一つは法華経化城喩品第7です。
実は化城喩品というのは深い内容を語っていて、もっと読まれるべき章節であると私は思っています。そのうちこのブログでも化城喩品についてはきちんと何か書きたいですね。
大通智勝仏の16人の王子たちは如来のもとに赴いて教えを請うのですが、法華経を説いてこの16人を悟りに導いたんですね。で、この16人のうち9番目に現れるのが阿弥陀如来で、最後の16人目が釈迦如来なんです。
もう一つは薬王菩薩本事品第23です。
この品はある意味、読むのに気をつけたい章節ではあります。というのは身を犠牲にして尽くすということが説かれている品だからです。
五体に火をつけて燃やして供養するなんてことが書いてあります。
ちなみにこの阿弥陀仏の安楽が説かれた薬王菩薩本事品ですが、創価学会としても重要な経文がたくさん出てきますので、この品は無視できない位置にあります。「広宣流布」という語はここで出てきます。広宣流布という語の由来はこの薬王品です。
中山法華経寺の荒業で火の上を歩くというのがありますが、あれはこの薬王品の「火によって焼くことも能わず」という経文を文字通りにやってしまっているわけですね(笑)。ある意味、純粋といえば純粋なのですが、ややファンダメンタルな香りがしてきます。
日蓮が念仏を批判したことは周知のことです。しかしこの化城喩品と薬王品における阿弥陀仏の位置について、きちんと教義的に説明する責任が教団としてはあると思うのですが、そのような誠実さを日蓮正宗も創価学会もあまり持ち合わせてはいないようです。
追記:
しかしながら限界を見定めて初めて本来の日蓮の思想の有効性もわかるのではないのでしょうか。
そもそも最澄を弘教の先駆とする日蓮は、どうしても五時八教が思想的束縛になっていました。その点についてきちんと指摘して、その思想的な限界を指摘する声は日蓮教団からはほとんど出てきません。つまり日蓮を崇め奉るあまりに全てが盲信になってしまっているのです。それこそまさに「日蓮をあしくうやまう」姿だと思うのですけどね。