気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

個人の声としてのブログ。




いつもみなさん、ありがとうございます。



私はこんなブログを書いていますが、別段宗教組織を作ったり、独自のグループを立ち上げることを考えてはいません。
このブログは、あくまで私の個人の信仰の総括の場であり、私的な告白に近いところです。




私は大石寺なり、創価学会なり、大石寺系の教団が衰退していくのは、もはや既定路線だと思っています。
創価学会の活動家たちはそんなことを聞くと必死になって否定したがるのかもしれませんが、もはや地方の青年部の衰退は目を覆うような惨状を呈しています。
青年層と未来部の激減は、そのまま組織の衰退に直結します。
私のこんな個人的ブログと関係なく、もはや創価学会の組織の瓦解、自己崩壊は回避し得ないのです。単に時間の問題であるだけです。
そんな状況にある組織を、現在の献身的な活動家たちが必死に活動し、"延命"させているだけのことなのです。



日蓮正宗」などとよくわからない宗派を明治以降から自称している大石寺は、創価学会組織への離間工作ばかりしている同族嫌悪の矛盾に気づいたのか、最近は駅前でビラを配ったりする姿が目につきます。しかしながらあんなチラシ類を駅前で配って誰が今さら大石寺信仰に入るというのでしょう。冷ややかな目で見られて避けられているのに、そのことに気づかないのは当の大石寺法華講信徒さんだけでしょう。
戒壇本尊も後世の偽作、自山の史料は殆ど未公開、御肉牙という怪しい代物、歴代法主全書は非売品、みんな秘密主義で、それでいて自分たちの山だけが日蓮の正統であると信じて吹聴している姿は、傍から見て滑稽でさえあります。



私がこのブログで述べていることは、かつての自分の信仰の自己批判と総括に過ぎません。
そして私が気をつけているのは、史料をきちんと読んで歴史的な事実を淡々と明るみに出したいと思っているだけなのです。
史料に則らない宗教的議論は単なる「神話」に過ぎないでしょう。もはや日蓮信仰を持たない私にそんな神話は必要ないのです。
問題は、日蓮信仰を根本に他宗派を否定してきた大石寺系教団が、そのような史実の重みに耐えられないようなら、その教学的基礎の浅はかさを自ら露呈しているに等しいのだと言うことなのです。



私のブログは個人的なものですし、小さなものです。
けれど、小さな個の声がたくさん湧き上がった時、教団はそれらの声を無視できなくなるでしょう。
私が言いたいのは、もはや私たちが宗教や教団を必要としておらず、個人で信仰を深める時代に入っているということなのです。
教団に信仰の正統性を担保してもらうような信仰のあり方はもはや時代錯誤に等しく、私たちは教団に頼らずとも自分たちで信仰の本質を求めることができるのです。
だいたい創価学会の本部職員の誰が教学を深く知っていると言うのでしょう。そんな人たちに教わるのは時間の無駄というもので、そんな暇があるならネットで検索するか、文献を繙いた方がマシです。最近の信濃町本部職員は、開目抄も観心本尊抄守護国家論もな〜んにも知らない、読んだことがない人がゴロゴロいます。知らないのに、知ろうとさえしない、知らないことを恥ずかしいとさえ思わないのですから厚顔無恥な教団職員としか言いようがないです。



大石寺の末寺の御住職たちは、個々の差があるとは言え、総本山の噴飯ものの偽作教義に追随するだけの人が少なからず存在しまして、話を聞いても教学的に何の得にもならない。そんな人たちに教えを請いたいとは私は正直思えません。それなら自分たちで勉強します。最近はネットで専門書籍や仏典も容易に購入できますし、情報などいくらでも入ってきます。なぜわざわざ私たちが何も知らない末寺住職や教団幹部たちに「教わる」必要があるのでしょう。少なくとも私にはその必要性が全く感じられません。



更には、このブログで書いているようなことを、教団幹部やら法華講の活動家さんに言うと、彼らはだいたい耳を塞ぐか、頭ごなしに否定するか、やんわりと話を逸らすことしかしないのです。
誰も話をまともに聞かないなら、ブログで書いて自己満足する方を私は選びます。不特定多数の人たちに読んでもらって、多くのアクセスがあるなら一定の評価があるということを推測できるでしょうし、少ないなら私のブログ記事に客観的な例証が不足しているだろうと考えることができます。



私は教団批判のグループや別組織を立ち上げることは考えていません。私が願うのは、個々の信仰者が自分たちで声をあげ、教団に依存することなく、自分たちの思いを素直に発信することなのです。
そのような声なき声が、インターネットによって一定程度の大きな力を持つようになってきた時代なのだと私は個人的に考えています。




多くの魅力的なブログが今はたくさんあります。それらの声の一つ一つがネット上に大きな流れを生み出し、多くの人が教団から一刻も早く離れて個人の信仰に入っていくべきだと私は思います。私たちはもはや教団を必要としていないのです。













日法彫刻の最初仏について。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、このブログでは、大石寺奉安堂蔵の弘安2年戒壇本尊が後世の偽造に過ぎないことを繰り返し述べています。





ところで、今回検証したいのは以前に書いた和泉公日法による「最初仏」という、日蓮御影についてです。


大石寺48世日量による『富士大石寺明細誌』には次のように書かれています。



日蓮聖人御影居長三寸 一体
作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり(中略)、日法右板本尊並に此像を造り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-334〜335ページ)



これによれば、日法が戒壇本尊を彫刻・造立する際に本尊右板の切れ端をもって日蓮の御影を作ったとされます。そしてこの像を日蓮本人に見せたところ、日蓮は手の上にこの像を乗せて「私の顔によく似ている」と微笑んで述べたことが書かれています。



ところが、奇妙なことですが、日興の『富士一跡門徒存知事』には次のように書かれています。



「一、聖人御影像の事。
或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの儘に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。」
(日興『富士一跡門徒存知事』創価学会版御書全集1603〜1604ページ)




これを読むと、当時から聖人御影像は複数作られていたことが推察できるのですが、日興はここで「但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り」と述べ、「一つも日蓮の面影に似るものがない中で、正和二年の日順の像だけは少し日蓮の面影がある」と述べているのです。

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もしも仮に日蓮存命の時、和泉公日法が戒壇本尊を彫刻し、同時に日蓮本人から「よく似ている」と評価されるほどの御影像を作っていたとするなら、その日法彫刻の御影に日興がここで触れていないのは非常に不自然なことです。普通に読めば、日興はこの時、日法の作ったとされる「最初仏」を見ていなかったことになります。



つまり「最初仏」と呼ばれる御影像は、日興在世中にも存在していなかったということであり、この一事をもってしても日法彫刻・最初仏という事跡は、単なる後世の創作・偽造であるということがよくわかるかと思います。




「和泉公日法のこと」











書籍よりもブログ。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて最近、大石寺系信徒、とりわけ創価学会の信徒が激減していることを、いろんな方から報告を受けます。
確かに高齢化のスピードは創価学会内部で急速に進んでいますので、それは予想できることなのですが、やはりここに来て大きいと思うのは、インターネットの力です。



書籍で創価学会組織への問題提起等、いろいろな意見を述べた人は以前からたくさんいましたが、書籍や雑誌、週刊誌等はお金を出して買わなければいけません。まして創価学会組織からすれば「反逆者」認定されてしまっています。ですから創価学会の退会者が批判本を出版しても、組織への影響は当時ほとんどなかったのです。



ところが、今は誰もがブログやSNS、ホームページを作ることができます。しかも閲覧したい人は、検索するだけで「瞬時に」「ほしい情報を」「タダで」読むことができます。この違いはかなり大きなことです。



書籍離れが起こってすでに久しいのですが、情報媒体としての「本」はすでに過去の遺物にさえなってきています。
殆どの情報はネットに転がっているので、どこに何が書いてあるかわからない「書籍」を買うことが激減し、ネットで必要な情報を取捨選択する時代に入っていると言ってもよいのではないでしょうか。



ネットの存在によって、創価学会大石寺の欺瞞を知った信徒たちが、どんどん未活や非活、退会や離檀、離宗を選択し、活動家が激減する事態の一助になっていると個人的には思います。



私の小難しいブログなどよりも、世の中には自身の体験等をわかりやすく語るブログやSNSが雨後の筍の如く出てきています。そういった方々の声なき声が、ますます信徒の離脱に拍車をかけているのでしょう。



かつて創価学会は、情報媒体のために聖教新聞を創刊し、それを日刊化しました。しかしすでに新聞という媒体は時代に取り残された媒体になりつつあります。テレビでさえネットの前には風化しつつあるのですから。







富士学林大学科のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて日蓮正宗大石寺には、僧侶の教育機関として「富士学林大学科」というものが存在します。
富士学林大学科は、東京都渋谷区西原(小田急線の代々木上原駅近く)にありまして、これは大石寺67世阿部日顕氏により設立されたものです。



ご存知ない方のために付け加えますと、富士学林は「大学科」と銘打っていますが、文部科学省認可の正規の大学ではありません。大石寺67世阿部日顕により創立された、非教師僧侶のための日蓮正宗教育機関になります。当然ながら日蓮正宗以外の一般の方は入学できません。



まあ、このような富士学林の閉鎖的な体質は以前から批判されることも多いのですが、阿部日顕氏はなぜこのような私塾とも言うべき僧侶養成機関を設立したのでしょうか。
本当のところはわかりませんが、富士学林以前に日蓮正宗大石寺には立正大学のような研究機関が存在していなかったことが大きいと思います。



故阿部日顕氏は、昭和18年(1943年)に立正大学を卒業しています。つまり日顕氏は日蓮宗の教学研究機関である立正大学で研鑽を重ね、教学部長になり、法主になったことになります。
阿部日顕氏は日蓮正宗独自で非教師僧侶を教育する機関設立の必要性を強く感じていたのでしょう。富士学林を1988年に設立すると法主である阿部氏自身が大学科で「三大秘法義」の講義を受け持つようになります。



個人的に大石寺が独自の教育機関、研究機関を持つことは一定の評価をしたいところなのですが、大学科のやっていることは異流儀の創価学会やら顕正会やら正信会やらを批判することばかりになっています。またどういうわけだか、阿部日顕氏亡き後、大石寺68世早瀬日如氏は富士学林における最重点の項目である「三大秘法義」講義を自身で行うことがなく、水島日叡氏が行っています。



先代の阿部日顕氏は、この富士学林にかなり力を入れていたようで、文京区西片にあった大石寺出張所を渋谷区に移転しました。また阿部日顕氏による「三大秘法義」の講義は、阿部氏の隠居後も行われていたようです。




阿部日顕氏が立正大学出身ということもあり、大石寺が自前で独自で日蓮教学の外部に発信ができる研究機関の構想を持っていたであろうことが推察できるのですが、現実問題として早瀬日如氏はあまり関わりを持たず、三大秘法義講義は教学部長にほぼ丸投状態で、やっていることは単なる創価学会顕正会等の異流儀批判に終始しているだけとなります。



個人的な考えですが、大石寺富士学林が創価学会と異なって「開かれた教団」となるためには以下の点が必要かと思います。



1、富士学林大学科の入学者を、外部一般、また他宗派等、日蓮宗系僧侶にも開かれたものとする。

2、発表する研究が単なる創価学会批判に終始するものを取りやめ、大石寺所蔵文書の公開等を積極的に行い、外部の批判を多く受け入れた教学の研究体制を確立する。

3、富士学林にも日蓮宗系の外部講師を積極的に招致し、開かれた教育・研究機関であることを外部にアピールする。



ということが必要になるかと思います。
大石寺創価学会も非常に閉鎖的な体質を持っていますが、その割に教育機関であるはずの「創価大学」は意外と開かれたところでして、日本宗教学会や法華コモンズの人たちが自由に出入りできるところがあります。富士学林大学科もそのように開かれた研究機関として、外部に門戸を開くことにより、評価は変わってくるようにも思います。



追記
創価大学は、比較的開かれた教育機関であると思いますが、創価大学敷地内に設立された「東洋哲学研究所」は、外から何をやっているのか全くわからない場所となっております。
東洋哲学研究所も早く公開して、開かれた研究機関にすることで、一般の理解は上がるようにも思います。ただ信濃町創価学会の閉鎖体質はどうにもならないものかと思いますが。
























公明協会のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。



昭和40年(1965年)10月に創価学会本部は政治資金300万円を拠出し、財団法人「公明協会」を設立しています(設立認可は昭和41年2月)。今回はこの「公明協会」のことを簡単に書きたいと思います。



公明協会が解散するのは昭和48年(1973年)のことですが、この間「公明協会」が実在していたことは間違いなく、山崎正友氏の著作中の外郭団体一覧にもきちんと出てきます。

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昭和41年(1971年)7月、公明協会は男子部のための機関誌『青年ジャーナル』、女子部のために『華陽ジャーナル』を刊行しています。
これだけ見ると、公明協会は公明党の広報活動に寄与する財団法人という印象を受けますが、実態は公明党の財産管理部という側面を持っていました。



「公明協会」の事務所は当時、新宿区南元町の公明会館内に置かれました。代表は矢野絢也公明党書記長)、役員に石田幸四郎、吉田顕之助、小平芳平など公明党創価学会の幹部が入っていました。
公明党は、公明協会創設の昭和41年から44年6月まで公明協会の収入の9割強に当たる約4億円を拠出させ、公明党のための土地、建物、車の購入等にあたらせていました。



公明協会は昭和43年(1968年)中に車両運搬費として9800万円を支出しましたが、そのうち8600万円を、阿部商会一社に集中して支出したと言われています。



阿部商会は、外車輸入販売等の会社として1948年に設立されます。当時の代表取締役社長は阿部文治氏です。現在は資本金4734万円で、現在の社長は阿部文保氏になります。阿部商会は現在も車用品、部品販売事業も含めて存続しています。




ところで、なぜ公明協会は昭和43年当時、車両運搬費9800万円のうち9割近い8600万円を、全て阿部商会一社に集中して支出したのでしょう。
理由は不明ですが、気になる点が一つあります。実は阿部文治社長の頃、阿部商会の取締役の一人に小宮開造氏が入っていたことです。
小宮開造は、池田大作の実兄にあたります。



「池田名誉会長の兄弟」



公明協会はその後も財政規模を拡大させ、昭和45年(1970年)の収入は3億2897万円、支出は2億365万円に上りました。
しかし昭和47年(1972年)1月に品川区上大崎に事務所を移転した後、昭和48年(1973年)に解散します。溝口敦氏は、解散の理由を「千里ニュータウンでの土地問題の証拠隠滅のため」と述べています。


外郭団体を作るのは構わないのかもしれませんが、過去にあったことをあたかも最初からなかったことのように隠蔽し、会員に知らせない教団の本質は、他の日蓮正宗等の大石寺系教団同様、信徒の目をくらますものであると個人的に思います。



参考文献
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年

















週間リズムとかつての活動。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私は主として青年部時代、男子部の40歳前後までバリバリの創価学会の活動家でした。
40歳前後で男子部は多くが「壮年部」に移行しますが、私はこの頃に母を亡くしたことも契機となり、一切の活動から離れて、いわゆる「非活」の身となります。



この頃、男子部活動家の時の忙しさがいかに多忙なものか、当時の創価学会の活動の「週間リズム」を記憶している限りで書いてみたいと思います。



月曜日 地区協議会、部長会、本部長会
火曜日
水曜日
木曜日 部活動者会(部活)
金曜日 圏活動者会
土曜日 県活動者会、自由唱題会
日曜日 朝唱題会、県報告



だいたいこんな感じだったかと思います。
活動家になると、ほぼ毎日会合が入ります。



月曜日の「地区協議会」というのは、四者(壮年部、婦人部、男子部、女子部の四者合同のこと、最近は女子部激減により女子部と婦人部が統合されて「女性部」ができました)の地区の協議会です。ここでは地区での四者のそれぞれの状況、現在の活動と各部の近況、座談会週間から座談会予定日の決定、書籍の販売、選挙情勢の報告等が話し合われます。
本来「地区」の会合ですから、男子部は「地区リーダー」か「副地区リーダー」等が参加すべきなのですが、青年部は慢性的に人が足りないので当時部長や本部長がいろんな地区を掛け持ったりしていました。現在の青年部はさらに統監が激減していますので、地区協議会に青年部がいないことが日常茶飯事と化しています。



月曜日の夜は、地区協議会の後、本部の部長会があったものです。各部の部長が本部長の自宅等に集まり、各地区の状況を本部長に伝えます。本部長会はその後、夜遅くあったものですから、男子部でも上に上がれば上がるほど、会合が増えて寝る時間が少なくなっていくものです。当時、活動報告で「私はここ1週間、平均睡眠時間が2時間ほどしか寝ていません!」などと寝ていないことを美徳のように語る活動家がかつてはいたものです。現在の男子部は部長会を定期的に行うことなどほぼ不可能になっています。



木曜日の夜に、各部の部長(支部の男子部の責任者のことを「部長」と呼びます。ちなみに壮年部の責任者が「支部長」です)の自宅等で「部活」を行います。「部活」とは部の活動者会のことで、主に地区リーダーやニューリーダー等が集まります。
男子部は働いている人がいますから、大抵男子部の会合は夜です。私が部長時代も夜21時から行われていました。



金曜日や土曜日、週末の夜は大抵、圏(ゾーン)や分県単位での唱題会が行われていました。皆で唱題・勤行の後、活動報告(いちおう希望制)、最後に幹部指導といった感じです。
夜の20時くらいから唱題が始まり、21時前後に勤行、全部が終わると夜の22時になっているなど普通でした。



日曜日は朝の出発も兼ねて、午前中に唱題会を行っていました。当然活動家ほどみんな寝ていませんから、寝坊する人も続出したものです。
定例報告というのが必ずあって、日曜日に決まって報告しないといけません。これもかなり面倒くさいので、前日の夜にまとめておいて日曜日の午前中にさっと本部に送るようにしていました。



「定例報告」



上記の会合がいわゆる「週間リズム」となりまして、これ以外にも会合はたくさんあります。
例えば創価班(会館警備、駐車場誘導等)になれば、月に一度程度「着任」がありまして、創価班「班長」に報告をして「着任」しなければなりません。遅刻や無断欠席は許されません。そんなことをしようものなら、創価班の委員長やら事務局長に大変な叱責を受けることは間違いありません。今はどうか知りませんが、当時の創価班の指導にはパワハラ的なものがたくさんありました。



また牙城会(会館警備、館内巡回、セコム管理)になれば、月に2回程度「着任」が入ります。総括や主任になれば、会館には平日でも17:30には1秒たりとも遅れずに着任しなければならず、これが遅れると「事故扱い」となり、指導の対象となります。
昔の牙城会は「宿直」がありましたが、現在はセコムのセットで22:30程度に退館するシステムになっています。ただ信濃町創価学会本部担当の牙城会になりますと、きちんと「宿直」があって朝まで「世界青年会館」で着任することになります。もちろん翌日仕事のメンバーもたくさんいました。皆、仕事で有休をとって任務につくのです。



これ以外にもたくさんあります。土曜日の夜、23時頃から当時は「広宣部」の「勉強会」があったものです。
それが終わると、選挙戦の時期は夜の12時から県男子部長会、午前2時から総県男会等、普通にやっていました。夜中の午前2時過ぎに個人会館といえど、各方面からスーツ姿の男が集まるなど、近隣住民からしたら一種異様な光景に見えたことでしょう。


もちろん座談会週間になれば、各地区の座談会が行われます。週末なら昼開催、平日なら夜開催です。それ以外に会館での本部幹部会・同時中継(通常CS)があります。
創価班や牙城会の指導会もありますし、緊急の県男子部長会が入ったりもします。新任の人事が決まれば出発式もやります。未来部の会合があれば出なければなりません。



これらをやりながら、家庭訪問、人材育成、布教活動、聖教新聞の営業……全てをこなさなければいけません。これは活動家になればなるほどのしかかってくるものです。
婦人部などもっと大変で、地区婦人部長や支部婦人部長になろうものなら、本当に一日中、目の回るような忙しさになると思います。新聞配達まで兼任してやっていた地区婦人部長もいましたが、想像を越えた激務です。




そんなわけで、多くの幹部が燃え尽きてしまっては非活になるパターンが続出しました。
地区の要とも言うべき「地区婦人部長」が活動に出なくなるというのは、組織としては致命的になりかねない、それくらいの激務だということですが、意外に普通に起こっていました。



大石寺日蓮正宗の信徒という人たちは、こういう人たちを虎視眈々と見つめて、組織の切り崩し工作を行なって退会者を作ります。ですから日蓮正宗の布教活動そのものが単なる創価学会の切り崩しという、ハイエナのようなことをすることが多いのです。
というのは彼らにも事情があって、いちおう駅前でビラを配ったりして一般の方にも「布教」活動をしている筈なのですが、実情はほとんど誰も日蓮正宗に振り向きもしません。まして入信するわけがありません。そんなわけで現実的には非活の創価学会メンバーを言いくるめて、日蓮正宗側に付けてしまう方が布教も人材育成もいっぺんにできてしまうので、話が早いんですね。そんなわけで、彼らはハイエナのように創価学会非活メンバーの匂いを嗅ぎつけて寄って来るのです。



現在の創価学会は、活動家も激減し、青年部も地方ではほとんど壊滅状態ですから、もはやここまで活動できません。またかつての創価班指導会のような上から目線での強烈な指導に愛想をつかし、活動から離れるメンバーも後を断ちません。現在の壮年部のメンバーにもかつての創価班、牙城会幹部がいまして、平気で青年層に強い指導をふっかけてくる人もいまして、ますます活動家が減るということも一部組織では起こっているようです。

















正しさは相対的なもの。




いつもみなさん、ありがとうございます。
多くの読者の方からアクセスをいただいて、本当に毎日感謝しています。



私はこんなブログを日々書いていますが、書く度に感じるのは、自身の才能の無さです。
私は教学的なことを多くブログで書きますが、いろんな文献を読んでわかったことをわかりやすく書くことくらいしかできません。
そもそも古文書の解読もできない、日蓮真蹟の解読もできない、真蹟の写真を見ても「この字は何だ? ああ、それか」と判読するまでえらい時間がかかります。お恥ずかしい限りですが、それが自分の力なので仕方ないことです。



ただ思うのは、

「先行研究を読むこと」
「自分の頭で考えること」
「自分の手で検証すること」
「自分で調べること」
「自分の過去の誤りを認めること」

という基本原則みたいなものです。



創価学会やら大石寺信徒やら、そういう活動家の世界に長くいると、自分たちの信じる「正義」みたいなものを否定できなくなります。
自分たちが歩んできた人生の否定になってしまうからです。
だけれどもそれをすること、今までの人生の正しさを全ていっぺんかっこに入れて、自己否定も辞さずに事実を知り、それを認めること、受け入れることこそが私には大切なことだと思います。
いつまでも池田大作氏の正しさをどこかで担保したいと思ったり、曼荼羅本尊とか大石寺戒壇本尊とかが正しいと思ったりとか、自身の過去の体験を否定できずに信仰にすがりつくとか、そういったものは全て捨てることです。
それができない人があちこちの大石寺系教団を右往左往してみたり、別のカルト宗教にハマったり、いつまでも自説に固執したりするのです。



私は日蓮の信仰が一時期まで正しいと思っていました。また法華経が正しいとも思っていました。
けれどそれらの正しさというものは、所詮作られた権威としての正しさでしかないことに気付きました。
私は別に日蓮宗等で日蓮を未だに信じる人を蔑視しているのではありません。そうではなく、大石寺系教団にありがちな「自説のみが正しく、それを否定する者は間違いだ」とする、原理主義的な態度を問題視しているだけなのです。



正しさというものは相対的なものであって、絶対的な概念ではありません。
だからこそ、自身で真摯に考えて、自身の愚かさを認め、自説の正しさを絶対視してはならないと考えています。
どこまで行っても正しい教団などありませんし、どこに行っても日蓮の正統もありません。
法華経が釈迦の正統の教えでもありませんし、漢訳仏典等の北伝仏教が釈迦の正統であるとする考えも間違いです。



大石寺系教団、そして創価学会の信徒は、退会者や転向者を侮蔑して憚らない傾向があります。
彼らの多くは「組織から離れたから仏罰が出た」とか「本山を批判したから病気になるのだ」とか、やたら現証面で脅すような非難中傷を無自覚に行います。
私はそのような宗教に二度と関わりたくありません。退会者、未活・非活の転向者をあからさまに侮蔑して吐き捨てるように非難できる彼らの人間性には強い嫌悪感を感じます。
私はそういう人間になりたくありません。



創価学会を退会して、大石寺信仰からも離れて、私は本当に心が自由になりました。
時間を自由に使えるようになりました。月曜日の夜に協議会に行くこともありません。書籍を買うこともありません。地区や支部に選挙支援数の報告もしなくて構いません。こんなに自由な時間が私にあったことに、私は非活になってから初めて気付きました。
財務なんてしなくていいです。貯金もできるようになりましたし、仕事にかけられる時間も増えました。
これらの全ては、創価学会との繋がり、日蓮正宗との繋がり、大石寺系教団との繋がりを全て断ち切ったことによって得られた自由です。



私は功徳も罰も信じません。そんなものは必要ありません。
私は成仏したいと思いません。そんなものは必要ありません。
戒壇本尊の権威など要りません。白糸の滝を見て富士宮焼きそばを食べたいとは思いますが、わざわざ大石寺に行く理由はありません。
まして信濃町などもはや行くことはありません。私は教団に必要とされていませんし、私も教団を必要としていないのですから。