気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

虚像を肥大化させた庶民的な指導者。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は池田大作氏に対する私の現在の評価を書いてみたいと思います。



結論から述べるなら、私は池田大作という人の思想を全く評価していません。
以前に検証し、ブログ記事にも書きましたが、池田大作独自の思想概念は存在しないのです。彼の思想の根幹にあるのは、大石寺26世日寛由来の大石寺教義であって、それを色々な言葉を借りて現代的に敷衍したものでしかありません。



「池田思想の検証の果てに」



ソフトパワー、生命、人間革命、師弟等、綺麗な言葉を使われることが御大はお好みのようですが、どれもこれも池田大作独自思想ではなく、単に日寛由来の日蓮解釈教義を現代的な言葉で衣装をつけて敷衍しただけのことです。
『御義口伝講義』や『法華経智慧』など最悪の例でして、そもそも偽書説濃厚な口伝書を利用して、生命等の訳のわからない論理で日蓮教学を再解釈することに何の意味があるのでしょう。それに日蓮自身は『開目抄』や『撰時抄』で「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」(御書219、282ページ)と「口伝」そのものを否定しています。



ところで池田大作氏からは、私が創価大学在学中に幾度となく激励と称して、いろんなものを頂いてきました。創価大学生協のチケット、パン、カップラーメン、海外の切手、キーホルダー、書籍、絵葉書、絵画、名刺、直筆の原稿、お小遣いまで貰ったこともあります。



池田氏は庶民的で、羽振りが良く、他人にお金やら物やらどんどんあげてしまう、そんなイメージを持っていました。一度、高等部の会合で信濃町に行った時に、会合参加者全員に「池田先生からたった今伝言で、お小遣いが貰えることになりました」と聞いた時は驚いたものです。



池田大作氏のイメージで、私が肯定的に評価するところは教団指導者として不特定多数に発破をかける指導ができること、その指導力、そしてその裏にある庶民的でおおらかな部分です。彼を批判している溝口敦氏でさえ池田大作には「庶民的」な部分があることを著作で認めています。



その反面、さまざまな現代的な知的なアクセサリーで自身の思想を飾ることに躍起になってしまい、それらを信濃町職員や特別書籍部、国際部のメンバーとともに自身のイメージを肥大化させてきたしまったことが最大の問題だろうと思います。
国際部のメンバーは会合で、池田大作氏のスピーチに使われる内容を募集していたことがあり、池田のスピーチに引用される作家や詩人等が本部幹部会で紹介されることが彼らにとっては名誉であったという証言を、私は当人たちから直接に聞いています。



池田大作の名誉のために付け加えれば、池田氏は確かに自身の手でスピーチの原稿を書くこともありました。しかしながら、原島嵩氏ら特別書籍部の力を借りて、皆で池田大作氏のイメージを肥大化させてきたことは疑い得ません。
「生命」などと言う言葉で仏教を解釈するなら、その思想は単なるウパニシャッド由来、バラモン教でしかなく、日蓮は『御義口伝』でバラモン教に近い「宇宙と生命の真実」とか「師弟不二」とかを説いていたというオチになります。当然ながらそれは日蓮の思想でも何でもありません。



いい加減、池田大作の肥大化させられた虚像に気付き、庶民的だったり、現世利益主義だったり、日蓮の用語をやたら過大に敷衍したりする、本来の池田氏人間性に着目した方が良いのかと思います。



追記
昭和54年頃のことですが、父は「池田先生は『大風呂敷』と呼ばれていてね」と子どもの頃の私に語りかけたことがあります。「大風呂敷で何でも大きく発言しちゃうから、会長をやめないといけなくなったんだ」とも言っていました。子ども心なりに私はそのことを強く覚えています。























日蓮の真言の摂取。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて日蓮はかつて「法華真言」と同列に並記するほどに、真言を摂取して学んでいたことは周知の事実です。
例えば建長3年(1251年)、日蓮は京都五条坊門小路で高野山覚鑁の『五輪九字明秘密義釈』を書写しています。

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また金沢文庫に現存する『理性院血脈』では大日如来から25代目、空海から18代目に「日蓮」の名が血脈として伝えられています。

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日蓮真蹟で『不動愛染感見記』が保田妙本寺に現存しますが、ここで日蓮は「生身不動明王拝見。十五日より十七日にいたる。大日如来より日蓮にいたる二十三代嫡々相承」とも書かれています。
この『不動愛染感見記』には不動明王が月と玉兎とともに描かれており、愛染明王は太陽と金烏とともに描かれているので、日蓮がこれらを日月の中に感見したことがわかります。考えてみれば、最初期の頃から日蓮曼荼羅本尊を書き表す時、必ず不動と愛染を梵字で勧請します。



加えて、日蓮空海の著作である『秘蔵宝鑰』をきちんと読み、その空欄に注記も加えています。

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つまり日蓮は相当程度に真言を摂取し、後に真言批判に転じた後も、曼荼羅本尊に不動愛染を勧請し続けるなど、法華経の名の下に真言を包摂しようとした節が見られます。
そもそも本尊を「曼荼羅」(日蓮は「漫荼羅」と書く)と呼びますが、この「曼荼羅」という語は本来真言で使われる言葉です。




単に真言を「邪宗だ」と言って罵ってきた過去が創価学会にはありますが、日蓮の中では真言の影響が少なからずあり、それらをきちんと冷静に学ばなければ、本来、日蓮が何を伝えたかったのかさえ後世に伝わらなくなろうかと思います。そもそも「即身成仏」という教義は空海が作ったものなのであって、法華経には「即身成仏」は説かれていないのです。





参考文献
都守基一『日蓮聖人書入『秘蔵宝鑰』古写本の影印と解題』、大崎学報159号所収、2003年

















早めのドロップアウトを。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会の活動家は年々減少していることは、地区の活動家なら否応なしに実感されていることかと思います。
以前にもブログで多く指摘していたことですが、近年さらに人材難に拍車がかかっているようです。



「人材育成の失敗と総括」

「地域組織の未来」

「活動から身を引くこと」

「超高齢社会の創価学会の未来」


例えば地区部長、地区女性部長が還暦、各ブロック長と白ゆり長が75歳以上しかいないのはざらで、もはや高齢者でしか組織を回せなくなっています。白ゆり長など元本部幹部の出戻りの高齢者が再任されるなど、どうにもならなくなっています。この傾向は地方に強いです。



当然ながら青年部の活動家はほぼゼロに等しいので、仕事は地区の正幹部に全部回ってきます。選挙の応援や書籍の販売、民音など……善意だけでやっていけるのはやがて限界に来ますから、早めに離脱してほしいと思います。



地区幹部のなり手がいなくなったら、信濃町の職業幹部に派遣で入ってもらえばいいのです。
実際、私たちもそうやって、派遣幹部をしてきたではありませんか?
担当者が立たない地域には、別本部や別支部から派遣で支部長やら本部長等、立てていませんでしたか? 私が活動家だった頃からそうでしたが。



早めに離脱して「できません」と言っても、誰も困りません。みんなが困ると思っているのは自分だけで、組織は組織でしかありません。
早めに自分の時間や人生を棒に振る前に、創価学会の活動から離脱しましょう。
罰なんか当たりませんから、安心してドロップアウトしてください。電話も出なくていいです。あとは上の幹部がなんとかします。



苦しい時に頑張ることだけを強調するのが創価学会の特徴です。
私が声を大にして言いたいのは、大変なら一刻も早めに未活や非活、退会を選んで、組織から抜けることです。
もはや創価学会の衰退は既定路線です。何も秋の衆議院選挙の結果まで待つ必要などありません。
信濃町の幹部たちに頑張ってもらえばそれでよいのです。彼らに一人立つ精神で戦ってもらいましょう。
いつまでも地区部長や地区幹部が全てを背負うのはやめにしましょう。






















訳のわからない創価ルネサンス。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて平成4年頃から、創価学会は一時期「創価ルネサンス」という言葉をしきりに使っていました。
例えばマーチングバンドの「創価ルネサンスバンガード」は未だに活動しているかと思いますが、この命名の由来もこの時期の「創価ルネサンス」から来ています。



ルネサンスとは「文芸復興」くらいの意味ですが、創価学会ではこれを「創価人間主義開幕」くらいの意味で当時は使っていました。
内実は大石寺宗門から離れて、創価独自の教義を主張するもので、昭和52年路線の焼き直しに過ぎません。まあ、池田大作氏も54年会長辞任の頃、宗門に苦杯を飲ませられましたから、逆に第2次宗創紛争ではやりたいようにやったのかもしれませんね。



結果、何がどうなったか。



創価学会員は多く、教学的な話がわからなくなりました。
御本尊授与も創価学会独自で始まり、大石寺26世日寛書写本尊の複写が授与されたにもかかわらず、日寛の教義などほとんど知らない青年部を大量生産しました。
大白蓮華等の機関誌での御書の研鑽もレベルがどんどん低下しました。毎月の座談会では大きな文字でデカデカとページに書かれた、わずか数行の文章を皆で音読し、終わりです。



加えて、創価学会の中に独自教義を勝手に主張するような傾向が増えました。
池田大作を「転輪聖王」としたり、創価学会の教団の独自性を「七重・八重の相対」と呼んでみたり、創価大学を「現代の戒壇の意義」とか呼ぶようになるのは、主に波田地克利氏や正木正明氏の影響が強いでしょう。
そんなわけのわからない教学など、日蓮門流や仏教関係者から見向きもされないで終わるだけですが、彼らは自分たちが何をやっているのかさえわからなくなってしまっています。
今でも正木正明氏、波田地克利氏の影響が強い幹部は、訳の分からない教義の当て嵌めが好きです。そんな人たちに限って「宇宙の真実」とか「生命のリズム」とか、訳の分からないことを言い出します。
そんなものは仏教であるはずもないのに、彼らはそんな基本的な批判すら受容できずに、内側の殻に閉じこもることしかできなくなっているのです。



宇宙生命の「法」と個人の内的な生命とが一致するというのは、仏教ではなくてウパニシャッド思想です。仏教で最も近い考え方を探すなら大日如来法身仏とする真言になるでしょう。
彼らは日蓮門流を名乗りながら、五重の相対で内外相対の「外道」に戻るのが仏教の本流だと考えているのでしょうか。



私は宇宙とか生命とか常住の法とか、そんなことを主張する人たちを全く信用していません。そんなことを主張する人たちは、真摯に仏典を読んでいないことを暴露しているに等しいのです。
永遠の法や常住の仏、また涅槃に憧れるのが人間の常ですが、そもそもそこへの執着を捨てることを教えたのが仏教であったはずです。
「御義口伝には真理がある」とか「池田先生は間違っていない」とか「御本尊に確信がある」とか、そういうわけのわからない思い込みを全て捨てることなのです。
仏教の教えは、そのような常住の教えを否定することにあります。
釈迦は「大パーリニッバーナ経」で、釈迦から離れて自身を島にすることを伝えています。
























丑寅勤行について。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて日蓮正宗大石寺には、客殿で行われる「丑寅勤行」というものが伝わっています。
これは時の法主が東向きの席に座して、丑寅の刻(午前2時〜4時)から勤行をするというものです。
ところが、この由来が全く不明であります。



大石寺側は「釈迦の成道の時が丑寅の刻」とか「竜の口の法難の時が丑寅」とか、後付けの説明を色々としているようなのですが、そもそも「丑寅勤行」という化儀を日蓮や日興等の文献から見出すことができないのです。
そもそも日興執筆の『宗祖御遷化記録』では、日蓮の入滅は辰刻(午前8時)ですし、入棺の儀は戌刻(夜の12時)です。
また丑寅勤行を行っていたとする記述は日興や日目、日道にありません。日道の『三師御伝土代』にも丑寅勤行の記述はないのです。



したがって、丑寅勤行というのは大石寺だけの独自教義でして、なんらかの別の理由があって後世に作られた教義としか考えられません。日興門流の他宗門にも全く伝わっていない化儀でありますし、日興や日目や日道が丑寅勤行をしていたとされる上古の文献記述は全く存在しません。そもそも十二支による時間記述法では太陽の出る時間帯と出ない時間帯をそれぞれ6分割しますから、春分の日秋分の日以外は1年間のほとんどが正確に「丑寅の刻」を計測などできなかったはずです。



丑寅勤行というのは、考えれば考えるほど不思議な教義です。そもそも丑寅という時間は「丑の刻参り」と言われるように、生と死の境目の時間と考えられ、藁人形に五寸釘を打ち付けて呪いをかけたりする時間でありました。平安時代には「丑の刻参り」は既に存在していたと考えられています。
そんな不吉な時間に、しかも正確な時計も存在しない時代に勤行をするということ自体、何か理由がなければ説明がつきません。考えれば考えるほど、大石寺の「丑寅勤行」という教義はどこか異様な教義のように感じられてなりません。
丑寅とは鬼門、鬼の時間であって、だからこそ昔話の「桃太郎」でも鬼は「牛の角」を生やして「虎の皮の下着」を着ているのです。そしてそれに対抗する桃太郎は、十二支で「丑寅」の反対側に位置する「猿」「鳥」「犬」を従者に選んだと言われます。
















間違いを認める態度。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私は教学の小難しい問題をいろいろブログで書きますが、正直ちゃんと書けているのか、冷汗三斗の思いです。
というのは、いちおう裏をとって文献に書いてあることを可能な限り紹介しつつ、客観的に書くようにはしているのですが、自分自身の知識の無さを自覚しているからなんです。



私のブログを読む方たちなら、さまざまな他のブログやサイトもご覧になられることでしょう。私はその中でも自身に非常な劣等感があります。というのも専門的に仏教を研究されている方に比べたら、私の知識など浅はかなものだからです。自分でもよくわかっているつもりです。
だからこのブログは、気楽非活のような大して勉強もできない人間が、一つ一つ丁寧に文献を読み、自分がわかったことだけを素直に書いているだけなんです。



私の大原則は
「自分がわかったことをわかりやすく書く」
「根拠を文献から客観的に示す」
「間違えたらそのことは素直に認めて反省して撤回する」
ということです。



例えば私は念仏を大事にしているとはいえ、自身の信仰が教学的に批判されるなら、その批判は甘んじて受けたいですし、自身の信仰を更新することも辞さないつもりです。
私は今までたくさんの間違いを犯してきました。創価学会の活動家として、また日蓮正宗教条主義的な信徒として、多くの他の信仰者を愚弄し、批判を受け入れずに失礼なことを多くしてきました。
そのような過去の自分を知る故に、私はこれ以上、そのような態度で生きたくないと思っています。
私は間違えた時に素直に反省したいのですし、そのことを気づかせてくれる批判者がいる時は素直にそのことを認めて、他者に感謝できる自身でありたいのです。


なぜそう思うのか、それは多くの創価学会信徒、また日蓮正宗信徒の活動家、元活動家の多くがそのことをできないからです。
彼らの多くは自己正当化の論理からなかなか離れられません。過去の私がそうでしたから、経験としてわかります。過去の自分も含め、彼らは他者を貶めて自身の都合の悪いことには多く蓋をして隠そうとするのです。



私はもう二度とそのような生き方をしたくありません。踏み込んで言うなら、大石寺系教団を批判して個人の信仰に入りたいと真に願うなら、自身の過ちをまず積極的に認め、自身の立場を絶対視せずに否定する態度をまず持つべきなのです。
それなのに、自分がわからないこと、検証してもいないこと、語れないこと等に関して、私などが文献的・史料的根拠から批判をすると、途端に狂ったように騒ぎ出す退会者が一定数存在するのです。
どちらかというと、これは元大石寺信徒より、元創価学会員に多いように実感として感じます。



私の過去のブログ記事を読めばわかるかと思いますが、私はかつて日蓮その人を絶対視し、日蓮の題目の中に止観の修行の本義を見ようとして、日蓮を再解釈しようとしたところがありました。過去の自分を認めるのは恥ずかしいことですが、記事の内容は基本変えずにそのままにしてあります。よく読めばわかるでしょう。
けれどいつまでも日蓮を理想に当て嵌めて、悦に入っているだけの自分ではいけませんし、そもそもその根拠を史料的に示さなければ何の意味もない空論に堕するだけです。




私は若い頃、御義口伝の読書ノートを作っていました。ちょうど平成5年〜10年前後にかけてで、宗創紛争真っ最中の時です。
その当時は「創価ルネサンス」なんて言葉まで組織内では流行語のように謳われていました。今やもはや死語に近いですが、当時はどのように大石寺宗門の教義から創価学会が脱却するか、模索の時期のように当時は感じていました。




ところが、その後、さまざまに検証していく中で、『御義口伝』が限りなく偽書に近い、後世に創作されたものでしかないこと、そもそも大石寺にも『御義口伝』の上古の写本は存在せず、最古の写本は日羅滅後257年、八品派のものしか存在しないこと、その信用性の低さ等がわかってきました。




大石寺写本『御義口伝』の改竄」




私はそれまで膨大な時間をかけて研鑽してきた『御義口伝』の大量の研究ノートをほとんど全て否定して処分しました。それは過去の自分の正当性を否定する行為であり、それなりの自己否定とともに痛みも伴いました。しかし私はそれを行いました。
結果、私は特定の大石寺系教義に囚われない、自由な視点を手に入れました。過去の自分の視点が桎梏になり、見えなかったものが、それらを否定することによって見えるようになったのです。



私は史料の検証のために未だに文献に目を通しています。自身の頭の悪さもあって、亀の歩みのような遅さですが、それは自身の理解力の低さのせいなので仕方のないことです。
私は自分の愚かさのせいで、過去に多くの過ちを犯したことを悔い、その反省のつもりで今はブログを書いています。その奥底には「今は亡き母に本当のことを伝えられなかった」という、強い後悔があることも事実です。
私がもっと賢明であったら、私にもっと柔軟な発想があったら、私にもっと包容力があれば、もしかしたら私は母の恐れも取り除いて……その命を永らえさせることもできたかもしれない……そう思ってしまうのはもしかしたら自身の傲慢さなのかも知れませんが……ただ胸が今でも痛みます。母に今も申し訳ないと思っていますし、母のいない世界で生きる痛みや悲しみを日々痛感するばかりです。



翻ってみるに、なぜ創価の退会者や大石寺の離檀者の多くの中に、自身を自己弁護し、自己正当化し、自らの非を認められない人が少なからず散見されるのか、それは教団の自己保身の論理にどっぷり浸かってしまったために、今度は「悪いのは教団だ」「私は悪くない」「私は被害者だ」という自己弁護の論理でしか語れなくなっている故だと考えています。



私は多くの間違いを犯してきました。
そのことを隠さない自分でいたいだけです。
だからこそ「ごめんなさい」を言えない人を、私は心の底から軽蔑します。
私はただ単に、自分が誤った時にきちんと「ごめんなさい」を言える人になりたいだけなのです。


























嘱累品を元の位置に戻すと見えて来るストーリー。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、嘱累品第22は本来サンスクリット原典では最終章でした。実際、竺法護訳の正法華でも嘱累品は最終章に配置されています。
嘱累品が薬王菩薩本事品第23の前に無理矢理に嵌め込まれてしまうと、法華経の本来のストーリーが見えなくなってしまうんですね。
あるいは、鳩摩羅什漢訳の妙法華では意図的に順番を変え、宿王華所伝の法華広宣流布を無理矢理に捃拾説で上行所伝に歪曲したのではないかと考えています。


嘱累品が最終章である理由は、

1、サンスクリット原典でも竺法護訳の正法華でも嘱累品は最終章である。

2、嘱累品で虚空会の儀式が終わり、宝塔が閉じた筈なのに、次の薬王品ではきちんと「多宝如来。於宝塔中。」という文章があるので、宝塔の儀式が実は薬王品以降も閉幕していないことが文章からわかる。


この辺の事情を説明するために、法華経の従地湧出品第15から概略を説明してみましょう。


【従地湧出品第15】
他方の国土から集まった諸菩薩たちが冒頭で「私たちが仏の滅後に法華経を広めます」と決意を述べるが、釈迦はそれに対して「止善男子。不須汝等。護持此経。」として彼らの要求を退ける。その後、大地の底から地涌の菩薩らを招集する。会衆は「釈迦がどのようにこの諸菩薩らを教化したのか」と尋ねる。


如来寿量品第16】
会衆が釈迦に三度尋ね、さらに再び尋ねた後に釈迦が仏として成道してから無量の時間が経過していることを告白する。そして法華経の教えを子どもたちに残すために色香美味の良薬を「今留在此」とし、置いていくことを宣言する。


【分別功徳品〜常不軽菩薩品まではとりあえず割愛します】


如来神力品第21】
上行菩薩等大衆に嘱累をしようと分別功徳品からずーっと法華経の功徳を説いてきたが、言い尽くすことが出来なかったとして「猶不能盡」と言い残す。


【薬王菩薩本事品第23】
従地湧出品で会衆に付嘱せず、如来寿量品で「今留在此」とされた法華経を、宿王華菩薩に付嘱し、釈迦は初めてこの時に「自分の滅後に広宣流布をするように」と宿王華に委任する。宝塔中の多宝如来もこれを聞いて宿王華を讃嘆し「多宝如来。於宝塔中。讃宿王華菩薩言。善哉善哉。宿王華。汝成就。不可思議功徳。乃能問。釈迦牟尼仏。如此之事。利益無量。一切衆生。」として薬王品が閉幕する。


……とこうなります。
つまり鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経だと神力品と薬王品との間に無理矢理に嘱累品が「第22章」として嵌め込まれ、宿王華菩薩への付属が「捃拾」として付録扱いになってしまいます。
ところが、嘱累品を最終章として本来の順番に戻してやることで、従地湧出品から薬王菩薩本事品に繋がる付嘱のストーリーが明確に見えるようになります。事実、薬王品の末尾にはきちんと多宝如来が宝塔中から宿王華への賛辞を述べていまして、虚空会の儀式も閉幕していないし、宝塔も閉じていないのは文章からも明らかです。



つまり日蓮法華経解釈における、法華経の上行所伝の説は、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経の順番と天台智顗の捃拾説による歪曲とをそのままに受け取ってしまった誤解であったということです。
ただこれにより日蓮を無節操に非難するのは若干当たらない気もします。確かに当時の時代背景もありますし、歴史的文脈から当時の日本の仏教がいかに中国仏教を引きずっていたのかがよくわかるというものです。



大切なことは、そのような史料的検討ができる現代にあっては、日蓮の天台智顗の捃拾説による法華経解釈が間違いであったことは明瞭な事実なのであって、現代の私たちは、ではその事実を知った上でどのように信仰を捉えていくのかということを問われているのだということです。
教団の提示するドグマに従って、どこかに真実の法があることを願う心もわからなくはありませんが、本来、龍樹の考える大乗の教えとは、そのような実在性への憧憬を否定するところから始まったのだと私は考えています。




追記
以下の記事が参考になろうかと思います。本来嘱累品は法華経の最終章なのであり、薬王品の前に変えられていること自体が不自然なことです。

「二処三会は存在しない」

「本来の法華経の構成」