気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

天照大神は東条の郷に住まう。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて新年明けてから、いくつか神道日蓮の関係について書いていますが、これ、調べれば調べるほど、日蓮自身が天照大神八幡大菩薩を認めていることがわかります。


例えば日蓮の『新尼御前御返事』(身延曽存)を紹介してみましょう。


「而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神・りおぼせし時・源右将軍と申せし人御起請文をもつて・あをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し・伊勢の外宮にしのび・をさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手に握る将軍となり給いぬ、此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず安房の国東条の郡にすませ給うか、例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国・男山に移り給い、今は相州・鎌倉・鶴が岡に栖み給うこれも・かくのごとし。」
(『新尼御前御返事』創価学会版御書全集、906ページ)


簡単に通解を載せてみましょう。


安房国・東条の郷は地図の上では辺境の国でありながら、実は日本国の中心とも言うべき場所である。なぜなら天照太神がお住まいになっている場所だからである。天照太神は昔、伊勢の国にお住まいになられていたのだが、国王が八幡や加茂の神ばかりを尊崇していて、天照太神への帰依の心が浅かった故に、太神は怒りを覚えておられた。その時、源右大将頼朝という人が御起請文を書き、会加の小大夫に命じて天照太神を奉戴し、伊勢の外宮に安置なされ、太神の御心に叶ったが故に、彼は日本を掌握する将軍となったのである。その頼朝が、安房国東条の郡を天照太神の御栖と定められたのである。したがって、この太神は今は伊勢の国には住まわれておらず、東条の郷に住まわれている筈である。例えば八幡大菩薩は、昔は筑前太宰府に住まわれていたが、中頃に山城の国・男山に移られて、今は相模の国、鎌倉の鶴が岡に住まわれている。天照太神もまた同様なのである。」


日蓮源頼朝が平家を破って将軍になった一つの勝因として、東条の御厨を天照太神に寄進したことを挙げていまして、それが神の御意に叶ったと考えていました。
例えば日蓮の御書で『法門申さるべき様の事』(『法門可被申様之事』真蹟:中山法華経寺蔵)をあげてみましょう。


「例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶけたてまつり結句は山王・大仏殿をやきはらいしかば天照大神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき」
(『法門申さるべき様の事』(法門可被申様之事、同1272ページ)


東条の御厨は源頼朝が寄進したものであり、日蓮はここから東条の郷に天照大神が住んでいると認識し、その正統意識を持っていたと言うことができるかと思います。


つまり大石寺が神社参拝を禁じるようになったのは、本来、日蓮由来の教義なのではなく、日興門弟たちに見られる偏った日蓮解釈によるところが大きいように私には感じられます。