気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

戒壇本尊に紙幅の原本は存在しない。

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて、このブログでは、大石寺戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを何度か検証しています。

 

 

「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248

 

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449

 

「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/06/10/000000

 

戒壇本尊の重さ」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/07/11/000000

 

 

 

ところで、上記記事「戒壇本尊の重さ」で書いたように、戒壇本尊は楠木の丸太の表面を削って作られています。これ自体がすでに偽作であると私は考えているのですが、大石寺系教義に固執したい信徒の方々には「もともと紙幅の元の本尊があって、それを楠木に彫刻したのではないか」と希望的観測のように考える方もおられるようです。

 

 

 

結論から言えば、戒壇本尊の原本になったような紙幅の本尊は存在していません。そしてそのような紙幅本尊の原本の存在を、大石寺日蓮正宗は公式な見解として否定しています。

なぜならそれらの議論はすでに明治12年北山本門寺と上条大石寺の問答(両山問答、または霑志問答とも)で、すでに議論されているからです。

 

 

 

この両山問答の中で、北山本門寺の玉野日志は以下のような質問をしています。

 

 

 

「又其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語ツて云ク大石寺戒壇の本尊あり惜イかな九代日有師之を彫刻して其ノ本紙を失すと、有師板本尊を彫刻して病を感ぜりとは日興一派の伝説なり、」

(『両山問答』富士宗学要集7-44ページ)

 

 

 

これに対する大石寺52世の鈴木日霑の回答は以下のようになります。

 

 

 

「又其ノ彫尅は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語ツて云ハくとは死人に口なし能キ証人なり、彼ノ便妙なる者、吾ガ信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是レ必ず死して其ノ人の亡きを幸とし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か、若シ万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ズこの妄言出せし現報なるべし豈慎まざるべけんや。」

(『両山問答』富士宗学要集7-101ページ)

 

 

 

久遠院弁妙の友人である大友有忠が玉野日志に語ったところによれば、紙の戒壇本尊の「本紙」があって、大石寺9世日有がそれを板に彫刻した際に紛失したとされているのですが、鈴木日霑はこれらが「死人に口なし」であって「妄言」であると結論付けています。またこの発言が仮にあったとすれば、彼が亡くなったのは「妄言による現報」であるとさえ述べています。

 

 

 

蛇足ながら、日蓮が亡くなる時、池上邸にて奉掲した本尊は、弘安3年3月書写のいわゆる「臨滅度時本尊」です。現在この臨滅度時本尊は鎌倉妙本寺に存在します。また西山日代の『宰相阿闍梨御返事』で、日蓮入滅に際し、この臨滅度時本尊が掲げられたことが述べられています(日蓮宗宗学全書2-234ページ)。

もし日蓮が亡くなる時に、紙幅の戒壇本尊が仮に存在していたと仮定すると、なぜこの池上邸に戒壇本尊が懸けられなかったのかが不自然になります。加えて臨滅度時本尊は縦161.5cm、横102.7cmの大きな紙幅本尊です。表面の面積で言えば戒壇本尊よりも大きいことになります(戒壇本尊は縦143cm、横65cmです)。

大石寺26世堅樹日寛が「究竟中の究竟」とまで呼ぶ「戒壇本尊」が丸太以前に紙幅で先に存在したと仮定するなら、その「究竟中の究竟」の本尊をなぜ日蓮が入滅にあたって懸けなかったのか非常に不自然です。

 

 

 

以上のことからも、戒壇本尊は丸木で作られた後世の偽作であり、そしてその紙幅の原本が存在したということもあり得ないということです。『両山問答』からも明らかなように、大石寺日蓮正宗自体が戒壇本尊の紙幅原本説をそもそも否定しているのですから。