いつもみなさん、ありがとうございます。
日蓮自身はといえば「後の五百歳に当たって広宣流布の時である」ことを諸抄で語っていますけど、そもそも「広宣流布」という語が出てくるのは法華経では薬王菩薩本事品第23においてです。そしてサンスクリット原典では「後の五十年が経過している間に、このジャンブ=ドゥヴィーパ(閻浮提)に行われて消滅しないように」と書かれています(岩本裕訳、岩波文庫版、下209ページ)。サンスクリット原典にはどこにも「広宣流布」に当たる語は存在しません。
日蓮自身は上行菩薩の再誕であるという自覚を持って「広宣流布」をやるべきだとしていますし、創価学会や大石寺信徒さんもそのように考えているみたいですけど、そもそも薬王品で説かれる「広宣流布」は上行菩薩に託されていません。
以前、このことについては、このブログでも触れました。
要するにこの点について、日蓮自身は法華経を原典通り読んでいるのではなく、やや自身に都合の良いように拡大解釈しているわけで、この点について、きちんと説明をしないと教義と法華経との整合性が大石寺も創価学会も取れなくなると思いますね。
最初の話に戻りますが「広宣流布」はサンスクリット原典に該当する語が存在しません。つまり鳩摩羅什の造語です。そして広宣流布そのものは上行菩薩に託されてはいません。そのことを語らず、ごまかすことは、信仰者として誠意ある態度とは私は言えないと思います。