気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

選挙至上主義を最初に唱えた張本人こそ池田大作氏。




いつもみなさん、ありがとうございます。



池田大作氏は昭和35年(1960年)、安保問題で日本の政治が大いに揺れる中で創価学会の会長に就任しています。しかしながら池田氏は「安保改定よりも、それよりか、もっと本質的に大事なことは、邪宗改定である。」(聖教新聞昭和35年6月4日付)と述べ、安全保障問題について自身の判断を避け、会員各自の判断に委ねます。



当時、創価学会文化局の9名の議員たちも、自民党強行採決には反対したものの基本的に安保問題に関して傍観に徹しています。わずかに石田次男氏のみ、昭和35年2月10日、参議院本会議で「極東の範囲」や「海外派兵」「条約の年限」「事前協議について」割合と生産的な質問をしただけです。


公明党の創立前のことですが、昭和36年(1961年)5月3日、池田大作は「文化局」を設置し、戸田城聖由来の政治進出をさらに強化・拡大する方向に踏み出すことになります。創価学会の政治進出を強めた張本人こそ、池田大作なのです。
この文化局の政治部は「混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によってはぐくまれた優秀な政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業の必要性を、政界に理解させようというものである」(聖教新聞昭和36年5月6日付)というものでした。



つまり池田大作氏は「混乱した日本の政界を浄化するため」そして「国立戒壇建立の必要性を政界に知らしめるため」に文化局政治部を創設したのであり、創価学会の政治進出を誰よりも強めた人物こそまさに池田大作氏その人なのです。そして昭和36年11月27日、池田大作氏は創価学会の外郭政治団体として「公明政治連盟」を発足させます。



もともと公明政治連盟は「政界浄化」を基本的な政策として掲げていました。果たして今の公明党はその「政界浄化」を目的として果たしていると言えるのでしょうか。



私は、池田大作氏の会長就任前、池田総務の頃から政界進出を強めていた氏の方向性そのものが誤っていたのだと考えています。
ところが、現在の創価学会の最高幹部たちは、やたら選挙の話をするのを好みます。その意味では池田大作氏にそっくりなのです。つまり政界進出、選挙における勝利によって会内の支持を得てきた池田大作氏の在り方を、現在の最高幹部たちはまさに弟子らしく踏襲していることになります。



特に政治理念もなく「政界浄化」と「国立戒壇」を目的に創設された公明政治連盟は、選挙における勝利至上主義により、会内の求心力を高めるためだけに利用された側面が強いと私は考えています。そしてそのような選挙至上主義を唱えた最初の張本人こそ、池田大作その人であったということです。




参考文献
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
















わずか19歳で本尊書写をした大石寺12世日鎮。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺の12世日鎮は第9世の日有より相承を受けて、数え年わずか14歳(現在の年齢だと13歳)で法主に登座します。



13歳といえば今でいえば今で言えば中学生の年頃ですが、そんな年齢の者でも血脈付法を受けさえすれば総本山大石寺の管長になれるという、大石寺の教義に非常な違和感を抱くのですが、その非常識がまかり通るのがまさに大石寺なのでしょう。



さてこの12世日鎮は、なんとわずか若干20歳で本尊書写をしています。
大石寺59世の堀日亨氏によれば、富士宗学要集で、数え年20歳(現在の年齢で19歳)で、本尊の書写をしていることが記録に残されています。
画像で確認できるように日鎮は数え年20歳で本尊を書写し、それが大石寺に現存していることがわかります(堀日亨編『富士宗学要集』8-196〜197ページ)。

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19歳の者が血脈付法さえ受ければ、本尊書写が可能で、わずか13歳でも総本山の管長になることもできるとするなら、何も80歳以上の高齢者たちに血脈付法をしなくても構わないことになります。現在の大石寺68世である早瀬日如は今年2021年で86歳になります。



創価学会の幹部も80歳代が増え、ほぼ後期高齢者になります。大石寺はわずか13歳でも血脈付法さえあれば、管長に就任することも本尊を書写することも教義的にはできるようなので、今後は早々に若い世代に譲っていくことが大事なのかと思います。そうでないと創価学会同様、高齢化の道を歩むことになるかと思います。







池田大作の選挙至上主義に追随する信濃町幹部。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会大石寺から離れて独自の教団になったわけで、教義的にいろいろ自由になったと言えそうです。
以前には池田大作氏が永遠の会の指導者なら、何も大石寺法主書写の曼荼羅など拝まずに、池田氏に本尊を書いてもらえばいいという記事もあげました。


「本尊認定の権利が教団にあるなら」


最近は創価学会の会長やら理事長、主任副会長等、最高幹部たちの人気がないようです。
選挙至上主義みたいなことをガンガンやられていて、それが不人気の理由の一つのようですけど、考えてみると選挙を教義の一つと考え、選挙における勝利至上主義を唱えた最初の人物は実は池田大作その人なんですね。



「選挙の勝利至上主義の淵源」



ここで引用した、池田大作の『立正安国論講義』を見れば明らかなように、もともと選挙における議員の当選を会内の求心力、糾合のために利用した最初の人物は、池田大作氏その人だったのです。
彼は会長就任以前、戸田城聖の死後に「総務」として各地域組織を回り、選挙で統監を越える票を叩き出しては会内の支持を高めていったわけですから。



現在の創価学会の最高幹部たちが行っている指導は、まさに池田大作氏がやってきたことの踏襲で、選挙における勝利至上主義に過ぎないのですが、最近は「選挙、選挙」ばかりで他に語れるものが幹部側に何も無くなってしまいました。
いい加減、選挙における勝利を至上とする池田大作由来の考えから早く脱していかないと、活動家離れをさらに加速化するだけなのですが、信濃町の幹部たちは池田大作氏の選挙至上主義に追随する考えから脱することができないようです。自分たちの教義の矛盾点を意識できない大石寺系教団の特徴が最近は益々顕著になりつつあるようです。
























青年層が楽しいと感じられない組織。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会は青年層が激減し、すでに衰退を待つだけの組織に成り果ててきたのですが、なぜ青年層の入会は増えないのでしょう。



私が男子部を引退する直前の、とある組織内に感じた違和感をそのまま書いてみましょう。



1、若い世代がいない

私は広宣部の活動を長くしていた関係で、有り余るほどの資料や文献を集めていました。
私は男子部の先輩たちからそれらを多く学んだので、この後は後継の若い人たちに託していくものだと思っていました。正直当時は広宣部の資料を個人会館に寄付して、若い世代の育成さえも考えていたほどです。
ところが、若い人たちがある時期から激減しました。数少ない活動家は御書も読まない、仕事もしていない、鬱や適応障害等の精神疾患を抱えている、そんな人たちばかりで私も何も伝えることができません。
未来部でさまざまなアトラクションをやったり、また未来部の会合で使えそうな資料もパソコンにたくさん入れてありましたが、それも誰にも伝えられず活用もされません。未来部の会合にきた新参の女子部の責任者が翌月にはもう未活動になるほどです。当時から総県女子部長が県少女部長と兼任で、すでに当時40歳近い方でした。


2、高齢の方ばかり

地区幹部の殆どが高齢者、しかも70歳以上の人ばかり。新しい参加者など1年以上誰もいない。たまに来るのは他本部からの派遣幹部。たまに婦人部の子どもが連れられてきますが、小学校高学年あたりから会合には出なくなります。地方に行けば未来部の統監など小中高全部合わせて本部で10人もいない組織に成り果てました。
顔を合わせると、選挙の話ばかり。どこそこに友人はいないか、連絡は取れないか、そんな話ばかりでうんざりです。大きな会合に行けば行ったで高齢の幹部が選挙の勝利を叫んで「池田先生にお応えしよう」と言うだけの集まりです。


3、教学の研鑽がない

組織全体に学びがなくなりました。真摯に仏教の経典を読むとか、そんなこともしません。『大白蓮華』の御書もわずか数行を読むだけ。仏教を知りたいと思っても誰も知らない。幹部に聞いても「私は御書が苦手で」くらいしか言えない。信濃町からの出向幹部でさえ御書を知らない。『観心本尊抄』に何が書いてあるのかある幹部に聞いてみたら「よくわからない」と言われて衝撃を受けました。小説『人間革命』でさえ青年層には知らない人が多く、読む本もほとんどなくなりました。


4、楽しくない

文化祭や遊説隊、未来部のアトラクション等、昔、若い人たちがたくさん集まってワイワイやることが意外と創価学会にはありました。
皆で集まってワイワイやると楽しいものです。
今はそれが全くありません。
別にそれらの行事が正しかったと言うつもりもないのですが、ただ文化祭もない、遊説隊も集まらない、ウグイス嬢も高齢の婦人部しかいない、未来部の会合も高齢者が中心、こんなんじゃ面白い訳がありません。若い人たちなど、会合に行きたくなくなります。
当たり前のことです。若い人たちが集まってワイワイできる組織は創価学会にはもうありません。
2000年代に組織の改変があり、地方組織を分断して圏(ゾーン)を分県化したことがありましたが、そのせいか、各組織の青年部活動家たちが個々に分断されてしまい、一人一人が孤立する事態となりました。上の組織幹部からすれば、組織を拡大する原動力にしたかったのかもしれませんが、完全に失敗だったと思います。


4、お金の話ばかりする

財務の時期になると、広布部員の申し込みで手広く家庭訪問してきます。お金を出すことが正しい活動だと言わんばかりです。
地区協議会に行けば、書籍の購入があり誰かが買わなければいけません。選挙のシーズンになれば公明パンフやら青年パンフやらを1部100円で何十部も部として買わないといけません。私が部長時代に自分が身銭を切って部で数百部の青年パンフを買いました。民音のチケットが来ると「誰か行く人いませんか?」と聞かれ、後で代金を払わないと行けません。何の罰ゲームかと思いました。コンサートも、知らない演歌歌手だったり、南米かどこかの民族舞踊とか言われても何の興味もわきませんでした。




まあ、そんなわけで、こんな魅力のなくなった組織に若い人たちが大挙して入る筈がないのです。おまけにネットで創価学会に都合の悪い情報や事実は検索一発で山ほど出てきます。若い人ほどネットには慣れているものです。
日蓮正宗大石寺顕正会等、大石寺系教団も、いずれ高齢化の波にさらわれ、創価学会と同じ道を辿ることになります。同穴の狢であとは時間の問題に過ぎないのだと思います。













破邪顕正とは。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて創価学会の機関誌である『大白蓮華』2021年10月号を見ていて「仏法哲理の泉-折々の指導から」という記事で、「破邪顕正」と言う言葉が出てきました。



近年、あまりに他宗派との対論をしなくなった創価学会の現状から見れば、この「破邪顕正」の語を今更出してくるのは、理解に苦しむところがあるのですが、池田大作氏の指導を抜粋して載せ「破邪顕正」の精神を学んでいくことを会員には訴えているものと推察できます。

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別に各宗教団体がどんな教義を唱えようと自由ですし、構わないことなのですが、今更この時代に「破邪顕正」で他宗派批判などできないと思います。そもそも教学的には青年部はほぼ何も知らない人たちばかりですし、現在の壮年部や婦人部(かつての青年部)の人たちの宗教批判は天台智顗の五時八教くらいしか知らず、偏った天台教学と日蓮遺文の知識くらいで他宗派を批判するなど噴飯ものです。



ところで、この「破邪顕正」と言う言葉は、誰が説いたものなのでしょう。私はこの表現を日蓮遺文中で一度も見たことがありません。


調べてみると「破邪顕正」という語は、中国・随の時代の嘉祥大師吉蔵の著作『三論玄義』に出てくる言葉です。
つまり「破邪顕正」という言葉は、三論宗の用語ということになります。
三論とは龍樹の『中論』『十二門論』と提婆の『百論』のことで、吉蔵はここで般若経の空を説いた書物です。
とすれば「破邪顕正」ということを根本にするということは、創価学会法華経ではなく般若経や龍樹の教えを根本にするということなのでしょうか。



破邪顕正」という語と法華経とで何の関係があるのか、私にはさっぱりわかりません。
扇動的な語句に踊らされるのではなく、きちんと研鑽の上で、その語が何を意味するのか、自教団の依経である法華経日蓮と何の関係があるのかを知ることが、教学の真の意味なのではないのでしょうか。
繰り返しますが、日蓮遺文中で「破邪」「顕正」という語を見たことは、私は一度もありません。





「上行無辺行」と「浄行安立行」という書き方。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は大石寺66世の細井日達書写の御守り本尊の書法についてです。
私の父もこの御守り本尊を持っていて、子ども心に中のものを見せてもらったことを思い出します。

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この書き方で非常に気になったのは、四菩薩の書き方です。通常ですと「上行菩薩」「無辺行菩薩」「浄行菩薩」「安立行菩薩」はそれぞれ1行ずつで勧請し、4行になっています。ところが細井日達のこの御守り本尊では見ておわかりのように「上行無辺行菩薩」「浄行安立行菩薩」と2つを1つにまとめてしまっています。



この書き方は、日蓮の書法にもあまり見られない書き方です。大石寺の根本本尊である戒壇本尊では四菩薩はそれぞれ1行ずつで書かれており、最上段は釈迦・多宝如来と合わせて6行の編成になっていることは、画像からも確認できます。



「大正5年縮刷本『日蓮上人』掲載の戒壇本尊画像」



では、日蓮が書いた本尊で実際に「上行無辺行菩薩」「浄行安立行菩薩」と2つを1つにまとめた書き方のものは存在するのでしょうか。
数少ないながら、実はそれらの例は確かに存在します。


1、文永10年?、佐渡妙宣寺蔵、女人成仏本尊
2、文永11年、佐渡妙宣寺蔵、阿仏坊授与本尊
3、建治2年8月13日、京都本満寺蔵、亀若護り本尊
4、建治2年8月13日、大阪市某家蔵
5、弘安元年3月16日、市川市中山法宣院蔵、病即消滅本尊



以上の5幅のものが、確かに「上行無辺行菩薩」「浄行安立行菩薩」と2つを1つにまとめる書き方をしています。他の日蓮書写本尊には見られない特異な書法になります。
以下に紹介するのは、建治2年8月13日の「亀若護り本尊」で、確かに上行と無辺行とを1行にまとめて書いているのが確認できるかと思います。これらの書法は弘安元年以降には見られない書き方であって、文永後期から弘安元年までの短い期間のみに用いられていたことがわかります。

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当然のことながら、細井日達の御守り本尊の書き方は、戒壇本尊の書き方とも異なり、日蓮の弘安元年以前の書き方を踏襲しています。
戒壇本尊以外の本尊を「一機一縁の本尊」と呼び、戒壇本尊を根本にしない全ての本尊に功徳はないとする大石寺という宗派の法主が、なぜ他宗派の「一機一縁の本尊」、しかも弘安元年以前の書法に倣って本尊書写をしなければならないのでしょう。


日興書写の本尊を見ると、日蓮書写本尊を厳密に書写しようとする厳格な姿勢を感じます。それなのに日興門流である筈の大石寺法主書写本尊からは、根本である筈の戒壇本尊を厳密に書写する意志が殆ど感じられません。













日興讃文と近年の大石寺法主讃文の書法は異なる。




いつもみなさん、ありがとうございます。




私は元広宣部あがりで、活動家時代に他宗派対策をしたせいで散々教学的に小難しいブログ記事も書いているのですが、そんな立場上、私は大石寺系の本尊画像を見ることが多かったものです。
で、当時から何とはなく気づいていたことなのですけど、本尊左上「有供養者福過十号」と右上の「若悩乱者頭破七分」の文(教学的には一般に「讃文」と呼ばれるので、以下は「讃文」と呼びます)の書き方が、大石寺開山の日興書写本尊と、近年の大石寺法主書写本尊とで異なっているのです。



どういうことかと言いますと、普通創価学会法華講信徒さんが拝んでいる大石寺法主書写本尊は大抵が「讃文」が「右上と左上」に「各一行」で書かれています。
例えばわかりやすく画像で載せますと、創価学会授与の日寛書写本尊ではきちんと各讃文が「右上と左上」に「各一行」で書かれています。

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この書法は近年の大石寺法主の書法でほぼ例外がなく、例えば細井日達(66世)や阿部日顕(67世)も例外なくきちんと「右上と左上」に「各一行」で書写しています。

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ところが、日興は違います。日興の場合「右上と左上」に書かれる場合もありますが、少し下方、本尊真ん中の左右に配置されることも多く、加えて「各一行」ではなく讃文を「二行程度に分けて」書くことが多いのです。例えば大石寺に現存する正慶元年11月3日の日興書写本尊では、讃文はそれぞれほぼ「左右中部」に位置していまして、書き方も真っ直ぐではなく「2行に分けて」書かれているのです。この日興書写本尊は大石寺に現存するものです。

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加えて大石寺の開山日興から比較的初期の第9世日有まで本尊の讃文は、左右上部に各一行で書写されてはいないのです。
例えば大石寺6世日時の書写本尊では「各二行」で讃文が書かれています。しかも「左右上部」ではなく少し下に位置されています。以下の画像は応永9年10月13日書写、柳目妙教寺蔵の日時書写本尊です。

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また9世日有の本尊でも讃文は縦に真っ直ぐではなく少し斜めに書かれていまして、やはり2行扱いで書かれています。以下の画像は1体目が文安4年5月19日日有書写、村上家蔵のもの、2体目が長禄4年7月19日、柳目妙教寺蔵のものです。

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つまり大石寺歴代法主は、開山の日興が書写したように本尊をありのままに書写しておらず、むしろ日興の本尊書写様式を少しずつ改変していったというのが史実に近いのだろうと私は考えています。