指摘させて頂いています。
 
戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」
 
「興亜聖業とは。」
 
「国運隆昌の祈念。」
 
「戦争に勝ちたかった戸田城聖牧口常三郎。」
 
「『小国民日本』に載る日中戦争のイラスト。」
 
 
 
加えて今回は戸田城聖(妙悟空)著の小説『人間革命』初版(精文館、昭和32年)について、戸田城聖氏が戦争に勝ちたかったことを述べている部分を紹介したいと思います。
以下の画像をご覧ください。

読んでおわかりのように「宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てる」と述べられています(同386〜387ページ)。そしてその後は戸田城聖創価教育学会が「支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!」とまで述べているのです。
この部分は、後の聖教文庫版『人間革命』(上下2分冊、昭和47年)では全て削除・改竄されています。以下に削除された聖教文庫版の当該ページを挙げてみます(下巻、170ページ)。

ここから以下のことがわかるかと思います。
 
 
・戦時中の創価教育学会、牧口常三郎戸田城聖は太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼称し、戦争反対の意志を何ら示してはいなかった。
 
・戦時中の牧口常三郎戸田城聖は、宗教の力でこそ「この戦争に打ち勝てる」と信じており、日清戦争日露戦争のように日本が戦争で勝つことを熱望していた。
 
・戦後、創価学会はそのように書かれている部分を削除し、戸田城聖が戦争容認の立場であった事実を改竄した。
 
 
以上の3点が言えると考えます。
 
 
 

 

日蓮の真言に対する態度。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮はかつて真言を「法華真言」としており、法華と真言を同格と捉えていました。
 
「法華真言の用例」
 
ここからもわかるように、日蓮真言批判に傾斜するのは概ね佐渡以降のことであり、佐渡以前は念仏批判を中心としていました。事実『立正安国論』にも「法華真言」の用例は見られます。
 
 
ただ日蓮は後に真言を批判するようになるのですが、その批判には現代の歴史学的視点から見て首を傾げてしまうような邪推が見られることも事実です。
例えば『聖密房御書』(建治3年、真蹟身延曽存)の次のような一文です。

 

真言宗の名は天竺にありや・否や大なる不審なるべし、但真言経にてありけるを善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし」
日蓮『聖密房御書』創価学会旧版御書全集897ページ)

 
日蓮はここで善無畏が中国で勝手に真言宗という名をつけたのではないかと述べていますが、そんな事実は存在しません。単なる邪推です。
 
 
また『寺泊御書』(文永8年、真蹟中山蔵)には次のようにも書かれています。
 
「又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか」
日蓮『寺泊御書』同953ページ)

 
日蓮はここで「インドの法華経に印と真言があったけれど鳩摩羅什はこれを略して法華経とし、善無畏はこれらを加えて大日経を作ったのではないか」と述べていますが、そんな事実は全くありません。邪推どころか、もはや作り話のレベルです。
 
 
思うに日蓮という人の教義は、相当程度に真言の影響を受けています。それは曼荼羅本尊に梵字不動明王愛染明王を書くことからもわかります。そもそも不動明王愛染明王法華経には出てこない筈です。
また日蓮比叡山修学期の若い頃に、真言を学んでおり、例えば真言覚鑁の『五輪九字妙秘密義釈』を書写しています。この日蓮真蹟は中山法華経寺に現存します。

 
また金沢文庫には『理性院血脈』という文書が存在し、この中に日蓮大日如来から数えて25代目の血脈を相承していることが記録されています。この文書によるなら日蓮真言宗醍醐寺理性院の血脈を受けていたことになり、日蓮という人物が早くから真言を摂取していたことが推察できます。

 
また保田妙本寺には『不動愛染感見記』の日蓮真蹟が現存しており、日蓮が自身の筆で「大日如来から23代目の血脈を受けた」ことが記録されています。

日蓮真言に対する態度は、やや屈折していまして、真言を摂取してその影響を受けつつも、国家調伏の祈祷は法華経に限るとして後年に真言を批判するように、ややアンビバレントなものだと言えるでしょう。
 
 

 

 

 

日目から日道への相伝はなかった。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
以前にも書いたことなのですが、日目からの相伝は日道に伝わったのか、それとも日郷に伝わったのか、という点に関して文書の画像を紹介したいと思います。
 
 
まず大石寺3祖日目から4世日道に与えられた『與日道書』を見てみましょう。この正本は大石寺に現存しています(『日蓮正宗歴代法主全書』1-217ページ)。

 
読むとわかりますが、ここで日目から日道に譲られているのは田畑を含む土地です。最後に一度花押を書いた後、日目は追記の形で「上ノ新田坊地」を「譲与する」ことが書かれ、また「上新田講所たるべし」として、日道にその土地の講師になることが示唆されています。
しかしながら血脈や相承等はここには全く書かれていません。
日蓮正宗は公式に日目から日道への相承を正慶2年(1333年)10月としていますが、これは日目が京都に天奏に行く直前であり、日目の死の1ヶ月前です。日付も明らかになっていませんし、それを示す文献も存在していません。
また同年の日道の著とされる『三師御伝土代』の末尾は「日目上人御伝土代」になりますが、ここにも日目から日道自身への相承があったことは全く記されていません。末尾は道智坊と日目との間の問答が記されて終わりとなり、その後の日目の事績は記録されていないのです(同277ページ)。

 
では日目から日郷への相承はあったのでしょうか。
日目から日郷への書状は『與宰相阿闍梨御坊書』として3通あることが『日蓮正宗歴代法主全書』で確認できます(「宰相阿闍梨」とは日郷の阿闍梨号です)。全て保田妙本寺に正本が現存します。このうち1つをここで紹介してみます(同228ページ)。

 
読んでおわかりかと思いますが、日郷の安房吉浜への布教の重要性を日目が認識していたことになります。そして末文で日目は「法命を継ぐ可く候」とまで書いているのです。
 
 
そして京都要法寺日辰『祖師伝』によるなら、大石寺の日目日道相伝説に対して、日郷創建の小泉久遠寺側から異論が出され、日目から日道への付属はなかったと反論されています(堀日亨編『富士宗学要集』5-34ページ)。

 
読んでおわかりのように「是ノ故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之レ無し」とまで書いています。
 
そもそも私は日蓮日興の思想に「遺弟一人」という考え方は存在せず、日蓮の「六老僧」また日興の「本六」「新六」のように複数の弟子を取るシステムであったと考えています。なのでここで殊更に日目から日郷への相伝があったように主張するものではありません。
しかしながらこうして文献を一つ一つ見ていけば、日目から日道への唯一の相伝があった可能性は低いと言わざるを得ないと思います。
 
 
 
 

 

大石寺9世日有書写本尊と戒壇本尊との相違。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は戒壇本尊の相貌とともに、戒壇本尊の偽作者として指摘されることが多い、大石寺9世日有の書写本尊を見比べてみようと思います。
 
まず日有書写本尊を挙げましょう。
 
①文安4年(1447年)5月19日、仙台村上家蔵

②宝徳4年(1452年)4月13日、仙台仏眼寺蔵

③長禄4年(1460年)7月18日、柳目妙教寺

次に戒壇本尊の画像と座配図です。

 
このうち、①と②は戒壇本尊と相貌も書き方も全然違っていることがわかるかと思います。
戒壇本尊は、勧請された諸尊を4段(天照大神八幡大菩薩を別とすると5段)に分けて書いているのに、日有の①と②は全体を3段で収めてしまっているのです。しかも書く場所がなかったのか、②では「仏滅度後二千二百三十余年……」の讃文を向かって右側ではなく左側に書いています。
 
 
また戒壇本尊に書かれている筈の「阿修羅王」「転輪聖王」「提婆達多」が、日有の①②③には全く書かれていません。
 
 
『御本尊七箇相承』には「見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり」「遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ」(富要1-32〜33)と書かれています。相承に「きちんと似せて書く」ことが示されているのに、大石寺法主の本尊書写は相貌を似せて書くことを全くしていないのです。

大石寺9世日有は『新池抄聞書』で大石寺の本尊堂を「三妙合論の事の戒壇」と述べています。このことから日有が戒壇本尊の偽作者として可能性が高いことが多く指摘されています。ただ日有が「戒壇本尊」という語を使ったことはないのです。
もしも日有が戒壇本尊を偽作し、その上で本尊堂を「事の戒壇」と定義したと仮定すると、この当時は戒壇本尊の書写を法主が行い、それを信徒に与えるという教義がなかったことが推察されます。それに日有は『化儀抄』で日蓮=本尊説を唱えた人です。
 
思うに、大石寺6世日時から大石寺14世日主くらいの時期に戒壇本尊が「偽作」され、それを大石寺の権威として利用するうちに、次第に法主の権威として「戒壇本尊を書写して信徒に与える」という教義が生まれたのでしょう。ただ上古の法主たちは戒壇本尊と相貌が全然違う本尊を書いており、教義の整合性を図るために後付けで「法主の内証を書写する」という珍説が大石寺にできたということなのでしょう。
 
追記
本尊画像の参考文献は以下の通りです。
『御本尊集 奉蔵於奥法寶』日目上人奉讃会、平成12年。
柳澤宏道『石山本尊の研究』増補版、はちす文庫、平成25年。