気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮正宗の三宝。




日蓮正宗では法主というものがどういう位置にあるのか、いろいろ言われているんですが、その見解が基本的に一貫していません。
要するに「法主」が三宝中の「僧宝」なのか「僧宝に含まれない」のか「内証がある故に本仏と同格扱い」なのか、発言が一貫してないんです。だからどれなのかわかんないんですよ(笑)。




①「法主は僧宝」とする見解。

たとえば日蓮正宗大石寺内事部の見解は以下の通りのようです。

「総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を根本とし、唯授一人の血脈に従い、本門の題目を自行化他にわたって行じることです。
信仰とは、絶対的なものを『信じ仰ぐ』ことです。『何』を対象として信ずるかによって正邪が決まりますが、仏法では三宝を対象とします。
日蓮正宗の法義では『文底下種の三宝』と言って、
仏宝 - 日蓮大聖人
法宝 - 本門戒壇の大御本尊
僧宝 - 日興上人を随一とする御歴代上人
と立てます。」
日蓮正宗法義研鑽委員会編『創価学会「ニセ本尊」破折 - 100問100答 - 』日蓮正宗内事部、1994年)


というわけで、ここで法主が「僧宝」であるとしています。



②「法主は僧宝に含まれない」という見解。

少し長くなりますが、大石寺66世の細井日達氏の発言を引用しましょう。

「ここで考えなければならないのは、我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。

それに対して日目上人は座主である。今云った通り、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めて行く、即ち管領と云う意味を持って行くのである。統べ治める、そして統治をして行く。その日目上人の後は、皆筒の流れのように、それを受継いで行くにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だと云う意味をとっております。即ち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。只三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。まん中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りして行くと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の座です。だから永代、広宣流布の時にはあの座主が即ち目師の再誕という云う事になる。三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。法主が大聖人様の代わりだと、即座にこう云う事を云うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたいと思います。」

大石寺第66世・細井日達、昭和52年5月26日・第19回寺族同心会、『蓮華』74号)


ここで細井日達氏は法主が僧宝にも含まれないし、まして「日蓮大聖人でもない」としています。あくまで法主の座る位置は目師の座る位置にあり、管領であるという見解を示しています。そもそも「日蓮正宗宗規」には「日興上人を僧宝とする」という一文が存在しており、規約として「僧宝」は「日興上人」であると言う見解かと思います。


③「法主には内証があって仏宝と同格」

ところで、法主には受け継がれた"内証"なるものが存在し、本仏日蓮と同格であるとする見解もあります。ここでは第67世阿部日顕氏の発言を引用します。

「宗門古来の"法"の立て方において、二筋の立場があるということであります。つまり、もちろん根本は末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人の御内証におわしますのであり、それを唯我与我の御境涯において二祖日興上人がその仏法の本義をお承け継ぎあそばされて、さらに日目上人、日道上人と、一器の水を一器に移すかたちで今日に伝えられておるということが、宗門の古来からの信条であります。それはそのとうりでありますが、そこに御本尊の御内証という立場と、それから代々の法主がその法を承けて色々な場合において宗門を指導・統率していくという意味からの様々の指南・指導等を行う立場と、その二筋においては一往、分けて考えなければならないと思っております。
大石寺第67世・阿部日顕、昭和58年3月31日・第4回非教師指導会)


この見解は要するに「法主は内証があるから本仏日蓮と同じ」ということでしょう。


…………というわけで、日蓮正宗三宝についての見解は一貫していません(笑)。
よくわかんないんですね。
こういう矛盾があるということは、邪推になりますが、信徒にその時その時で都合の良い教義を教えてきただけなんじゃないですかね。



④「法主だけでなく信徒も僧宝」という見解。

ちなみに大石寺第26世、堅樹日寛の『三宝抄』から引用してみましょう。


「然即吾日興上人嫡々冩瓶御弟子事分明也。故仰末法下種僧宝也。爾来日目日道代々咸是僧宝也、及門流大衆亦爾也」
(堅樹日寛『三宝抄』)


日寛はここで代々の法主が「僧宝」であり、同時に「門流の大衆」つまり在家信徒もまた僧宝であると書かれています。ちなみにこの『三宝抄』は大石寺29世日東による写本が大石寺に現存します。
つまり日寛の教義に従うのであれば、日蓮正宗三宝における僧宝は信徒全員なのではありませんか?(笑)
日寛がここで言う「末法下種三宝」とはもちろん最初に引用した宗門内事部の「文底下種の三宝」ということと同義のはずですものね。



日蓮正宗ってもうなんなんだかわかんないんですよ〜(笑)。意味不明です。
笑うしかないですよね。
日蓮正宗は少し教義を整理して、都合の良いことをその都度言うような体質を改善すべきかと思います。




追記:
まあそんなこと言っても日蓮正宗の信徒の方は「法主の内証の問題」とか「私たちは伺い知れない法主様のこと」とか「秘すべし秘すべし」とか、わけのわからない盲信で答えられることが多いので、なんの説得性ある回答も出てこないんです。
困ったものです。