戒壇本尊に紙幅の原本は存在しない。
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、このブログでは、大石寺・戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを何度か検証しています。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/06/10/000000
「戒壇本尊の重さ」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/07/11/000000
ところで、上記記事「戒壇本尊の重さ」で書いたように、戒壇本尊は楠木の丸太の表面を削って作られています。これ自体がすでに偽作であると私は考えているのですが、大石寺系教義に固執したい信徒の方々には「もともと紙幅の元の本尊があって、それを楠木に彫刻したのではないか」と希望的観測のように考える方もおられるようです。
結論から言えば、戒壇本尊の原本になったような紙幅の本尊は存在していません。そしてそのような紙幅本尊の原本の存在を、大石寺・日蓮正宗は公式な見解として否定しています。
なぜならそれらの議論はすでに明治12年の北山本門寺と上条大石寺の問答(両山問答、または霑志問答とも)で、すでに議論されているからです。
この両山問答の中で、北山本門寺の玉野日志は以下のような質問をしています。
「又其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語ツて云ク大石寺に戒壇の本尊あり惜イかな九代日有師之を彫刻して其ノ本紙を失すと、有師板本尊を彫刻して癩病を感ぜりとは日興一派の伝説なり、」
(『両山問答』富士宗学要集7-44ページ)
これに対する大石寺52世の鈴木日霑の回答は以下のようになります。
「又其ノ彫尅は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語ツて云ハくとは死人に口なし能キ証人なり、彼ノ便妙なる者、吾ガ信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是レ必ず死して其ノ人の亡きを幸とし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か、若シ万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ズこの妄言出せし現報なるべし豈慎まざるべけんや。」
(『両山問答』富士宗学要集7-101ページ)
久遠院弁妙の友人である大友有忠が玉野日志に語ったところによれば、紙の戒壇本尊の「本紙」があって、大石寺9世日有がそれを板に彫刻した際に紛失したとされているのですが、鈴木日霑はこれらが「死人に口なし」であって「妄言」であると結論付けています。またこの発言が仮にあったとすれば、彼が亡くなったのは「妄言による現報」であるとさえ述べています。
蛇足ながら、日蓮が亡くなる時、池上邸にて奉掲した本尊は、弘安3年3月書写のいわゆる「臨滅度時本尊」です。現在この臨滅度時本尊は鎌倉妙本寺に存在します。また西山日代の『宰相阿闍梨御返事』で、日蓮入滅に際し、この臨滅度時本尊が掲げられたことが述べられています(日蓮宗宗学全書2-234ページ)。
もし日蓮が亡くなる時に、紙幅の戒壇本尊が仮に存在していたと仮定すると、なぜこの池上邸に戒壇本尊が懸けられなかったのかが不自然になります。加えて臨滅度時本尊は縦161.5cm、横102.7cmの大きな紙幅本尊です。表面の面積で言えば戒壇本尊よりも大きいことになります(戒壇本尊は縦143cm、横65cmです)。
大石寺26世堅樹日寛が「究竟中の究竟」とまで呼ぶ「戒壇本尊」が丸太以前に紙幅で先に存在したと仮定するなら、その「究竟中の究竟」の本尊をなぜ日蓮が入滅にあたって懸けなかったのか非常に不自然です。
以上のことからも、戒壇本尊は丸木で作られた後世の偽作であり、そしてその紙幅の原本が存在したということもあり得ないということです。『両山問答』からも明らかなように、大石寺・日蓮正宗自体が戒壇本尊の紙幅原本説をそもそも否定しているのですから。
歎異抄を読む
いつもみなさん、ありがとうございます。
私が最近、親鸞の著作を読んでいて、念仏思想に接近しているのは、このブログ読者の方なら多くがご存じのことかもしれません。
親鸞の『歎異抄』を読んでいて、最初に衝撃的だったのは、次のような一節に出会ったことです。
「をのをの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行をもよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。」
(金子大栄校注『歎異抄』、42~43ページ、岩波文庫、1931年)
文章を読んで、親鸞の弟子たちには「念仏は地獄の業である」とする説に戸惑う者も多かったことが推察できます。それはともかくとして、私が驚いたのは、「念仏が地獄の業であるか否か」と質問された親鸞の答えは「知らない」(存知せざるなり)と答えていることです。
親鸞の言葉には一切の虚飾がありません。弥陀の本願とは「いづれの行も及びがたき身」の私たちのために発起せらるるもので、そもそもの最初から親鸞は自身の見解とか解釈というものを持つことを放棄し、裸の人間として振る舞っているように私には思えます。
さらには「師の法然に騙されても構わない」とし「いかなる仏行もかなわない愚かなるおのれの身なれば、地獄は一定」「それであるならば、弥陀の本願を信じる」ということ。自分自身が仏道に適う身ではないとさらりと述べてしまうところが、親鸞らしいなあと感じてしまいます。
続いて次のような文章に出会いました。
「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ、そのゆへは、わがはからひにて、ひとにまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたり荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかえさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。」
(同51ページ)
ここで親鸞は自身が師匠になることを否定しています。自分についてくるもよし、離れるもよし、そのどちらも認めています。他者に何かを教えようとか伝えようとかする私心が全くない。ただおのれはおのれの信じる道を進んで弥陀の本願にすがるだけとしているのです。
創価学会や大石寺系教団は、やたら師弟関係を強調します。創価学会なら池田大作氏が教義的に「永遠の師匠」となっていますし、大石寺だったら法主が「手続ぎの師匠」ですし、また所属寺院の住職も「手続ぎの師匠」の一分にあたります(『大百法』平成13年6月16日、教学用語解説他)。顕正会でしたら「無二の師匠」は浅井昭衛氏になるはずです。
しかしながら「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と述べています。親鸞にあっては信心は自分の力によって起こすものでもなく、また自分の力によって他者の信心を起こすことでもなかったのだと思います。つまり信心は如来の働きによって起こるもので、そして弥陀の本願の前で自分たちは単なる煩悩具足の凡夫に過ぎない、そのことを親鸞は徹底して自覚しているのでしょう。だからこそ彼は「自分は一人も弟子を持たない」と言い切り、自身も後進もまたともに仏道を学んでいく同朋であると考えているのだと思います。
「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転する苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこいひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと、云々。」
(同54~55ページ)
弟子の唯円が「浄土を信じて念仏を唱えているけれど、歓喜の心も湧いて来ないし、浄土への思慕の思いも薄い。これはどうしたことか」と親鸞に尋ねると、なんと親鸞は「自分も同じだ」と答えます。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩の所為であり、浄土への思慕がわかないのは現世への執着が残っているからだと彼は述べます。
そこにこそ煩悩具足の人間の現実がある。親鸞の言わんとしていることは「その現実を見ろ」「そのような愚かな自分であることを認めるべきだ」ということなんですね。だからこそこの節の末尾で親鸞は「歓喜の心もわいてきて、急いで浄土に行きたいなどという人が出たら、煩悩のない人なのかと怪しく思うべきだ」と述べてさえいます。
校注者の金子大栄はここの解説で以下のように述べています。
「念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」
(同56ページ)
大石寺系教団の題目を唱えている人たちの多くが、一種のトランス状態のようになっているように私には思えてきます。
それに比して、親鸞の自身を見る眼差しこそ、今の私に必要なものだと改めて感じます。
私の言葉で言い換えれば、宗教の意義とは私たちを恍惚の境地に導くものなのではなく、剥き出しの自分の弱さと罪深さに覚醒することにあると言えるのではないでしょうか。
神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて前回の記事で、日蓮・日興も法華経を中心とした国家思想を考えていたこと、そしてその上で「法華垂迹天照大神宮」を建立し、本門寺建立の暁に本門寺垂迹神は天照大神になることを実質認めていたことを簡単に書きました。
以前の記事でも書いたことですが、このことは実は大石寺も認めていまして、日蓮正宗の公式な見解としては「広宣流布の時に至って神社を建立し、その中に曼荼羅本尊を懸け奉ることは本来のあるべき姿」であるということです。だからこそ日蓮正宗の公式な見解として沼津・東井出の浅間神社に大石寺33世日元書写本尊が奉納されている事実も認めています。平成18年の『慧妙』から引用してみましょう。
「沼津に数ある浅間神社のうち、日元上人の御本尊が御安置されている浅間神社のある一帯は『東井出』といい、代々大石寺の総代を務める井出家に連なる人の所領であった。しかも、目と鼻の先には、日蓮正宗の古刹の一つである蓮興寺がある。
蓮興寺は、承応元年(1652年)6月8日、総本山第20世・日典上人によって再興されているから、それ以前のことも考え合わせれば、再興から百年以上も下った日元上人の御代には、一帯全てが日蓮正宗に帰伏していた、といえよう。つまり、この時期、この一帯はすでに広宣流布されていた、と見てよいのである。
ところで日有上人は、『化儀抄』に、日興上人が重須に八幡の社を建立し、その中に御本尊を懸けられた、と記されている。(『富士宗学要集』第1巻157頁)
しかして日有上人は、その意義について、これは、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社を建てるように、という手本の意味で建立されたものである、とされている。
つまり、広宣流布の時には、神社を建立し、その内に御本尊を祀ることは謗法ではないばかりか(むろん他の神体などと一緒に祀るわけではなく、あくまでも御本尊のみ)、むしろ、それがあるべき姿である、ということである。
現に、かつて広宣流布がなされた大石寺周辺には、大石寺の歴代上人の御本尊が祀られた社が複数あり、その中には、日有上人に係わる社や、日寛上人の御本尊が祀られている社もあるのである。そして、かつて創価学会は、これらを『正しい祭祀の伝統と誇りある先人の偉績』と評していたのである。」
(『慧妙』日蓮正宗、平成18年11月1日、下線はブログ筆者による)
一読して明らかなように、曼荼羅本尊は広宣流布の時に神社に奉納する姿が「あるべき姿」であると書かれています。しかも沼津・東井出という限られた地域だけの「広宣流布」の事態でも、神社への曼荼羅奉納は教義的に特に問題視されていなかったということです。
そして日興本人による『本門寺棟札』が、北山本門寺に現存しています。全文を紹介してみましょう。
「一、日蓮聖人御影堂
一、法華本門寺根源
永仁六年二月十五日造立也
(裏書)
国主被建此法之時三堂一時造営也
願主 白蓮阿闍梨日興 花押 二月十五日 日妙 花押 六十歳
大施主 地頭石川孫三郎源能忠 合力 小泉法華寺
大施主 南條七郎次郎平時光 仝 上野講衆中」
(日興「本門寺棟札」、日蓮正宗歴代法主全書1-88ページ、日蓮宗宗学全書2-111ページ)
一読しておわかりのように、確かに日興が「法華垂迹天照大神宮」を造立し、国主が日蓮の教えを用いる時、三堂は一時に造営すべき旨を述べ、きちんと名判まで付けてあります。
とすると日蓮から日興らが引き継いだ思想に明らかに神道が存在し、広宣流布の時の本門寺の垂迹神は天照大神になるという日興の考え方を、大石寺はきちんと踏襲していたことになろうかと思います。
つまり日蓮・日興にあっては、法華経を信じるものが天照大神を奉戴するのはむしろあるべき本来の正しい姿なのであって、法華経を信じるものが天照大神や八幡を拝むことはなんら禁止されたものではなかったということです。だからこそ昔からの根檀家とも言うべき伝統講、旧来からの大石寺信者さんの多くが普通に浅間神社を参拝していたのは謗法でも何でもない、普通の信仰だったということです。その信仰が昭和に入り、創価学会による狸祭り事件での小笠原慈聞の吊るし上げ等により、徐々に大石寺の教義が浸食を受け、創価学会寄りの教義に変わっていったというのが偽らざる実態なのではないかと私は考えています。
追記
実際、大石寺33世日元だけではなく、51世日英も浅間神社に曼荼羅本尊を奉納しています。以下の記事に画像を載せましたので参考までに。
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/09/031232
つまり33世日元にせよ、51世日英にせよ、これらの本尊奉納は大石寺の日興の教義から考えても、別段問題があるものではなく、むしろ本来の日興の思想としてふさわしいものとして当時は考えられていたということになるでしょう。そうでなければ大石寺の法主本人が神社に本尊を奉納するという事自体、筋が通らなくなるはずです。
純粋な日蓮の思想を考えると
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて前回の記事で、日蓮の純粋な思想について概ね4点についてあげてみました。
1、日蓮は大前提として日本古来の神道を深く信奉しており、天照大神や八幡大菩薩の加護を深く信じていた。
2、日蓮は国家の奉じる宗教に法華経を用いるべしと考えており、かつて比叡山が国家権力と結びついたのと同様に、自身が国家に重用されて加持祈祷を行うべきだと考えていた。したがって「折伏」とは国家権力としての「賢王」が行う行為であり、僧侶となって法を弘持するのは僧である日蓮の役目となる。
3、このような極端な国家主義ともいえる日蓮の思想は、儒教の影響を強く受けており、とりわけ『貞観政要』における帝王学が日蓮の行動原理の一つになっていることは諸御抄から推察できる。
4、比叡山の再興を願う日蓮の法華経解釈は、基本的に中国天台宗の教義を原則としており、とりわけ妙楽湛然の影響が強い。また法華経そのものの解釈も天台の影響が強く、法華経の読解も道元などと違って、自身の教義のために解釈する、曲解の要素が強い。
日蓮は『新尼御前御返事』(身延曽存)において、源頼朝が天照大神を奉ずる心が強かったゆえに将軍になったことを認め、評価しています。法華経信仰と同様に日蓮が重んじたものこそ天照大神に対する信仰心、神道なのです。
「天照大神は東条の郷に住まう」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2019/01/05/000000
このような神道を重んじる心があったからこそ、曼荼羅本尊には「天照大神」と「八幡大菩薩」が書かれています。両者とも法華経には全く出てきません。それにもかかわらず、勧請されているのです。
そして日蓮の純粋な弟子である日興も、師と同じく天照大神を奉じていました。日興の『三時弘経次第』には以下のように書かれています。
「天照大神勅曰 葦原千五百秋之瑞穂之国。是吾子孫可王之地也。宜爾就而治焉。行矣。寶祚之隆当與天壌無窮。」
日興本人がここで『日本書紀』由来の葦原中国平定を史実として採用し、それを日本国の正史として捉えていることがわかります。「瑞穂之国」とは『日本書紀』における日本国の美称のことです。
また日興本人は永仁6年(1298年)2月に「本化垂迹天照大神宮」を北山に建立しています。このことは大石寺9世の日有も『化儀抄』で認めています。
また日蓮は、承久の乱において、後鳥羽上皇が挙兵に際し、41人の高僧を呼び、戦勝祈祷の十五壇の秘法を用いて調伏した結果、戦に敗れ、隠岐に流された事実をもって「上皇方を勝利に導かなかったのは用いた法が亡国だったからだ」とし、既成宗派への批判を開始します。根底にあるのは「国家は正しい教えを持つ僧侶を用いるべきだ」という儒教の考え方です。だからこそ日蓮は国家への諌暁を行い、弟子の日興も日目も国家への諌暁・天奏を行ったのです。それゆえ日蓮の描く理想の国家とは祭政一致国家、すなわち政教一致の国家です。
『神国王御書』(真蹟:京都妙顕寺現存)には以下のように書かれています。
「されば神武天皇より已来百王にいたるまでは・いかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず・王位を傾くる者も有るべからず、一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す、いかにとして彼れ彼の四王は王位ををいをとされ国をうばはるるのみならず・命を海にすて身を島島に入れ給いけるやらむ、天照大神は玉体に入りかわり給はざりけるか・八幡大菩薩の百王の誓は・いかにとなりぬるぞ」
(創価学会版御書全集1519〜1520ページ)
また『真言見聞』(真蹟不存、民部日向『金綱集』に引用あり)には以下のように書かれています。
「承久の兵乱の時・関東には其の用意もなし国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる、其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行わる七日に満ぜし日・京方負け畢んぬ亡国の現証に非ずや」
(同142ページ)
そして日蓮の思想には『貞観政要』の影響が強いことも、諸御抄から推察できます(事実、日蓮自身が書写した『貞観政要』真蹟が北山本門寺に現存しています)。祭政一致国家の調伏を担当する正統な僧侶は日蓮自身であるという自覚に立ち、為政者を諌め、正しい法を国家が奉戴する時、立正安国の世界が現出するという考え方が日蓮の純粋な思想でしょう。
そして日蓮は晩年の『撰時抄』(真蹟:玉沢妙法華寺に現存)で、他宗派への弾圧を公然と述べるようになります。
「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」
(同287ページ)
ここで注意したいことは、日蓮は出家者ゆえに人を殺めることが宗教上できません。日蓮が述べているのは為政者に対して「他宗派の罪深い念仏者等を斬刑に処すべきだ」と進言しているのだということです。
だからこそ日蓮にあっては「折伏」という語は本来「布教」のニュアンスで用いられていないのです。
「『摂受』と『折伏』について」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/23/000000
上記の記事にも書いたことですが、日蓮の認識する「折伏」とは武力・暴力の介在を容認するものなのです。そしてそれは出家者には許されません。したがって日蓮の考えとは、出家者の役割はその卓越した人格によって「折伏を間接的に出現させる存在」であり、「折伏を直接に行う存在」は、神仏や為政者なのです。
『観心本尊抄』(真蹟:中山法華経寺)では次のように書かれています。
「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」
(同254ページ)
したがって日蓮にとっての「折伏」とは、「賢王」すなわち為政者が「愚王を誡責」すること、すなわち処罰することなのです。
上に述べたような、これらの「日蓮の純粋な思想」を純粋に行うとどうなるでしょうか。
祭政一致国家の樹立、天照大神宮の創設、政府による他宗派の公然たる弾圧…………、これら全てが現代ではほぼ無効であることは誰の目にも明らかであると思います。このことを純粋に行おうとした教団は恐らく国柱会であり、現代では顕正会の教義に近くなるかと思います。まあ、もっとも顕正会は神社参拝など決して認めないでしょうけど(笑)。
私は上記のような日蓮の思想の事実を知り、正直なところ辟易しました。
創価学会や大石寺のように、日蓮の思想でも何でもないものを日蓮にとってくっつけて「宇宙の生命の法」とか「弘安2年の戒壇本尊」とかわけのわからないことを述べているのも辟易ですが、正直なところ、こんな国粋主義的で儒教のメンタリティに彩られた日蓮という人の思想にも御免蒙りたいところであります。
純粋な日蓮の思想について。
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私はブログ開設当初、創価学会非活動の会員として、教義の検証をかねてこのブログの記事を書き始めたようなところがあります。
今はすでに創価学会を退会していますが、当初は日蓮の教えとは何なのか、大石寺系教義のどこがおかしいのか検証をしていました。
私の最大の誤りは、当初、日蓮を絶対視していたところです。
検証を進めるにつれ、日蓮の教えというものがいかに仏教とかけ離れたものがあるかがわかってきました。
私が検証した結果、現在考えている日蓮思想とは以下のようなものです。
1、日蓮は大前提として日本古来の神道を深く信奉しており、天照大神や八幡大菩薩の加護を深く信じていた。
2、日蓮は国家の奉じる宗教に法華経を用いるべしと考えており、かつて比叡山が国家権力と結びついたのと同様に、自身が国家に重用されて加持祈祷を行うべきだと考えていた。したがって「折伏」とは国家権力としての「賢王」が行う行為であり、僧侶となって法を弘持するのは僧である日蓮の役目となる。
3、このような極端な国家主義ともいえる日蓮の思想は、儒教の影響を強く受けており、とりわけ『貞観政要』における帝王学が日蓮の行動原理の一つになっていることは諸御抄から推察できる。
4、比叡山の再興を願う日蓮の法華経解釈は、基本的に中国天台宗の教義を原則としており、とりわけ妙楽湛然の影響が強い。また法華経そのものの解釈も天台の影響が強く、法華経の読解も道元などと違って、自身の教義のために解釈する、曲解の要素が強い。
とまあ、上のようになります。
もちろん鎌倉時代の混沌とした情勢の中にあって、『立正安国論』では比叡山の凋落の様子が描かれています。日蓮自身、比叡山が見るに耐えない窮状になっていることを憂い、法華経中心の国家を夢見たことは自然なことでしょうし、その思い自体が悪いとは思いません。
ただそれが仏教の本質なのかと言えば、それは違うと思います。法華経安楽行品では仏法者が為政者とかかわることを禁じています。だからこそ日蓮が国家とかかわることを強調する発想は、すでに仏教ではないのです。
私にとっての問題は、その現実を知ってなお日蓮の考える法華経中心思想を信じるのか、それともそれらから離れるのか、という点でした。
私は今さら執着するものなどないと考え、日蓮から離れました。
他の方々が日蓮の思想を深め、日蓮によって立正安国の世界を実現しようとすることは構わないことでしょう。
しかし私は仏教を求めたかったのであって、儒教を極めたいわけでもないし、日蓮や天台解釈の法華経を信じたかったわけでもありません。日蓮の神話作成のために法華経が存在するわけでもないですし、まして法華経が「生命の法」を説くために説かれたとする池田大作らの主張は、単なるウパニシャッド思想であって、仏教以前の六師の思想に戻ることにしかなりません。まして「法華経=生命」が日蓮の思想などと言うなら、それこそ牽強付会も甚だしいというものです。それなら日蓮の思想は彼が否定した「外道」と同じになってしまいます。
追記:
上記、日蓮思想
1の補足のために
「天照大神は東条の郷に住まう」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2019/01/05/000000
2の補足のために
「加持祈祷」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/03/18/000000
「承久の乱について」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/15/000000
3の補足のために
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/06/08/060417
「『貞観政要』のこと」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/01/15/000000
4の補足のために
「『一代聖教大意』から見る日蓮の一念三千説の理解」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/23/045244
「『有供養者福過十号』と『若悩乱者頭破七分』」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/12/16/000000
「十界の成立について」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/12/30/000000
悪いと思わない人たち。
いつも、みなさん、ありがとうございます。
さて、私はこのブログでいろいろ書いて、大石寺系・創価系教団の教義を批判し、現在は龍樹や親鸞を根本とする念仏信仰を求めようとしています。
私はこのブログで創価学会の教義の変節を批判したりもしますが、最近気になるのは、そのことを「さして問題視しない人たち」の存在です。
これは大石寺系の法華講信徒さんもそうなのですが、文献的な批判をすると「それのどこが問題なの?」と平気で言うような人たちが一定数存在するということです。
例えば創価学会は2014年11月に教義会則を変更し、戒壇本尊を「受持の対象としない」ことを明確にしました。
私はそもそも戒壇本尊への信憑性の低さを当ブログでいろいろ書いていますので、それは最も当然な判断であるとは思います。私がむしろ批判するのは
「創価学会がそれまで主張してきた本尊義と矛盾する」という点、
そして
「そもそも創価学会本部にある常住本尊は大石寺64世水谷日昇が書写したものであり、これを拝むということは戒壇本尊義を実質的に黙認するということと同義になる」
という2点に要約されます。創価学会は戒壇本尊を「受持の対象としない」とは言いましたが、「戒壇本尊は日蓮の真作ではなく偽物である」とは公式に認めていないのです。
ところが、そんなことを述べても、彼らの中には「それが別にどうかしたの」という態度の方が一定数います。
こういった人たちの態度を見るにつけ、私は「ああ、私とは全く違う種類の人たちなのだ」と思います。彼らは私の論理の方へ降りてくることができず、自分たちの論理に上がってくる人間だけを相手にしているのです。そしてそのことを自覚できていないのです。
例えば2015年9月5日に創価大学で開催された「日本宗教学会第74回学術大会」で、宮田幸一氏(創価大学教授)は次のようなパネル発言の要旨を書いています。
「学問的研究と教団の教義―創価学会の場合
昨年創価学会は、会則の教義条項を変更した。創価学会は長年日蓮正宗の信徒団体として日蓮正宗の教義を信奉してきたが、日蓮正宗から分離した後、どのように独自の教義を形成していくのか不明であった。今回の改正では、戒壇本尊論が日蓮遺文の中では正当化できないという論法で、その議論を否定した。この論法は日蓮思想研究における学問的成果を受け入れた上で、教義形成を進めるという創価学会の方向性を示したということができよう。この方向性にはさまざまな困難が伴うが、その困難のいくつかについて検討したい。」
(宮田幸一「日本宗教学会第74回学術大会 パネル発言要旨集」より)
つまり創価学会の「戒壇本尊を受持の対象としない」という教義会則変更は、「戒壇本尊が日蓮遺文の中では正当化できないという論法で」戒壇本尊の受持を否定したことを公式に認めています。
私からすれば、「そうであるならなぜ大石寺64世・水谷日昇の本尊を根本にしているのか」「そうであるならなぜ創価学会は公式に『戒壇本尊は偽作の可能性が高い』ということを原田会長の口を通して発言しないのか」ということが強い疑問として残ります。ところが宮田幸一氏はそういった疑問など全く抱かず、この2014年の教義改正を「学問的成果を受け入れた上で教義形成を進める方向性を示し得た」という点で積極的に評価しているように見えます。
つまり宮田氏もまた他の学会員と同じ精神構造であって、「それのどこが問題なの?」と言って憚らないのでしょう。何が問題であるのか、こちらの論理に降りてこないのです。
幹部と部員の意識のずれなどというものは、昔から創価学会にあったもので、よく言い合いの議論をしていたのを私は昔からよく見て知っていますが、こと本尊義の変更に関しても創価学会幹部たちは「それのどこが問題なのだろう」という顔をして平気でいます。つまり外の意見に対して自分たちが反省するということができないんですね。
これは大石寺系教団信徒によく見られるところでありまして、彼らはどこかで思考停止してしまっているのだと思います。こちら側の意見を聞いて、自分たちの外部の論理に降りていき、「なるほど、確かにそれはおかしいですね」と言えるなら本当の対話かと思いますが、「自分たちは正しい。なぜならちゃんとやっているからだ」という無意識のドグマがあって、会話が成立しないことが一部の創価学会員や法華講信徒さんにはままあるのです。
戒壇本尊の正統性が学問的見地から担保出来ないことを創価学会が公式に認めたのであれば、やはり創価学会は日蓮宗身延山に公式に謝罪をすべきであると思います。それまで小樽問答をはじめ、多くの創価学会員が戒壇本尊の正統性を持ち出して身延山日蓮宗を「邪宗」呼ばわりしてきたことはきちんと謝罪して清算すべきでしょう。
また創価学会は大石寺64世水谷日昇本尊を学会常住の本尊とする教義を白紙撤回すべきでしょう。大石寺の法主の書写した本尊というものは基本として「戒壇本尊を書写したもの」となっているのですから、それを根本尊敬として本部の本尊とすることは矛盾します。
ところが、そういった当たり前の議論を当たり前のこととして受け止めることが多くの創価学会員にはできない。「確かに私たちが間違っているかもしれませんね」と認めることができない、そういう精神構造を醸成してしまっている組織こそが創価学会、そして大石寺の日蓮正宗という教団なのでしょう。